第25話 帝都入り

 初冬の風がスカイブルーのローブを冷たく撫でた。ノイグリア帝国の帝都に、ようやくたどり着いた。石造りの城壁がそびえ、市場の喧騒が響く。露天商の声がスパイスの匂いと混じり、子供たちの笑い声が朝霧に溶ける。私はポケットの手紙を握り、教皇に届ける使命を胸に刻んだ。だが、ふと身体に重さが走る。旅の疲労だろうか。市場の活気が耳に響き、心がざわついた。


「マリー、平気か?」


 アレクの声が、監視役らしからぬ優しさで響く。粗末な鎧が朝日に鈍く光り、視線が私の顔を追う。その目に宿る熱い何かは、胸をざわつかせた。夫婦の演技とはいえ、最近のアレクは妙に親密だ。まるで私の疲れを気遣うように、眉を寄せて近づく。私はかすかに微笑んだ。


「……ええ」

「顔色が悪いぞ。無理はするな」


 彼の声に、気遣いを超えた何かがある。私は目を細め、ローブの裾を握りしめた。石畳が足元で冷たく響き、市場の果物の匂いが鼻をくすぐる。アレクが馬車を降り、御者に金を渡すと、私に手を差し伸べた。


「ありがとうございます」

「気にするな。宿まで送るだけだ」


 優しい人だ、と内心で呟く。彼の手を取れば、私を守ろうとするだろう。その熱い視線は、どこか不思議だ。市場は活気に満ち、色とりどりの果物や干し肉が並ぶ。私は小さなリンゴを手に取り、甘酸っぱい匂いをかぐ。疲労の重さが一瞬和らぎ、気分が軽くなった。


「マリー、疲れたろ。宿で休もうな」


 アレクが視線を逸らして言う。私は頷いた。


「……そうですね」


 小さな宿屋に着いた。木の扉が軋む音が、薄暗いロビーに響く。アレクが御者に金を払い、私を導く。まるで本物の夫のようだ。女将が「新婚さんね」と笑い、狭い部屋に案内した。一つのベッドしかない部屋。アレクと同衾することには慣れた。昨夜の行為、絡み合う刺激が脳裏をよぎるが、私は何も言わず部屋を受け入れる。アレクがベッドに腰掛け、女将から受け取った水筒を渡してきた。


「ありがとうございます」


 私は水筒を受け取り、一口飲む。甘酸っぱい匂いが広がるが、疲労の重さが再び襲う。弱音を吐くわけにはいかない。私はぐっと堪え、飲み込んだ。アレクが覗き込むように近づく。ランプの光が彼の顔を照らし、熱い目が私を捉える。


「どうした?」

「いえ……少し疲れただけです」


 私は答え、ゆっくりとベッドに横たわる。木の床の冷たさが足元に伝わり、古びた木の匂いが重い。目を閉じると、睡魔がすぐにやってくる。疲れていたのだろう。アレクの手が私の髪をそっと撫でる。その感触に、安心と不思議なざわつきが混じる。私は眠りに落ちた。


 意識が戻ると、部屋は薄暗く、夕陽がカーテンを赤く染める。私は寝ぼけた頭で身体を起こす。アレクがベッドに腰掛け、私の手を握る。その手は熱く、汗ばんでいる。私は目を細めた。


「おはようございます……」

「おはようじゃねえよ……体調はどうだ?」

「問題ありません」


 夕食の時間、宿の食堂でスープとパンを食べる。スープの温かい香りが喉を通り、疲れが和らぐ。木のテーブルのざらつきが手に伝わり、ランプの光が揺れる。アレクは食事に集中せず、私をじっと見つめる。行為の刺激がよぎり、胸がざわつく。私は顔に出さない。


「何ですか?」

「いや、なんでもねえ」


 用もないのに眺めるのか。人間の心は不思議だ。私は困惑しつつ、気にしないことにする。スープの塩気が舌に残り、帝都の喧騒が遠くに聞こえる。食事を終えると、アレクが私を部屋まで導く。彼の考える「夫」は、妻を大切にするものらしい。まるで本当に私を愛しているようだ。部屋の木の匂いが鼻をつき、ベッドの軋む音が静寂を破る。


「ゆっくり休めよ」

「……はい、おやすみなさい」


 私はベッドに横たわり、目を閉じる。疲労の重さが再び襲うが、この程度ならすぐに治るだろう。だが、アレクが遠慮なく同じベッドに潜り込む。彼の手が私の髪を撫で、頬に触れる。


「マリー……許してくれ」


 アレクのかすれた声が響く。彼の表情は苦しげで、罪悪感のようなものが揺れる。私は目を開け、彼を見る。彼の唇が近づき、舌を絡めるキスが続く。ぬめりとした感触に、疲労が奇妙に和らぐ気がする。だが、やりすぎは良くない。私は彼の胸を押した。


「アレク……ダメ……」


 彼は寂しげな表情で離れる。行為の楽しさが頭をよぎるが、私は止める。疲労は消え、睡魔が再び襲う。アレクの手が私の身体に触れる感触が残るが、嫌なことはされなかった気がする。私は眠りに落ちた。


 翌朝、アレクの寝息が隣で響く。彼の体温が触れ、汗ばんだ匂いが鼻をつく。私は身体を起こし、疲労の名残を振り払う。


「おはようございます」

「ああ、おはよう」


 アレクは眠そうに起き、欠伸をする。「マリー……もう少しそのまま……」と顔を近づけるが、私は彼を押し離す。


「アレク、顔を洗ってください」

「……ああ、わかった」


 彼は名残惜しそうに洗面台へ。私はその隙に着替えを済ませ、ローブの布擦れに安心する。アレクも旅装を整え、微笑む。その笑みに、不思議な熱が滲む。私は首を傾げた。


「大聖堂で何をするんだ? お前はヒーラーだけど、別に聖職者じゃねえよな?」

「……」


 手紙や王都の出来事は秘匿している。私は考え、真実を部分的に伝える。


「教皇に協力をお願いしにきました。アレクは、アストレア王国の治療院で何が起きているか知っていますか?」

「え?」


 私は貴族のヒーラー独占と第一騎士団の陰謀を伝える。アレクは考え込む。彼が騎士団ではなく、ただの王国兵なら、裏切りにはならない。私は目を細めた。


「王都の事や貴族の事情はわからねえ。だが、メアリー・リヴィエールが誰かを苦しめるとは思っていない。俺はお前を信じる」

「ありがとうございます」


 私は戸惑いつつ礼を言う。彼は私の目をじっと見つめ、手を握る。その手に、熱と罪悪感のようなものが混じる。私は胸がざわついた。


「マリー……俺は……」


 彼の声が震え、顔が赤らむ。私は首を傾げる。


「はい?」

「いや、なんでもねえ。行くぞ!」


 アレクは私の手を引き、宿を出る。帝都の石畳が朝霧に濡れ、遠くの大聖堂の鐘が響く。私は彼の手を握り返し、疲労を押し殺す。使命が胸を高鳴らせた。

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