第5章:闇を抱えた光 - 5「影の荒野」

陽菜は力なく航に預けられたまま、ほとんど反応がない。

体は冷え切り、髪は顔に張りつき、濡れた服が彼女の小さな身体をより一層縮こまらせていた。


航は彼女を支えながら周囲を見渡す。

視線の先、公園の向かいにぽつんと灯る小さなビジネスホテルの看板が目に入った。

「……あそこに行くぞ。」


答えを待たず、航は陽菜の肩を抱き直し、泥のような水たまりを踏み越えてホテルへと向かった。


雨に濡れた二人がホテルの自動ドアを抜けると、ひんやりとした空気と白い蛍光灯の光が出迎えた。

受付のフロント係が一瞬驚いた顔を見せるが、すぐに事務的な笑顔に切り替わる。



「……すみません。一泊、お願いします。」


航が小声でそう告げ、財布からカードを取り出す。


「何かございましたら内線でお呼びください。」


手渡されたカードキーを受け取り、航は陽菜を支えながら静かにエレベーターへ向かった。


エレベーターの中、陽菜はほとんど身を預けたまま、震えながら小さな声で呟く。


「ごめんなさい、先輩……迷惑、かけて……」


「いいから、今は何も言うな。」


航の声は少しだけ強い。


ドアが開き、航はカードキーを差し込み、部屋のドアを開ける。


シンプルなビジネスホテルの一室。

ベッドがひとつ、デスク、椅子、そして小さなユニットバス。



「シャワー、使え。風邪ひくぞ。」


航はバスルームを指差しながら、部屋の備え付けのタオルを引っ張り出して陽菜に手渡す。


陽菜は頷き、ふらつきながらバスルームへ向かう。

その後ろ姿を見送り、航は濡れた髪を手でかき上げながらため息をついた。


「……俺も風邪ひきそうだな。」


その瞬間、ベッドの上に黒い影がふわりと現れる。


「お前の方が先に倒れたら笑えねぇな。」


「……カゲ。」


航が振り返ると、カゲがいつものように尻尾をゆっくりと揺らし、ベッドの端に座り込んでいた。


「おいおい、ここビジネスホテルだぞ。猫は宿泊禁止だ。」


航が皮肉っぽく言うと、カゲは金色の瞳を細めてふんっと鼻を鳴らす。


「なんだよ、あのガキを助けたヒーロー気分もつかの間、俺を邪険にするとはな。お前、恩知らずだな。」


「ヒーロー気分じゃねぇよ。お前がいなきゃどうにもならなかっただろ。」

カゲは満足げに尻尾を一振りした。

「ふふふ。そうだろ?感謝しろよ?」


バスルームの水音が止まる。

航は小さな電気ポットに水を入れ、コーヒーとインスタントスープを探し出す。

手元のカップを二つ並べ、熱湯を注いで湯気が立ち上った頃、バスルームの扉がゆっくりと開いた。


タオルで髪を拭きながら陽菜が出てくる。

先ほどの虚ろな表情よりは少しマシだが、目にはまだ疲れと怯えが残っている。


「……これ、飲め。」
航はカップを差し出す。

「スープ。温まるから。」


「ありがとうございます……」


陽菜はカップを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと一口すすった。

航はそれを見届けてから、ベッドの上に座るカゲを見やる。


「……おい、カゲ。紹介しとくぞ。」


航が苦々しく言うと、陽菜がきょとんとした顔で航を見る。


「紹介?」


「……こいつだよ。」


その瞬間、カゲがひょいと陽菜に視線を向け、軽く頭を下げるような仕草をした。


「どうも、はじめまして。俺はカゲ。ま、航の影のお世話役みたいなもんだ。」


「え?」陽菜がカップを持ったまま固まる。



「冗談じゃねぇぞ、カゲ。勝手に“お世話役”とか言うな!」


「他にどう説明すんだよ? 航、お前が最初にちゃんと説明しねぇからだろ。」


「そりゃそうだけど――」


陽菜は航とカゲの言い合いを呆然と見つめている。


「えっと……猫?...のぬいぐるみ…?動いて…え?喋ってる???」


「おい、聞き捨てならねぇな! 猫のぬいぐるみじゃねぇって言ってんだろうが!」

カゲがぴくっと耳を動かし、不満そうに尻尾を振る。


「まぁ、どう見てもたぬきの置物だけどな。」

航がぼそりと呟く。

その瞬間、カゲの耳がぴくりと動き、尻尾がバシンッとベッドのシーツを叩いた。


「おい、誰がたぬきだ! 俺はたぬきじゃねぇ! もっとこう、スマートでミステリアスな――」


「……黒いたぬき。」


「うるせぇ! その口を縫い合わせんぞ、航!」


陽菜は、そのやり取りを呆然と見つめていた。

両手に抱えたカップが微かに震えている。


「……本当に……喋ってる……?」


「いいか、俺様は影喰いの“カゲ”だ。ぬいぐるみやたぬきなんぞと一緒にすんな! お前な、もうちょっと目を鍛えろ!」


「そのまんまの見た目で言うなよ……動いて喋る“たぬき”にしか見えねぇんだよ。」


「てめぇ、今夜中に影を食い尽くしてやろうか?」


「お前に食われる影なんてねぇよ。」


カゲは尻尾をぴんっと立て、ベッドの上で不機嫌そうに丸くなった。


「チッ、これだから人間は救えねぇ。ま、陽菜が笑ったから許してやるけどな!」


「……お前、結局いいヤツじゃねぇか。」


「誰がいいヤツだ、誰が!」


航の呟きに、カゲは耳まで赤くなりそうな勢いで叫び、再びベッドのシーツを尻尾で叩くのだった。


陽菜の顔に、少しだけ笑みのようなものが浮かんだ。

カゲはそれを見逃さず、わざとらしくため息をつく。


「お前、笑ったな? いやぁ、こんな雨の中、助けてやった甲斐があったぜ。」


「……ふふ。」
陽菜の肩が小さく震える。


航は目を丸くして彼女を見た。

「なんだよ、今笑うとこか?」


「すみません……なんか……少しだけ、気が抜けて……」

航は苦笑し、コーヒーのカップを口元に運ぶ。


そしてため息をつきながらカゲを指さし、淡々と説明した。


「こいつはカゲ。……まぁ、俺の影みたいなもんだ。」


「影……?」


陽菜がカゲの金色の瞳をまじまじと見つめる。

部屋の照明に反射して、どこか異世界のもののように輝いていた。


「お前、驚きすぎて固まるなよ? まぁ、普通は俺みたいなカッコいい奴に会ったらショックだろうけどな。」


「……そんな風には見えないけど……」


「なんだとぉ!」

カゲの尻尾がピンと立ち、怒りの火花が散るような気さえする。


陽菜は微かに笑って小さく頷いた。

その笑顔は、先ほどまでの絶望の縁にいた少女のそれとはまるで違って見えた。


航はその様子を見て、ふっと肩の力を抜く。



「――カゲ。お前、陽菜に何か見せたいんだろ?」


カゲが一瞬だけ驚いたように目を細め、それからニヤリと笑った。


「さすが、察しがいいな。そういうこった。」


カゲは陽菜の方にゆっくりと近づき、ベッドの上で尻尾を揺らす。


「陽菜。お前、自分の影を見てみたくねぇか?」


「……影?」


「そうだ。お前が今まで抱えてきたものだよ。見ないふりしてきた、誰にも言えなかった重い荷物。まぁ、怖ぇかもしれねぇけどな。」


カゲの声には、皮肉や軽口が一切なかった。

その真剣な響きに、陽菜は目を瞬かせながら航を見た。


「どういうことですか……先輩?」



航は少し口ごもるが、やがて陽菜の目を真っ直ぐ見据える。


「俺も……カゲに言われて、自分の影と向き合った。怖かったけど、逃げ続けたら何も変わらなかったんだ。」


「……自分の影……」


陽菜の手がカップの縁をぎゅっと握りしめる。

カゲがその隙間にゆっくりと前足を伸ばし陽菜の手に触れた。


「覚悟はいいか?」

「……怖い……けど……」


陽菜の声は震えていたが、その目には迷いながらも微かな決意が宿っている。


カゲは満足げに尻尾を振ると、ベッドの上にふわりと跳び乗り、金色の瞳をさらに鋭く光らせた。


「じゃあ、目ぇ閉じて――いくぞ。」


陽菜が震える息を吐きながら目を閉じると、室内の空気が一変した。


ビジネスホテルの明かりが遠のき、周囲が暗闇に包まれていく。


薄暗い闇の中で、彼女の記憶が静かに浮かび上がってきた。


記憶1:幼少期の発表会

幼い陽菜は、保育園の発表会で役を与えられた。

クラスの主役を演じる「王様」。

園児たちの中で唯一、堂々とした態度を見せた陽菜に、周囲の大人たちは笑顔を向けた。

「陽菜ちゃん、すごいわね!」

「さすがだなぁ、うちの娘は。」

両親が手を叩きながら微笑む。


その瞬間、陽菜の胸の中に小さな種が芽生えた。

それは「みんなを喜ばせるのが自分の価値だ」という思いだった。


だが、その思いは次第に重荷に変わっていく。

発表会の後、園での生活でも陽菜は常に『模範的な子供』であることを求められた。


先生は陽菜に頼りきりで、クラスメイトに注意を促す役まで任せるようになった。

「陽菜ちゃんならできるから、お願いね。」

先生のその一言に、陽菜は笑顔で頷いた。


だが、放課後、誰もいない園庭の片隅で、陽菜は膝を抱えて泣いていた。

(私が頑張らないと、みんな困る……だから、泣いてちゃダメ。)

そう自分に言い聞かせる小さな姿が、ホテルの部屋の中にぼんやりと重なる。



記憶2:小学校の運動会

陽菜が小学4年生の時、運動会で応援団長を任された。

練習中、何度も声を枯らしながら応援の指導を続けた陽菜の背中には、クラス全員の視線が集まっていた。

「陽菜が団長で本当によかった!」

「これなら絶対に盛り上がる!」

そう言われるたび、陽菜は心が満たされると同時に、何かが少しずつ摩耗していくのを感じていた。


迎えた本番の日。

応援合戦での指揮が終わり勝利が確定した瞬間、クラスメイトが陽菜の元に駆け寄った。

「やっぱり陽菜のおかげだね!」

「すごいよ、ありがとう!」


陽菜は全員に笑顔を返しながら、心の中では別の感情が渦巻いていた。

(みんなが喜んでる。よかった……でも、次はもっと頑張らなきゃ。)

その日の夜、布団の中で声を殺して泣いた。

全力を出し切ったはずなのに、何かが足りない気がしてならなかった。



記憶3:中学のバレーボール大会

中学2年のとき、陽菜はバレーボール部でエースとして活躍していた。

地区大会の決勝戦、陽菜のアタックでチームは勝利を収めた。

試合後、仲間たちと抱き合って喜び、コーチからも「よくやった」と称賛された。


しかし、帰宅後に父親に結果を報告したとき、返ってきた言葉はこうだった。

「ふーん。じゃあ、次は県大会か? 勝たなきゃ意味ないだろ?」

その言葉が耳を刺した。喜びは一瞬で薄れ、胸の中にプレッシャーだけが残る。


次の県大会では、陽菜は自分をさらに追い込んだ。

朝練を増やし、テスト期間中でも夜遅くまで練習した。体は限界だったが、勝利のために無理を続けた。


しかし、県大会で惜しくも準優勝に終わったとき、父親はぽつりとこう言った。

「やっぱり甘かったんだろ。勝ち切るにはまだまだだな。」

その瞬間、陽菜の中にあった何かが音を立てて崩れた。



記憶4:大学時代の試験

大学3年生の頃、陽菜は難関資格試験の勉強に没頭していた。

家族の期待、友人たちの「陽菜なら余裕だよ」という声。

それらが陽菜を突き動かしていた。

夜中まで机に向かい続ける陽菜の背中を見て、母親は呟いた。

「無理しなくてもいいのよ、陽菜。でも、これが取れたら本当にすごいわね。」

その言葉が優しさのようでいて、陽菜の心を締め付けた。

無理しないことなど、自分には許されない。


試験当日、陽菜は冷え切った手で答案用紙に書き込み続けた。

結果は合格だった。

だが、周囲の期待通りの結果を出したという達成感よりも、次の試験に向けた不安が心を占めていた。

(まだ足りない。まだ、もっと頑張らないと。)



記憶が一気に押し寄せ、そしてふっと消えていく。


陽菜の顔は涙で濡れていたが、それを拭おうともしない。

「……私、ずっと……そうやって生きてきました。誰かのために、もっと頑張らなきゃって……」


その言葉に、航は静かに頷く。

だが、次に口を開いたのはカゲだった。


「おい、陽菜。」

カゲの低く鋭い声が響く。陽菜は顔を上げ、金色の瞳と目が合う。


「頑張ったのは認めてやるよ。でもな、そいつは一体誰のためだったんだ?」

陽菜は言葉を失い、黙り込む。


「喜ばせたい奴は誰だ? 家族か、友達か、それとも世間の誰かか? ……お前の名前がねぇってのが、笑えるけどな。」


その一言が、陽菜の心を深くえぐる。


航が横目でカゲを睨むが、何も言えない。


カゲは舌打ちをして続ける。

「で、お前はどうしたいんだ? このまま、誰かのためだけに生きてくか? それとも……」


言葉の続きを飲み込んだカゲは、静かにベッドの上から降りた。

陽菜はぼんやりとその姿を見つめながら、小さな声で呟いた。


「私……どうしたいんだろう。」


その問いが、ホテルの部屋の空間に静かに広がっていく。

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