第26話 長良川の嵐、届かぬ声


 美濃の国が、燃え上がろうとしていた。


 父と子の争いは、もはや言葉で止められる段階をとうに過ぎ、互いの存亡を懸けた戦へと突き進んでいた。


 その報せは、俺の信頼する忍びからもたらされたが、それよりも早く、海の元へと届いていた。

 信頼する侍女・楓が、命がけで繋いでいる美濃との連絡網を通じて……


 いつもの東屋に集まった時、海の様子は明らかにいつもと違っていた。

 その顔は青白く、完璧に保たれていたはずの冷静さには、僅かなひびが走っている。


「……父上と、兄上が、ついに兵を挙げました。長良川を挟んで、両軍が対峙している、と」


 彼女は、努めて淡々と報告する。

 だが、その声は、自分でも気づかぬほどに微かに震えていた。


 報告書を握りしめる彼女の指先は、血の気が失せ、白くなっている。


「海……」


 空が、たまらず海の隣に寄り添い、その冷たい手を両手で包み込んだ。


「大丈夫だよ。大丈夫だから……」


 海の張り詰めていた心の糸が、その温もりで少しだけ緩んだように見えた。


 やがて、海は顔を上げると、床に一枚の地図を広げた。


「父上の兵力は、兄上の三分の一にも満たない。

 普通に戦えば、まず勝ち目はありません」


 彼女は、震える指で、地図上の一点を指し示した。


「ですが、もし、この地に伏兵を置くことができれば……

 ここは、長良川でも特に流れが複雑で、対岸からの進軍が困難な場所。

 幼い頃、父上から、この地の重要さを何度も教え込まれました。

 ここを突けば、万に一つ……勝ち目があるやもしれません」


 海は、顔を上げて俺を見つめた。その瞳には、懇願の色が浮かんでいる。


「殿……お願いです。この事を、父上にお伝えする手立ては……ございませんか?」


 それは、国主としては、決して受けてはならない願いだった。


 他国の内紛、それも、血を分けた親子の争いだ。

 下手に介入すれば、斎藤義龍に尾張侵攻の口実を与えることになりかねない。

 何より、合理的に考えれば、彼らが共倒れになるのを待つのが、最も利口なやり方だろう。


 だが、俺の目の前にいるのは、織田信長の正室・帰蝶ではない。

 大切な幼馴染み、必死の想いで俺に助けを求める、藍井海なのだ。


「……分かった」


 俺は、短く応えた。


「俺の配下で、最も足の速い忍びを一人、死ぬ気で走らせる。だが、戦はもう始まっている。間に合う保証は、どこにもない。……それでも、いいな?」


「……はい」


 海は、深く、深く、頭を下げた。

 その肩が、小さく震えているのが見えた。

 密会が終わり、俺は一人、天守から美濃の方角を見つめていた。


 そこへ、静かな足音が近づいてくる……海だった。

 彼女は、俺の隣に立つと、同じように遠い故郷の空を黙って見つめていた。


 俺は、何を言うでもなく、自分の着ていた羽織を脱ぎ、そっと彼女の肩にかけた。


「……冷えるぞ」


 それだけ言うのが、精一杯だった。

 海は、驚いたように少しだけ肩を揺らしたが、やがて、その温もりに身を預けるように静かに佇んでいた。

 遠くの渡り廊下から、空がその様子をじっと見ていた。


 少しだけ、胸の奥がチクリと痛む。

 でも、彼女はすぐにその小さな痛みを飲み込んだ。


(今は、海のために……)


 空は、二人の邪魔をせぬよう、静かにその場を立ち去った。



 忍びを放ってから、三日が過ぎた。


 城内の時間は、まるで止まってしまったかのように重苦しい沈黙に支配されていた。


 俺も、空も、海も、それぞれの場所で、ただひたすらに西の空からの報せを待っていた。


 そして、運命の報せは、一人の伝令によって、あまりにも無情にもたらされた。

 広間に転がり込んできた伝令は、顔面蒼白で叫んだ。


「も、申し上げます! 長良川の戦い、決着!

 斎藤山城守様、御子息・義龍様の軍勢に敗れ、討ち死に!

 我らが放った使者は……間に合わなかった模様にございます!!」


 その言葉が、最後の引き金だった。

 今まで、かろうじて気丈に振る舞っていた海の瞳から、せきを切ったように大粒の涙が溢れ出した。

 彼女は、その場に静かに、そして深く崩れ落ちた。


 俺も空も、彼女に掛けるべき言葉を何一つ見つけられずにいた。

 ただ、嵐が過ぎ去った後のような、どうしようもない無力感と、これから始まるであろう新たな戦乱の予感だけが広間に満ちていた。


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