第1話 運命の二人


   第一話 運命の二人



 突然降り出した雨に構うことなく、ある一人の少女は傘も刺さずに山中を駆けていた。それも、一人の少年を担いで——。

 陰浅葱色の正絹紬地の着物と黒い野袴に身を包み、腰には二尺三寸ほどばかりある日本刀を帯びた、まだ十代半ばの少女。刷毛漆はけうるしの塗られたその白い鞘を、さながら鶺鴒セキレイの尾の如く上下させ、野を駆けていた。

 ——一見すると、男性のような風貌の彼女。しかし、頭には世にも美しい繻子のごとき白銀の髪が肩口までしなやかに伸びており、雪をも欺く潤滑な白い肌がその華奢な体躯を覆っている。

 目鼻立ちの端麗さは言うに及ばず、長いまつ毛とその豊かな毛束にけぶる黄金色の瞳は、夜空に浮かぶ満月を想わせる。

 雨水に浸され泥と化した土壌を踏み締めるたび、草鞋わらじは激しく摩耗し、生ぬるい泥水が足袋たびの中へと染みていく。



 ——大昔、ある一人のお姫様が居た。彼女は非常に見目麗しく、この世で最も美しい、神秘の美貌を持っていた。しかし、その代償なのか、彼女の寿命は非常に儚く、二十年と生きられないだろうと占われていた。

 片やその姉は極めて醜く、見るに堪えないほど穢らわしい容姿をしていた。それはもう、この世における不浄の悉くを煮詰めた、——更にその煮凝りのような酷い醜悪さであった。だが同時に、彼女は永久的な命を身に宿し、不老不死の具現とされた。

 ——ある王子様は、その二人を嫁に迎え共に娶れば、二つの神秘は互いに結び合わさり、この世全ての美と永遠を手に入れられるだろうと告げられた。

 しかし、王子が嫁に迎えたのは、前者の姫だけだった。

 するとまもなくして、王子と姫は死んでしまうのだった。


 ——これを〝のろい〟と揶揄すれば、一方では〝まじない〟とも云う。



 令和二十一年——五月。

 月岡愛鐘は、自慢の白亜の美貌を雨で汚し、自身の家の門を叩いた。

「あ、愛鐘——⁈ どうしたんだ‼︎ ずぶ濡れじゃないか‼︎ それにその子は……」

 迎え出てくれたのは、月岡家剣術指南役の乃木若景よしかげ。彼は愛鐘の肩に担がれていた少年に目を見開いた。

 愛鐘は彼に、息を荒げながら必死に告げる。

「先生‼︎ この子、宇和島でイジメられていて……‼︎ 家にも帰りたくないって言うんだけど——」

 考えなしに言葉を連ねたが、それゆえに途絶してしまった愛鐘。彼女自身も、こうした状況における対応が分からずじまいだったのだ。

 しかし、乃木は思いのほか冷静で、寛大だった。

「——上がりなさい。まずはタオルで体を拭いて、すぐに着替えさせよう。顔の腫れが酷いから、お風呂はお預けだね。まずは一晩冷やさないと……」

 迅速な対応を見せる乃木に、愛鐘も出遅れることなく従った。

「はい!」

 すぐに少年を寝室まで運び、傷の処置を行う。

 特に酷いのは頭部だったが、他にも脚や肋の辺りに古傷と思しき痕跡が複数残っていた。左手の小指も不自然に外側へ曲がる癖があり、本来内側に曲がるはずの手指の関節に反していた。おそらく一度脱臼している。

 愛鐘は目に見える憶測を乃木に向ける。

「……この子、随分前からイジメられていたんじゃ……」

「家に帰りたくないって言うあたり、かなり家庭環境も複雑そうだね」

 処置はすぐに済んだが、彼の状態の酷さにはその不遇な生い立ちを感じざるを得ない。

 乃木は適当に自身のお下がりの着物を少年にあてがって、湿布まみれの彼の体を慰るように、そっと布団を被せた。

 当の本人はぐっすりと眠りについている。

「目が覚めたら見慣れない部屋の光景に卒倒するかも知れませんね」

「はっははは! かもね」

 ひと段落した乃木はひと笑いして立ち上がり、寝室を後にする。

「彼が起きた時用に、何か作ってあげよう。消化に良いよう雑炊とかが良いかな?」

 言いながら去っていく姿は、まるで独り言を喋っているようだった。

 いつも通りの景色を前に、安堵する愛鐘。

 その宵、少年が目が覚ますことはなかった。

 やがて朝日が昇りスズメが囀りを奏で始めると、彼の目蓋がゆっくりと開く。

 愛鐘の予想に反し、意外にも彼は平然としていて、落ち着いた様子で室内を見回した。見れば、すぐ目の前で白銀の美少女がうたた寝している。小さく端正な顔に、長い睫毛が規則正しく伸びていて、真っ白な髪はさながら雪のように艶やかだった。潤い豊かな肌は、そのふっくらとした質感が目測でも分かるほど瑞々しい。

 穏やかな寝息を立てて眠る彼女の美貌に思わず見惚れていると、その白い睫毛がゆっくりと開き始めた。

「……んん……」

 少年の眠る布団につっ伏せたまま、その御尊顔をあげる美少女。すぐに少年と目が合い、高血圧の賜物のような覚醒を見せた。

「——目が覚めたんだね!」

 何の予兆もなく起き上がり、少年の顔を覗きこむ愛鐘。そのあまりに神々しい双眸を、至近距離から浴びた少年は反動で仰け反り、頭を打った。

「あ、イッたぁ〜……あイッた〜……ッ‼︎」

 一瞬、その奇行に唖然とするも、愛鐘はすぐに吹き出してしまった。

「ぶふっ! あっはははは!」

 嘲笑ではない。思いのほか元気そうな彼の姿を見て安心したのだ。

「よかった、元気そうで……。怪我の具合はどう? 昨日土砂降りに打たれてちょっと体拭いただけだから、乃木先生が用意してくれた朝食を食べたら、お風呂入っちゃいなね! 浴場使っちゃっていいから! でも、まだ完治したわけじゃないと思うから、あまり長湯しない方がいいかも! それじゃあ、私は朝稽古に行ってくるから、またあとでね!」

 一人勝手に喋り尽くし、愛鐘は立ち退いてしまう。何やら急いでいる様子でもあった。

 再び部屋を見回し目に止まった電子時計には今日の日付が記されており、少年はおもむろに、その数字を独白する。

「……令和二十一年、五月六日、火曜日……。そうか学校か——」

 朝稽古とやらが終わったら学校に行かねばならぬのだろう。少年は勝手にそう解釈した。

 仕切りに腹の虫が鳴り、先刻の美少女の言葉を思い出す。

「(そういえば、乃木先生が朝食用意してくれてるとか言ってたが、誰だよ乃木先生って。——とりあえずその辺うろついてみるか……)」

 布団から身を出した少年は寝室を後にした。

 しばらく廊下を歩いていると、彼は十六畳ばかりある広大な居間に到着した。そこにはラッピングされたオムライスが用意されていた。

「…………」

 拒む理由もないので、少年はその場でいただくことに——。

 離れの道場から響く熾烈な打突音と、縁側を吹き抜ける風の音。そして、その風になびかれ慌てものの鳥の翼のような音を騒がせる緑を楽しみながら、少年は朝食を終える。

 あの美少女が朝稽古、と言っていたことから、おそらく道場の音は彼女のものだろう。

 少年がオムライスを平らげたあとも、その騒音は響き続けていた。彼はその脚で浴場へと向かい、昨夜の汚れを落としに行く。

 脱衣所で湿布を剥がし、患部の容体を確認する。腫れは退いたが、青紫色の痣が依然として現在中だった。

 少年はどこか慣れた様子で浴室へと入っていった。

 風呂はかなり大きく、浴槽は平均的な成人男性が三人ほども入れるスペースがあった。それを単身入浴しているのだから、少年は贅沢な気分を堪能して愉悦した。

「……檜風呂、最高……」

 風呂から上がり、体を拭き始めると、不意にコーヒー牛乳が欲しくなった。

 しかし、ここは温泉でもなければ旅館でもない。

「……流石にそれは強欲だよな……。こんなにも良い風呂を貸してもらっただけでも感謝しないとな」

 目の前の現実を真摯に受け止め、立派な檜風呂を貸してくれた名も知らぬ美少女へ心中感謝する少年。種としてのありのままの姿を解放し、気流を巻く扇風機の前で湯上がりの納涼に興じた。

 ——次の瞬間、悲劇が起こる。

 脱衣所の扉が、何の前触れもなく開いたのだ。

「——はぁ〜、今日も良い稽古だったわぁ………………へ?」

 まるで時が止まったかのような感覚だった。

 こればかりは、少年も現実を享受するのに時間を労したからだ。

 文字通り、正真正銘の天衣無縫を成す少年の全容を前に現れたのは、濡羽色の髪を二つに結いた同年代ほどの少女。汗に滲んだその黒髪が、瑞々しい光沢を放っていた。

 対する少年は、自慢の名刀で少女の臨場を出迎えた。——例えるなら、一竿子いっかんし忠綱ただつな

 先に状況を把握したのは少女の方だった。

 目前の情景を前に事の異質さを理解した彼女は、顔を真っ赤に沸騰させて狼狽する。

「えっ⁈ いやそのッ‼︎ ……ど、どどど、どちら様でええぇぇッ⁈」

 言語能力の破綻を見せる少女。

 少年は、そんな彼女を鋭く睨みつけた。

「……いつまで見てんだよ。とっとと閉めろよ」

「ごごごごごごめんなさいッ‼︎」

 バタンッ‼︎ と勢いよく扉が締め切られ、閑散とした脱衣所の空気に、少年は一際大きな舌打ちを鳴らす。

「——チッ」

 するとすっかり体が湯冷めしてしまったのか、彼はその場でうずくまってしまった。

「……見られたぁ〜〜〜〜〜〜〜っっ‼︎」



 慌ただしく、廊下の床板が軋みを上げる。

 濡羽色の髪の少女——遠星美海は動揺していた。そして今、彼女はその鬱憤を親友のもとへとぶつけに行こうとしている。

「ちょっと愛鐘大変よ‼︎ お風呂に知らない男の子が居て——‼︎ それでその、私——‼︎」

 しきりに脳裏をよぎる、少年の名刀。

 意識しまいと思考すればするほど、還ってその情景が幾度となく明滅し、その度に顔が蒸気を上げて灼熱する。

「ぅゔぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ‼︎」

 あまりにも刺激の強い恥辱を受け、美海は懊悩してしゃがみ込んでしまう。

 愛鐘はそんな彼女を不思議に思いながら、平然とした様子で応える。

「あ〜昨日宇和島で拾ったんだよ〜。そういえばまだ名前聞いてなかったな……」

 途端、美海の目が獅子の如く獰猛に先鋭し、愛鐘へと踏みよった。

「そういう事は先に言って貰わないと思わぬ事故を生むのよ‼︎ 全くあなたはいつもいつもそうやって能天気で楽天的で物事の進め方は三段飛ばしでなんで順序や筋と言うものを通せないのよだから鬼小町なんて呼ばれるのよ傍若無人で粗野なのも問題だけどあなたはまずそういう人として関わる上での最低限の常識を身につけて貰わないと——」

「——ここの家主はアンタらだけなのか?」

 とてつもない早口で愛鐘に切諌をまくし立てて美海だったが、その最中を斬り裂くかのように、先程の少年が二人のいる居間にやってきた。

 此処は先程、少年が朝食を摂っていた所だ。

 突然の来訪に、一瞬硬直する二人。

 瞬き一度で美海は先程の痴態を思い出してしまい、顔を伏せるように愛鐘の影に隠れた。

 愛鐘は、懐に潜む美海の頭を猫のように愛でつつ、正座したまま少年と向かい合う。

「オムライス、全部食べてくれたみたいで良かったよ。健康状態は問題なさそうだね」

「その節は世話になった。オムライス、美味しかったとシェフに伝えておいてくれ」

「シェフってwww。乃木先生はただの居候さんだよ」

「じゃあ此処には、その乃木先生とアンタらの二人しか居ないのか?」

「うん、そうだよ! 私の両親は御役人さんでね。滅多に家に帰って来ないの。だから、剣術指南役である先生が、私の面倒を見てくれているんだよ」

「じゃあそこの覗き魔は? 姉妹……には見えないけど」

「誰が覗き魔よ‼︎ 私には遠星美海って名前がちゃんとあるのよ‼︎」

「そうか。俺は唐沢からさわ癒雨ゆうだ。——それで? アンタはどう言う立ち位置なんだ?」

「私は此処の道場——太陰館の門徒よ。愛鐘と一緒に剣術を嗜んでいるの」

「剣術……」

「——あ、私は月岡愛鐘ね。月の岡に愛の鐘を鳴らすで月岡愛鐘。一応師範代やってます。それで、癒雨くん? は、お家に帰りたくないって言ってたけど、何か事情があるの?」

 愛鐘の問いに、癒雨は一瞬、沈黙した。

 一頻り置くと、まぶたを伏せて応じる。

「……まぁな。でも、アンタ達には関係ないことだから気にしなくていい。昨夜は世話になった。助かったよ。ありがとな」

 踵を返し、癒雨はその場を立ち去ろうとした。延いては、この月岡邸から立ち退こうとした。愛鐘はその挙動を瞬時に見破った。その上で、彼の背中を呼び止める。

「——待って!」

 一際大きな声が響き、意図せずとも癒雨の足が止まった。

 振り向く彼に、愛鐘は月魄の瞳を力強く光らせた。

「戻るつもり? 宇和島に……」

「それしかないだろ。どのみち金もない。あそこを離れずして生活は出来ない」

「でも、癒雨くんの体の傷、ただごとじゃないよね? そのまま家に戻っても、また同じ目に遭うんじゃない?」

「………………」

 その通りだ。一度助けられただけだ解決する話ではない。人間の陰湿な執着心というものはそう容易く薄れるものではない。

 癒雨は、これからまた訪れるであろう現実に震える体を、拳を握って抑え込む。懐で、その脆弱な心を悟られぬように——。

「さっきも言ったが他に行く宛はないんだ。これが俺の運命だ。受け入れるしかない」

「——なら、うちにしばらく居るといいよ」

「は——⁈」

「愛鐘——⁈」

 癒雨と美海の動揺が重なった。

 なんの冗談かと疑わしげな目を向ける二人だが、愛鐘は至って真面目だ。

「居候の一人や二人増えたところで別に問題ないよ? 見ての通り部屋も沢山余ってるし」

 確かに、薄々感じてはいたが、この屋敷は愛鐘の乃木先生の二人で住むには明らかに広すぎる。敷地の約八割を持て余している。

「……いや、でも……」

 迷惑だろう——と言おうとした癒雨の口を、愛鐘は真っ向から閉ざす。

「〝迷惑だろ〟って思うなら、ここで強くなってから宇和島に帰って」

「————⁈」

「一方的に虐げられて傷ついている子を、助けられる余裕があるのに見過ごすほど、私の士道は落ちぶれちゃいないからね。癒雨くんがどれだけ拒んでも、貴方はこれから、私が徹底的に鍛え上げます」

「い、いや……もう充分助けられたよ。ありが——」

「言い方が悪かったかな? 私にとって人を助けることって、一度手を施してお終いじゃないんだよ。ちゃんとその人が、私が居なくても健やかに自立できるよう、導いてあげることなの。だから癒雨くん。貴方にはこれから此処——太陰館で武術を学んでから帰ってもらいます。私が良しと言うまで、絶対に帰らせません。脱走などと言うバカな発想にも至らぬように——」

 マジかこの女——。

 常識外れな彼女の発想に、唖然とする癒雨。これが武士道と言うものなのだろうか——。

 有無を言わさず、そんな横暴を吐き散らかした愛鐘は本気だった。

 その夕、学校から帰ってきた愛鐘は真っ先に北東側の寝室へと向かい、昼寝をしていた癒雨を道場へと引っ張り出した。

「——さぁ! 稽古を始めるよ!」

 癒雨の稽古は完全な特例扱いだったため、月華縫陰流の門下生達とは別で行い、指南は愛鐘が担った。その間、乃木は決まって夕食の準備をしている。

 太陰館の本来の稽古日は、毎週月曜日、金曜日、土曜日、日曜日の、午後十六時半から十八時半までの二時間。この間、癒雨には見学、ないし自主練をさせた。

 最初に教えたのは武の心構えと稽古前の所作。そして、抜刀と納刀の基本操作。美海に教えた事と差して変わらぬ技術を愛鐘は癒雨へと伝授した。——ただ、美海と癒雨の決定的な違いはその上達速度だった。美海も剣術の才能には長けており、その成長速度は実に目覚ましいものだったが、癒雨は比ではなかった。

 一番難しいとされる抜刀基本の弐・一ノ胴を、たった数時間で取得してしまったのだ。この技は、抜き打ちに相手の胴に真っ直ぐな横一文字を刻む抜刀術だが、鞘から放たれた刀身がどうしても斜めに走ってしまったり、威力が途中で失速してしまうなど、完遂させることが非常に困難な技だった。

 しかし、癒雨はものの三時間で習得し、巻藁を二枚も両断することが出来た。

 彼の潜在能力の高さには、愛鐘も目を瞠った。見掛けに寄らない才能と、自身の立場の危うさに危機感を覚えたのだ。

 そこからは型稽古に入り、ある程度流儀の世界観を覚えてくると、ついに撃剣稽古へと移った。

 道場を駆け回る音が、慌ただしく響く。

 高揚する呼吸と体温に、触発された人体が流麗に舞い踊る。

 重なり合う木刀に、弾む空気。奏でられる剣戟はどこか澄み渡っていて、無限に広がる青い空のようだった。

「——おぉ〜‼︎ スゲェよ互角だ‼︎ あの愛鐘が苦戦してるぞ‼︎」

「イケイケェ‼︎ やっちまえ癒雨‼︎」

「鬼小町に一泡吹かせちまえ‼︎」

 湧き上がる観客に、競り合う愛鐘の頬が緩む。その不適な目の色に、癒雨は危機を察知。すぐさま飛び退き間合いを取る。

 直後、愛鐘の後ろ足が跳ねた。

 一足での二足跳び。さながらカラスの如し足捌きで後退した癒雨の間合いへと一息に詰め寄る。同時に右脇に忍ばせた木刀の柄を左手のみで自在させる。

 鋒が、癒雨の想定を上回る距離まで跳ねた。

 一瞬、唖然とした癒雨だったが、それもまばたき一度にも満たない刹那——前足を退いて半身になり、紙一重で振るわれた横一文を凌ぐ。

 愛鐘の木刀は振り切られてもなお、反りの分だけ鋒が癒雨の胴を捉えていた。

 刺突を想定した癒雨はその延長線上から抜重を用いて抜ける。

 千鳥のような足捌きで左右斜め前に弾み、二歩目で愛鐘の間合いに入る。

 担ぎ上段からの一閃を振り下ろす癒雨。

 だが、愛鐘はこれを二寸五分の影を踏んで躱し、切り返した癒雨と激戦を繰り広げる。

 熾烈に明滅する両儀。

 一対一の撃剣がこれほどまでに長引くことはそうない。だからこそ、観客も愕然とし、息を呑んだ。

「……す、スゲェ……」

「異次元すぎるだろ……」

「もう彼、美海ちゃんより強いんじゃない?」

 同門の言葉に、美海は気に食わなそうに顔を顰めた。

 けれど——。

 心底楽しそうに、大輪の花のような笑顔を浮かべて稽古に励む愛鐘の姿を見るのは初めてだった。

「……気に入らないけど、愛鐘が楽しそうだから……」

「確かに。月岡さんがあんなはしゃぐのって珍しいかもね」

「月岡さん、対等にやり合える人が今まで居なかったもんね〜」

「……うん」

 美海達の言う通り、癒雨との稽古は、愛鐘にとっては至福の一時だった。彼自身がどう思っているかは解らない。けれど愛鐘は、毎週訪れる稽古日を待ち遠しくも切望し続けた。

 癒雨が居るから、愛鐘は自分の本領を発揮できる。

 時には——。

「——愛鐘、撃ち込みの弐なんだけど、仕太刀って最初肩台だっけ?」

「そうだよ! ちょっとやってみる?」

「頼む」

 癒雨の方から頼ってくれたりすることもあって、——嬉しかった。

 何しろ今までは喧嘩三昧の日々ばかり送ってきた愛鐘だ。純粋に、愛鐘の技術と知識を見込んで頼って来てくれる人は、異性では初めてだった。同性でも美海くらいだろう。

 基本的に、神聖視されるか疎まれるかで、悉くから距離を置かれてきた愛鐘にとって、癒雨の存在は着実に心の拠り所となり始めていた。


 ——そして、時は着々と進んで行き、令和二十二年の秋へと戻る。


 徳島県の同じ高校に入学した二人は、今もなお変わることなく同じ屋敷に住んでいる。

 登下校も決まって同行し、昼休みもラウンジで一緒に食事を済ます。そうして四六時中一緒に居た為に、周囲からは二人が交際しているという旨の噂が飛び交っていたりもする。——ただ、実際そんな事実はなく、二人は今も良き道場仲間のままである。

 一つ気がかりなのは、癒雨が八年も家出状態にあるのに、彼の両親が全く干渉してこないことだ。

 愛鐘は癒雨が大成するまで帰らせないと言ったが、保護者が出てくれば話は別だった。その時は潔く帰すつもりでいた。

 しかし、現実は今、愛鐘のすぐ隣にある通り——。

 夕暮れの帰り道。愛鐘はふいに、出会ったばかりの頃を思い出した。

「最初はあんなに嫌がってたのに、今では随分と楽しそうだよね、癒雨くん」

「嫌がってたか?」

「嫌がってたよ〜。早々に宇和島に帰ろうとしてたじゃん!」

「あぁ……そりゃあお前、初対面の女に強くなるまで泊まり続けろとか言われたらビビるだろ」

「あっはは確かに!」

 我ながら、自分の奇天烈ぶりに苦笑する愛鐘。

 思えばいつからだろう——自分の異端を自覚し始めたのは。以来、愛鐘は少しずつ人に並び始めていた。

「それで? もう随分強くなったのに、どうして宇和島に帰らないの? 癒雨くんが今もここに居続ける理由って、なに?」

 愛鐘はこれ見よがしに挑発的な笑みを浮かべ、癒雨の横顔を覗く。

 彼女が期待していた言葉はただ一つ——〝愛鐘との稽古が楽しいから〟——そう言って欲しかった。

 けれど——。

「いやいやまだまだだろ。まだ愛鐘に勝ててないし。多少お前とやり合えるってだけで、なんだかんだいつも負けてるか引き分けだ。全然足りてないよ」

「むぅ〜っ」

「なんだよ。事実だろ」

「えぇ〜えぇ〜そうだねそうですね! じゃあ私に勝つまで帰省禁止だね!」

 不貞腐れながらとんでもない条件を提示する愛鐘。

 だが、癒雨とて元々そのつもりだった。彼にとっての強くなった証というのは、愛鐘を打倒し得る力のことだから——。

 頬を膨らませてそっぽむいた愛鐘は、密かに独白する。

「……別に、強くなんかならなくたって、私が守ってあげるのに……」

 癒雨のためを思うなら、彼には強くなって欲しい。

 しかし、愛鐘個人からすれば、このままずっと、道場に居続けてほしいというのが本音だった。そんな矛盾した劣情を抱えつつ、愛鐘は癒雨の隣を歩き続ける。

「——今日夕飯どうしよっか」

「寒くなって来たし、鍋とか良いかもな」

「おっ! いいね〜‼︎ せっかくなら美海ちゃんも呼ぼう! あ、それと、シャンプーもそろそろ切れそうだったんだった! 買って行かないと」

「だな」

「ていうか、私と同じの使ってるけど、癒雨くんこのままで良いの?」

「特にこだわりないからな。種類が増えればその分負担になるだろ。良いよこのままで」

「……癒雨くんはいつだって合理的だね……」

 相変わらず、彼が望み通りの答えをくれることはなかった。



 ——鍋パーティーに誘われた美海は、到着早々、鼻を萎めながら顰めっ面を浮かべた。

 居間の襖を開ければ、ストーブの効いた暖かい空間に、テレビの音声がそよいでおり、乃木を上座として癒雨と愛鐘が並んで座っていた。

 美海が顔を顰めたのは、この二人から、全く混じり気のないフローラルな香りが漂ってきたからだ。それが彼女にとってはとことん気に入らなかった。

「……前々から思ってたけど、唐沢って悉く愛鐘と同じ洗剤使ってる? シャンプーとかリンスとか柔軟剤とか……」

「そりゃあ同じ家に住んでるからな」

「死ね」

「なんでだよ‼︎」

「愛鐘はそれで良いわけ?」

「……まぁ、ほら……その分生活費浮くし!」

「この家の財政なら一人分の洗剤くらい増やしたって問題ないでしょ……」

 どうやら美海は、癒雨から愛鐘と同じ匂いが漂うことを潔しと出来ないらしい。

「細けぇこと言ってねぇで早く座れ。もう鍋良い感じだぞ?」

「うっさいアンタが仕切んじゃないわよぶっ殺すわよ‼︎」

「俺にだけ当たり強くねお前‼︎」

 ある程度癒雨への悪態に区切りをつけると、美海は大人しく腰を下ろした。無論愛鐘の右隣。左側に居る癒雨を避けるように正座した。

 癒雨は、そんな美海の態度に怪訝した。

「……俺、お前になんかしたか?」

 眉根を寄せる彼に、美海はもはや視線すら合わせない。

「べつに……」

「ひでぇなおい。何もしてねぇのにこんな悪態つかれてんのか俺……。遠星が嫌なら別にいいけどさ、出来れば俺は、お前とも仲良くしたいよ」

「出たわね! この妖怪女たらし‼︎」

「失礼だな純愛だよ‼︎」

「はァ——ッ⁈」

 施無畏印を両手いっぱいに広げる美海と、人差し指を掲げ構え合う癒雨を前に、愛鐘が発狂した。

「ゆゆゆゆ癒雨くん‼︎ じゅじゅじゅじゅ純愛ってなに⁈ どういうこと——ッ⁈ み、美海ちゃんのこと……そ、その、好きなの——⁈」

「何言ってんだお前……ンなわけねぇだろ」

「さすがは愛鐘。このネタを知らないとは……。先生は知ってるわよね?」

「あぁ。あの呪いに立ち向かう少年漫画だったかな?」

「しょ、しょうねんまんが?」

「あ〜あ、また愛鐘のジェネレーションギャップが出ちゃった。江戸時代で時が止まってるお姫様はこれだから……」

 嘆息し、呆れた様子を見せる美海。まさかこの時代において少年漫画という概念を知らないとは——。

 これには、さすがの癒雨も驚いた。

「先が思いやられるな……。世間知らずにも程があるだろ……」

 すると、乃木先生が突拍子もなく発言を始める。

「あ、先といえば——。君たちが高校生になって、もうその一年目も暮れるわけだけど、何か将来の夢とかはあるのかい?」

「唐突ね……。来年の抱負を踏まえてってこと?」

 座布団に座り直し、再び鍋へと向かう美海。彼女の回答を待たずして、先生の問いには癒雨が先に応じた。

「——俺は、この国の未来を斬り拓ける人間になりたい。明るい未来を示せる人間に——」

 しきりに、先程まで気にも止めていなかったテレビの音声が一際大きく聴こえた。

『——防衛費を増やすための増税をめぐり、政府・与党は所得税に五%上乗せする『防衛特別所得税』を設け、来年の春より施行する方針を固めました。加えて、外国人労働者と留学生の急増に伴い、昭和二十九年に創設された『国費外国人留学生制度』を増加させるため、消費税を二〇%まで増税。更に新しく『国費外国人労働者支援制度』を新設すると発表しました。これらも同じく来年の春より始まる予定です。これには野党や世論から、更なる財政の困窮を肥大化させると、不安の声が寄せられています』

 報道を受け、思わず美海が失笑する。

「……うわ、さすがは移民至上主義国家……。国民主権はどこへやら……」

「なんでこんなにも移民に対して懐広くするんだろうね。この前も、外国の人が二十歳の日本人女性を切りつけたってニュースになってたよね? それなのにどうして……」

「さぁ〜な……」

 まだ高校生ながら、現行情勢に対して深い興味関心を寄せる美海と愛鐘に対し、癒雨は年相応に無頓着だった。——いや、ある意味呆れているようにもとれた。

 テレビには目も暮れず、癒雨は目蓋を伏せて目前の鍋の味を楽しみ続ける。

「それで? 愛鐘達は将来、何か考えてるのか?」

「いやその前によ! 貴方さっき、この国の未来を斬り拓ける人間になりたいとか言った? バカじゃないの⁈ なに思い上がってんのよ! ちょっと強くなったからって、自惚れも甚だしいわよ! この宿無し家出居候バカ‼︎」

「え、酷くね?」

「そういう美海ちゃんは、将来何になりたいの?」

「わ、わたし——⁈ ……私は……」

 微笑む愛鐘に、美海は口ごもった。

「……私は、愛鐘と一緒に居られれば、別になんでも……」

「お前だって他人の懐に執着してんじゃねぇか。人のこと言えねぇな!」

「何よなんか文句あんの⁈ ぶっ殺すわよ⁈」

「やるかゴルァアァ‼︎」

 再び腰を上げ、殺伐と向かい合う癒雨と美海。

 二人の慣れ親しんだ光景に、自然と愛鐘はまた頰を緩めた。

「もう、二人ともいい加減にしなさい!」

 騒がしくも和やかな日々に、彼女は絶えず笑った。

 咀嚼するたび、愛鐘の中で無造作に回帰する、離れていったはずの幸せ——。


『——悪いけど、もうついて行けんわ』

『——愛鐘ちゃんにはもう少し、私たちに寄り添って欲しかったかな……』


 ——時代遅れの化石。

 ——戦国の亡霊。

 ——人の皮をかぶった怪物。


 そんな汚名と共に、門は解体された。

 ——だけど。


 諍い合いながらも賑やかに鍋を囲む癒雨と美海。そして、それを見守る乃木先生と共に、愛鐘は温かな鍋の温もりを噛み締める。願わくば、この幸福が、永久に続いていくことを祈って——。


 一頻り笑うと、愛鐘はこの暖かく心地の良い空間に酔いしれた。

「——私は、これからもこんな何でもない日常がずっと続いて欲しいな。その為の努力をこれからもしていきたい。将来の夢があるとすれば、それは——」

 一座を見上げ、彼女は望月の輪郭を模して微笑んだ。

「——このまま皆んなと家族みたいになれたらなって」

 一瞬、一座は思わず、その淡い月光に恍惚とした。

 先に動揺したのは美海だった。

「か、かかかか家族って——‼︎ 日本じゃ同性婚は認められてないわよ‼︎」

「バカじゃねぇの。そういうこと言ってんじゃねぇだろ」

「————っ⁈ うっさいわね分かってるわよぶっ殺すわよ‼︎」


 ——そう。

 こんな日和が、ずっと続くと信じていた——。


 ——年は明け、時は令和二十三年二月末。

 東京都・山王下付近で、内閣総理大臣・斎場誠司首相が、何者かによって暗殺される。警視庁は、を容疑者とし特定し全国に指名手配。——のちに動乱の幕開けとなるこの事件の発生は、まだ少し先のお話。

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