第4章:逃げ道と足掻きの狭間で - 3「影喰いと逃げない決意」

陽菜のミスが発覚したのは、午後の少し眠くなる時間帯だった。


外では弱い日差しが、オフィスの窓にちょうどいい具合に反射していた。

昼休憩に飲み干したコンビニコーヒーの空きカップを手に、航が自席に戻ろうとしていたとき、隣のデスクから陽菜が勢いよく立ち上がった。


「あっ……」



それは短い声だったが、何かが壊れる瞬間の音にも似て、オフィスの静けさを切り裂いた。

航は足を止め、その声の主に目を向けた。


陽菜の顔は真っ青で、手に持った書類が小刻みに震えている。

目は忙しなく行き場を失ったように泳ぎ、その瞳にはじわりと焦りが浮かび上がっていた。


「どうしよう……」


陽菜は誰にともなく呟いたが、その声は自分の胸の中で反響しているかのように小さかった。

手の中の書類を読み返すたびに、眉間の皺が深く刻まれていく。

ページをめくる速度は加速し、最後には無意識にその書類を強く握りしめた。


「嘘でしょ……どうしてこんなところ、見逃してたの……?」


声が上ずり、言葉が次第にかすれていく。彼女の口元は動いているものの、明確な音を発することができていなかった。


航は空きカップを持った手をゆっくりと下ろしながら、陽菜の様子をじっと観察した。

普段の彼女は、仕事でどれだけ追い詰められても明るさを失わない。

しかし、今目の前にいるのは、それとはまるで別人だった。


陽菜の指先がデスクの上で書類を引っ掻く音が、やけに耳に残る。

震える手で書類を束ね、キーボードに手を伸ばしてタイプを始めるが、その指の動きは乱れに乱れていた。

画面を確認しては首を振り、また別の資料をめくり、そして視線を宙に泳がせる。

その繰り返しに、彼女が完全に混乱していることは明らかだった。


「陽菜、大丈夫か?」


航が思わず声をかけた。


その一言で、陽菜は跳ねるように顔を上げ、目を見開いて航を見つめた。

その視線には、追い詰められた獣のような恐怖と不安が滲んでいた。


「クロ先輩……その……」


陽菜は一度口を開きかけたが、言葉が続かなかった。

彼女の声は途切れ途切れで、感情が渦巻いて言葉にならないようだった。

手にした書類を再び見下ろし、呼吸が浅くなる。

そのまま椅子に座り直し、視線を机の上に落とした。


「クライアントに提出した資料なんですけど……」


彼女の声は途切れ途切れだった。

まるで、自分の口から漏れるその言葉が現実になるのを恐れているかのように。


「その……仕様の確認ポイント、一つ見落としていて……。」


航は隣に腰掛けるようにして書類を手渡された。

そこにあったのは、決して見逃してはいけない、プロジェクトの肝となる部分の一つだった。

彼の視線がその抜け落ちた箇所を捉えると、陽菜の肩が小さく震えた。


「……先方から問い合わせが来てる、と?」


航の問いかけに、陽菜は無言でうなずいた。

その間、手に持ったペンをぎゅっと握りしめる。

その指先は白くなり、少しだけ震えている。


航は書類を手にしたまま、陽菜を横目で見た。

彼女の目は潤んでいて、泣きそうなほどの不安に満ちていた。

唇を噛み、細い肩が小刻みに上下している。

オフィスの中で、誰もこの瞬間を見ていないことが、唯一の救いのようだった。


「やってしまった……本当に……私、どうして……」


陽菜は声を押し殺して呟いた。

その声はあまりに小さく、航にしか聞こえなかった。

だが、それでも彼には十分すぎるほど重く響いた。


航は彼女の焦りが痛いほど伝わり、しばらく書類を眺めてから深く息をついた。

彼女を責める気にはなれない。陽菜は誰よりも真面目に、このプロジェクトに向き合っているのを航は知っていた。

だからこそ、彼女のこの動揺もまた自らに課した責任の重さから来ていることがわかった。


航は、陽菜の震える声を聞きながら、心の中で焦燥感を抱えていた。


(これ、どうやって収拾をつける?クライアントは怒るだろうし、スケジュールも破綻する……。)


思考が巡るたびに、逃げる選択肢が頭をよぎる。

謝罪して田辺に責任を押し付ければ、田辺もうまく責任回避して落ち着くとこに落ち着く。

何度もしてきたことだ


――そう思えば、簡単なはずなのに。


だが、視線の先で、陽菜が肩を落としている姿が目に入った。

彼女の手は小刻みに震え、机の上に置いたペンも滑り落ちていく。


(……こいつ、必死でやってたんだよな。)


自分と向き合う航の胸に、少しずつ言葉が浮かび上がる。

逃げたい自分と戦うための言葉だ。


(俺が逃げたら、陽菜の頑張りを否定することになる。それは絶対にしたくない。)


航は息を吸い込み、目の前の現実に向き直った。


「陽菜。」


彼の低い声に、陽菜はハッと顔を上げた。

その目には涙が浮かび、今にもこぼれそうになっている。


「落ち着け。ミスがあったのは仕方ない。大事なのは、それをどうリカバリーするかだ。」


航の言葉に、陽菜の肩の震えはわずかに治まったが、まだ完全に収まりきらない。

その瞳には不安と自己嫌悪が渦巻いている。


「でも……これ、どうやってカバーすれば……」


「俺たちでやる。全部を一人で抱え込むな。」


航は資料を持ちながら、陽菜に向き直り、落ち着いた口調で言葉を続けた。


「まず、どの程度の修正が必要かを確認する。それから対策を考える。それで間に合わせるんだ。」

陽菜は小さく頷いたが、その表情から完全な安堵は感じられなかった。

それでも、航の言葉にほんの少しだけ力をもらったのか、彼女の手元のペンが再び動き始めた。


航は書類を手に取り机に戻った。

資料の内容をざっと確認しながら、すでに頭の中では修正の手順を組み立てていた。


午後四時、航はクライアントとのオンライン会議の画面の前に座っていた。

目の前のディスプレイには、午前中に会った担当者の中山とは異なり、厳しい表情をした担当者――木村の姿が映し出されている。


彼の端正な顔立ちは冷徹な印象を強め、航の緊張を倍増させた。

「で、この部分ですがね。」

木村が画面越しに資料を指し示した。

「ここ、抜けてるってどういうことですか?」


その一言に、航は背筋を伸ばした。一瞬、頭が真っ白になる。

陽菜のミスはチーム全体の責任に繋がる

――そんな思いが航の胸を重く圧迫した。逃げたくなる感覚が一瞬、心の隅をかすめる。


(謝れば済むのか? 誤魔化せば? いや、そんなことをしたら後がもっと大変になるだけだ。)


頭の中で無数の選択肢が交錯する。逃げるための言い訳も、抗弁も浮かぶ。

けれど、そのすべてを振り払うように航は深呼吸をした。


「その点に関してはこちらの確認不足が原因です。」

航は可能な限り冷静な声で答えた。

しかし、言葉を発しながらも、自分の声がどこか揺れているのを感じた。


「すでに修正作業を進めており、納期までに対応する予定です。」

木村は眉をひそめ、ディスプレイ越しに航を見据えた。

その視線には疑念が浮かんでいる。彼の沈黙が、航の心臓をさらに締め付けた。


「予定、ね。」

木村が低い声で言った。


その一言に、航は喉の奥が引き攣る感覚を覚えた。

椅子にもたれかかる木村は腕を組みながら続ける。

「で、どのくらいの時間が必要なんです?」


(これが限界か? 陽菜のミス、俺の失態、すべてがここで明るみに出る――)


そんな弱気な声が脳裏をよぎる。逃げ出したい思いが再び胸を掠めた。


(いや、逃げるのは簡単だ。でも、あの陽菜の頑張りを無駄にするわけにはいかない。)


航はカゲの声を思い出していた。

「影を変えられるのは本人しかいねぇ。でもよ、お前が見てやれるんだろう?」


(陽菜はいつも逃げずに歯を食いしばって、それでも笑顔で頑張っている。だったら、俺が逃げていいわけがない。)


その瞬間、航の視線がしっかりと画面の木村に向けられた。

「48時間以内に全て整えます。」

航はきっぱりと答えた。その声には、迷いが微塵も残っていない。


木村は眉をさらにひそめたが、すぐに腕をほどいて椅子に体を戻した。

「……随分と自信がありますね。」

その言葉には、皮肉と評価が入り混じっているようだった。


航は喉を一度鳴らし、意を決してさらに言葉を紡ぐ。

「そのためにチーム全員で取り組んでいます。現状で考え得る最短の手段です。」


木村の目が少しだけ細まる。

その先にある評価を、航は冷や汗をかきながらも待つ。


「なるほど。……なら、信じるとしましょう。ただし、次はこういうことがないようにしてください。」

その瞬間、航の胸から重石が一つ落ちたような感覚を覚えた。


だが、顔にはそれを出さないよう、すぐに頭を下げる。

「はい、当然です。」

航は丁寧に答えた。


会議を終えた後、航は席を立ち、窓際に向かった。

窓の外には薄暗い冬の空が広がり、街灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。


「おい、航。」

カゲの声が耳の奥で響いた。

「まぁまぁだったじゃねぇか。少なくとも、膝が震えて見えたわけじゃねぇし。」


航は思わず苦笑する。

「俺が震えてるのをお前に見られたくなかっただけだよ。」

カゲは飄々と続ける。

「木村って奴、厳しい顔してたけどよ、お前ちょっとは認められたんじゃねぇか?」


航はその言葉に苦笑したが、すぐに顔を引き締めた。

「そんな風には思えなかったけどな。少なくとも、俺にとっちゃ、あれ以上厳しい試験はないくらいだった。」


カゲの声には、どこか満足げな響きがあった。

「お前、ちゃんとやったじゃねぇか。でもな、油断するんじゃねぇぞ。あの手の奴は、次も同じくらい厳しいツッコミを入れてくるもんだ。」


航は軽く首を振りながら、少しだけ微笑んだ。

「そうだな。でも、俺は逃げない。もう決めたからな。」


カゲはしばらく黙っていたが、最後に一言だけ言葉を残した。

「その覚悟があるなら、俺がついてる。」

航は深く息を吐き、背筋を伸ばして再び席に戻った。


席に戻った航は一瞬だけ深呼吸をした。

手元には修正が必要な資料が山のように積まれ、頭の中には次々と浮かぶタスクが渦巻いている。


(ここで失敗したら、チーム全体が崩れる。陽菜だけの責任にするわけにはいかない。)


航は拳を軽く握り締めて、意を決して立ち上がった。

周囲に目を向けると、メンバーたちの表情は皆一様に張り詰めている。

陽菜もその中で特に沈んだ顔をしていた。


「みんな、少し時間をもらえるか?」

航の呼びかけに、数人が顔を上げた。

誰も言葉を発さないまま、会議室へ向かう航の背中を追った。


会議室の空気は、少し重かった。

航はホワイトボードの前に立ち、手にしたペンを何度かカチカチと鳴らしながら、頭の中で言葉をまとめていた。


(俺が動かなきゃ、このプロジェクトは進まない。でも……)


ちらりと陽菜を見ると、彼女はノートを握りしめて俯いている。

自分のミスがどれほど大きな影響を及ぼしたのかを、痛いほど感じているのだろう。

その肩が小刻みに震えているのがわかる。


(陽菜にこれ以上背負わせるわけにはいかない。)


「まずは状況を整理しよう。」

航がホワイトボードに修正点を書き出しながら話し始めると、メンバーたちは少しずつ前のめりになっていった。


「この部分はデータ分析が必要だから、北村さんにお願いしたい。進行状況がわかれば、それを基に次の工程を計画できる。」

北村は資料を見つめながら、冷静な口調で答えた。

「なるほど。任せてください。」


「リストアップは森さんにお願いする。修正箇所を具体的に洗い出せば、抜け漏れを防げると思う。」

森は小柄な体を椅子に預けながら、軽く笑みを浮かべて返事をした。

「了解です。俺の得意分野ですね。」その調子の軽さに、一瞬だけ航の心が和らぐ。


そして、陽菜に視線を向けた。彼女はペンを握ったまま、未だに俯いている。


(陽菜がこのままでは、ミスを引きずってしまう。)


「陽菜。」名前を呼ばれ、彼女はびくりと体を震わせた。

「先方への追加確認をお願いしたい。抜けてる部分をリストにして、具体的な要望を整理しよう。」

航は意識的に、優しい口調を心がけた。

それでも、陽菜の目にはわずかな迷いが残っているのがわかる。


「……わかりました。」

陽菜は小さく頷き、顔を上げた。

その目にはほんの少しだけ、立ち直ろうとする意志が宿っているように見えた。


(俺が彼女を信じてやらなきゃ、彼女自身も自分を信じられなくなる。)


「俺は全体をまとめる。何か問題が出たらすぐに声をかけてくれ。」

航の言葉に、チームのメンバーたちは一斉に頷いた。

その瞬間、少しだけ空気が柔らかくなった気がした。


ホワイトボードの文字を見つめながら、航は改めて胸に重くのしかかるプレッシャーを感じていた。


(みんなが動き出してくれたけど、本当に大丈夫か? 陽菜をフォローしつつ、このタイトなスケジュールを守り切れるのか?)


カゲの声が頭に浮かんだ。


「おいおい、また逃げるのか?」


(……違う。逃げない。)


航は心の中で答えた。

その返事が聞こえたかのように、カゲの笑い声が耳の奥で響く。

「お前が逃げなきゃ、この船は沈まねぇよ。ほら、さっさとやれよ。」

航は深く息を吸い込み、ペンを握り直した。


深夜、オフィスには数人だけが残っていた。

蛍光灯の冷たい光が資料の山を照らし、キーボードを叩く音だけが静寂を破っている。


航はホワイトボードを前に立ち、書き込まれた修正項目をひとつずつ確認していた。

その顔には疲労の色が滲んでいたが、目はしっかりと仕事に向き合っている。


「黒田さん、データの検証が終わりました!」

北村が資料を手に持ち、軽く肩を回しながら航に近づいた。

彼女の声には疲労が隠せないものの、どこか達成感も感じられる。


「ありがとう。確認するから、次の工程に進んでくれ。」

航は資料を受け取り、ざっと目を通す。数字が整然と並んでおり、北村の仕事ぶりが伺える。

「さすがだな、北村さん。これで次の工程に進める。」

北村は短く頷き、軽くため息をついて自席に戻った。

その姿を見送りながら、航は一瞬だけ目を閉じて深呼吸をした。


「森さん、リストの進捗はどうだ?」

航が声をかけると、森は背伸びをしながら振り返った。

「あともう少しで完成します。抜け漏れがないか再チェック中です。」

彼の声はいつもの軽い調子だったが、その動きには明らかに疲労が見て取れた。

「無理はするなよ。でも、頼りにしてる。」

航の言葉に、森は笑みを浮かべながら「任されましたよ」と軽く返事をした。


陽菜の席では、彼女が画面に向かい、資料をまとめる手を止めずに動かしている。

その肩は明らかに緊張でこわばっていたが、表情にはどこか決意が宿っている。

「陽菜、順調か?」

航が近づいて声をかけると、陽菜はびくりと肩を震わせながら顔を上げた。

「はい、あと少しで完成します。」

その声には疲れが混じっていたが、諦める気配は感じられなかった。

航は彼女の肩に軽く手を置いて言った。

「焦らずにいこう。ミスがあれば、みんなでカバーする。」

陽菜はその言葉に小さく頷き、再び作業に集中した。


修正作業が終わらないまま、時計の針は午前2時を回っていた。

ホワイトボードにはびっしりと書き込まれた項目が並び、航はその前でペンを握りしめている。


(あと少しだ。でも……もし失敗したら?)


航はペンを手にしたまま、ふと立ち止まった。


(いや、前ならとっくに諦めてた。責任は他人に押し付けて、適当にごまかしてたはずだ。)


思い出すのは過去の失敗。

最後まで踏ん張らなかった自分のせいで、チームの空気が悪くなったプロジェクトもあった。

誰も自分を責めなかったが、ただ期待されなくなった。


(今度は違う。俺はあの時と同じ自分じゃない。)


背後で北村や森が黙々と作業を続け、陽菜が画面に向かって必死にタイピングしている音が聞こえる。


(みんな俺を信じてついてきてくれてる。この信頼を裏切るわけにはいかない。)


航はもう一度深く息を吸い、ホワイトボードの前に向き直った。

ペンを走らせながら、心の中で小さく呟く。


(逃げないって決めたから、ここにいるんだ。)


午前4時、修正作業はようやく最終段階に入った。

北村が再確認したデータを森がリストに組み込み、陽菜がそれをまとめ上げる。

航はその全体を取り仕切り、作業を最適化するためにチーム全員の動きを把握していた。


「これで、完成しました。」 陽菜が席を立ち、完成した資料を航に手渡した。

その声は疲れ切っていたが、どこか安心感が漂っている。


航は資料を手に取り、内容を確認する。

一通り目を通し、問題がないことを確認した後、陽菜に向かって笑みを見せた。


「お疲れ様。大変だったな。」

陽菜は肩を落としながらも、小さく微笑んだ。

「……はい。すみませんでした。でも、ありがとうございました。」


その瞬間、彼女の目元がわずかに潤んでいるのが見えたが、航は何も言わず、彼女の肩を軽く叩いた。

「大丈夫だ。これで次に繋げればいい。」

陽菜は頷き、机に戻っていった。北村と森も作業を終え、椅子に体を預けながら軽い笑みを浮かべている。


翌朝、完成した資料を携えた航は、クライアントの木村とのオンライン会議に臨んだ。

画面越しの木村は、目を細めながら資料に目を通している。


「ほう……なかなか整っていますね。」

木村の言葉に、航の背筋が少しだけ伸びた。

「チーム全員で進めた結果です。内容に問題がないか、ご確認をお願いします。」

航の声は冷静だったが、その奥には緊張が滲んでいる。


数分間の沈黙が続いた後、木村は顔を上げた。

「よくここまで仕上げましたね。この短期間で、これほどの成果を上げるとは正直思っていませんでした。」


その言葉に、航の胸の中で張り詰めていたものが少しずつ解けていくのを感じた。

「ありがとうございます。これからも、細かく報告を続けていきます。」

木村は軽く頷きながら言った。

「次回からも期待していますよ。今回のことで、貴社の対応力を見直しました。」


会議を終えた航は席に戻り、机に残された修正資料をもう一度見つめた。

窓の外では、夜明けの光が薄暗い冬空を押し上げるように広がっている。

その光を眺めながら、航は深く息を吐き出した。


(逃げなかった。それだけでも、一歩進めた気がする。)



心の中でそう呟くが、次の試練への不安が胸を締めつける。

緊張が和らぐどころか、先の見えない重圧が、またじわりと心を押しつぶそうとしていた。


そのとき、耳元に聞き慣れた声が響いた。


「おい、航。」
カゲだ。

声だけの存在感が、妙に部屋の静けさを埋める。



「どうだ、逃げなかった気分は?」

航は自嘲気味に笑みを浮かべた。

「悪くないけど、なかなかしんどいな。」


「だろうな。」


カゲの声は飄々としているが、どこか含みのある調子だった。

「お前、今日だけで一気に変わったように見えるけどよ、ま、焦らずやれよ。影ってのは、そんな簡単に変えられるもんじゃねぇからな。」

「わかってるよ。」



航は書類を手に取りながら答えたが、カゲの声は続いた。


「お前が今日やったこと――あれだけで充分だろうよ。陽菜にも、他の奴らにもな。」


航は視線を机に落とし短く答えた。

「そうかな。」


その瞬間、カゲの声が少しだけ低くなった。


「逃げなかっただけでも大したもんだ。けどよ、ここからが本番だぞ、航。」

「……そうだな。」



航の声には疲れが滲んでいたが、それでもどこか決意が見える。


そんな彼の心情を見透かすように、カゲが静かに言葉を続ける。

「その覚悟があるなら、俺がついてる。」


その一言は、航の心の奥底にしっかりと届いた。

彼は深く息を吸い込み、背筋を伸ばしてもう一度資料を手に取る。


(まだ道の途中だ。それでも、もう逃げない。)



窓の外には、夜明けの光が会社のフロアにも差し込み始めていた。

航はその光をちらりと眺め、次のタスクに取り掛かるために立ち上がった。

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