閑話①:月の考察、魂の残滓
【視点:海(帰蝶)】
夜気が、肌を静かに撫でていく。
那古野城の奥まった一室。正室「帰蝶」に与えられたこの部屋は、いつも完璧な静寂に満たされている。
わたくしは文机に向かい、故郷である美濃の父・斎藤道三に宛てる書状の続きを綴ろうとしていた。だが、筆を持った手は一向に進まない。
(……集中できない)
まるで、わたくしの心の揺らぎを映したかのように。
藍井海としての冷静な思考が、ここ数日の出来事に警鐘を鳴らし続けている。
それは、わたくしの大切な二人が見せた、ほんの僅かな、しかし見過ごすことのできない「違和感」だった。
一つは、大地(信長)
数日前の軍議でのことだ。父・信秀亡き後の家中の統制について、ある旧臣が古くからの慣習を盾に、大地の新しい政策に異を唱えた。
その時、うつけの仮面で「ふむ、分からんなあ」と
(……あれは)
思い出そうとするだけで、背筋が冷たくなる。
それは、「緑野大地」の苛立ちではなかった。
家臣の甘い意見を、存在そのものを否定するかのような、絶対的な冷酷さ……
まるで、目の前の障害を「斬り捨てよ」と命じる寸前の覇王の眼差し。
すぐに彼はいつものうつけの笑顔に戻ったが、あの瞬間の冷ややかな覇気は、間違いなくこの肉体の元の主、「織田信長」そのものの片鱗だった。
そして、もう一人。わたくしの双子の姉、空(吉乃)
昨日、庭園の東屋で、わたくしが大地と二人、稲生の合戦の後始末について密かに策を練っていた時のことだ。
少し離れた場所を、空が侍女たちと談笑しながら通りかかった。
こちらに気づいた空は、いつものように「あ、大ちゃん!」と手を振りそうになり……そして、隣にいるわたくしの姿を認めた瞬間、その笑顔が張り付いたように凍りついた。
すぐに空は、慌てたように目を伏せ、侍女たちとの会話に戻る。
だが、その一瞬の横顔に宿った色を、わたくしは見逃さなかった。
深い
そして……
現代にいた頃の空なら、絶対に浮かべない表情だった。
太陽のように明るく、少々強引でも、他人の立場を羨むような湿った感情とは無縁だったはずの姉……
あの表情は、信長の正室である「帰蝶(わたくし)」と、二人きりで親密に話す「信長(大地)」の姿を見てしまった、「側室・吉乃」としての、悲しみと不安そのものではなかったか。
わたくしは、そっと筆を置いた。
文机の脇に置かれた小さな銅鏡に、自分の顔がぼんやりと映っている。
涼やかな目元、通った鼻筋。藍井海だった頃の面影は薄く、そこにあるのは「美濃の姫君」としての、整ってはいるがどこか能面のような無表情だ。
そして、わたくしは気づいている。
この「違和感」は、二人だけの問題ではないことを……
「……侍女に、明日の茶の準備を言いつけねば、なりませぬね」
独り言として、静かに零れ落ちた言葉。
その言葉遣いに、わたくし自身が、はっと息を呑んだ。
(……今、わたくしは)
「~にございます」「~に存じます」
この、古風で堅苦しい言葉遣い。
最初は、藍井海が「帰蝶」という姫を演じるための、必死の「演技」だったはずだ。
だが、今はどうだ?
あまりにも自然に、思考よりも先に、この「帰蝶」としての言葉が口をついて出てくる。
朝、目覚めた時に侍女へかける言葉。
茶を飲むときの、指先まで意識された所作。
それらはもはや、「藍井海」が努力して行っているものではなく、この肉体が、あたかも元から知っていたかのように、わたくしを動かしている。
(……私たちは、転生したのでは、ないのかもしれない)
ぞわり、と悪寒が走る。
私たちが、緑野大地、藍井空、藍井海として、信長、吉乃、帰蝶の肉体を「上書き」したのではないとしたら?
(もしも……混ざり合って、いるのだとしたら?)
わたくしは、一つの恐ろしい仮説にたどり着く。
脳だけではない。この肉体を構成する臓器、筋肉、その細胞の一つ一つに、「元の主」の記憶や魂の
私たちは、新しい器を得たのではない。
元の主が遺した器の中で、その残滓と、混ざり合い、あるいは「浸食」され合っている最中なのではないか。
もし、そうならば……
大地は、現代日本の倫理観を持った緑野大地でありながら、同時に、天下布武のためなら肉親すら切り捨てる「魔王・信長」の非情さに、徐々に引きずられていく。
空は、太陽のように明るい藍井空でありながら、同時に、信長に最も愛されたというが故の不安と正室への劣等感を抱えた「側室・吉乃」の弱さに、心を飲まれていく。
そして、わたくしは……
その時、わたくしの胸を最も強く突いたのは、恐怖よりも、別の感情だった。
空(吉乃)が、もし「吉乃」の感情に飲まれかけているのだとしたら。
その引き金は、間違いなく「正室・帰蝶」である、わたくしの存在だ。
(……うしろめたい)
その感情が、冷徹であろうとする思考の表面を、鋭く引っ掻いた。
空は、姉だった。
いつもわたくしの一歩前を歩き、内気だったわたくしを守ってくれた、たった一人の双子の姉。
それなのに……この戦国の世では、わたくしが「正室」という揺るぎない立場にあり、空は「側室」という、いわば格下の不安定な立場に置かれている。
わたくしが望んだわけではない。
だが、この厳然たる事実が空の心を傷つけ、あの「嫉妬」の表情をさせたのだとしたら。
わたくしが「正室」として大地と策を練ること自体が、空を「吉乃」の感情へと追いやっているのだとしたら。
わたくしは、どうすればいい?
空のために、大地と距離を置く?
いいえ、それはできない。それでは、三人で生き残るという目的を果たせない。
では、この「うしろめたさ」を抱えたまま、空の心の変化に気づかぬふりをする?
それも、できない。
わたくしは、ぎゅっと唇を噛んだ。
この「うしろめたさ」こそが、わたくしが「藍井海」である何よりの証拠だ。
空を大切に想う、双子の妹としての証だ。
ならば、この感情に流されては、いけない。
わたくしは、ゆっくりと立ち上がり、障子を開けて縁側に出た。
冷たい夜気が、乱れた心を鎮めていく。
空には、雲一つない。
ただ、冷え冷えとした月が、地上を青白く照らしていた。
(……決めた)
大地が、「信長」の激情に飲まれかけているなら。
空が、「吉乃」の弱さに飲まれかけているなら。
わたくしが、防波堤になる。
この「浸食」されつつある言葉遣い。所作。思考。
これは、恐怖ではない。「適応」だ。
いいえ、わたくしが生き残るための、「武器」だ。
わたくしは、この「帰蝶」という肉体に残る魂の残滓を拒絶しない。
むしろ、利用する。
「斎藤道三(まむし)の娘」として、幼い頃から叩き込まれたであろう、冷徹なまでの政治的思考と権謀術数。
それと、「藍井海」としての、現代の知識と、客観的な分析力を、ここで完全に融合させる。
わたくしが、完璧な「正室・帰蝶」になる。
感情に流されず、ただ冷徹に情報を集め、的確な策を練り、時に大地を導き、時に空を守る、絶対的な「月の姫」に。
わたくしが、この城で最も冷たい仮面を被ることで、大地が「緑野大地」として悩み、空が「藍井空」として笑える時間を、一秒でも長く守り抜く。
それが、わたくしが「正室」という立場を引き受けてしまった、双子の妹としての償いであり、覚悟だ。
「空、大ちゃん……」
月に向かって、そっと呟く。
「あなたたちが、あなたたちでいられるように。
わたくしは、この『帰蝶』の魂ごと使いこなしてみせる」
その時、わたくしの瞳に映っていたのは、もう葛藤の色ではなかった。
美濃の姫として、そして二人の幼馴染を守る者として、運命に立ち向かうことを決めた、静かで、しかし鋼のように強い光だった。
わたくしは部屋へ戻ると、再び文机に向かった。
今度は、迷いなく筆を取る。
父、道三に宛てて。
そして、わたくしたち三人の未来のために……
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