第2章:薄明の影喰い - 3「影の媒介者」
プロジェクトが始まって数週間。
航と陽菜は仕事を通じて少しずつ打ち解けてきていた。
航は以前よりも積極的に意見を出し、陽菜も自分の役割を全力でこなしている。
「クロ先輩、このデータなんですけど、もう少し整理したほうがいいですかね?」
陽菜が明るい声で話しかけてくる。
航はモニターを見つめながら答えた。
「そうだな……たぶん、このままだと伝わりにくいかも。色を上手く使ってポイントを絞ったほうがいい。」
「わかりました! じゃあ、これ終わったらもう一回チェックお願いしますね!」
陽菜が自席に戻ると、航はしばらく彼女の背中を見つめていた。
(すごいよな……あいつは、いつも全力で頑張ってる。)
彼女の行動は、航にとって眩しさそのものだった。そしてその眩しさが、自分の存在の薄さを際立たせるのだ。
(俺も少しは変われた今なら……とは言えないか。)
航は自分の手のひらをじっと見つめた。
その手に握られるのは、いつもと変わらないペン。
ただ、彼女のように誰かを引きつけるものはない。
だが、それでも――
カゲの言葉を思い出しながら、航は自分の胸の中に小さな火が灯るのを感じていた。
(もう少しだけ、やってみよう。失敗したくないからじゃない。……俺自身が、何かを変えたいからだ。)
そんなことを考えながら、昼休みのオフィスを見回すと、隅の席で田辺が一人パソコンに向かっていた。
明るく親しみやすい田辺は普段、同僚と冗談を言い合ったり、陽菜のように活発に動き回っている印象だったが、そのときの彼の姿はいつもと違って見えた。
田辺の影――それが、異様だった。
床に映る彼の影が、いつもより濃く、じっとりとした質感を持っているように見えたのだ。
影が不自然に動き、床に張り付いているような錯覚さえ覚える。
「……なんだ、これ。」
航は思わず目をこすった。
幻覚かもしれない。
だが、もう一度見てもその濃い影はそこにある。
田辺の影は彼の背後に立つ誰かのように重く揺れながら、オフィスの冷たい照明に飲み込まれていた。
その晩、航は自宅に戻るなりカゲに話しかけた。
「カゲ、俺、今日変なものを見たんだ。職場の田辺さんの影が普通じゃなかった。」
ソファの上で丸くなっていたカゲが欠伸交じりに答えた。
「…あ?なんだそんな事かよ……お前が影に敏感になってきたんだろ。影喰いの副作用だな。」
「敏感……?副作用......?」
航は訝しげに問い返した。
「……それ、どういうことなんだ?」
カゲはため息混じりに答えた。
「いいか?まず普通の奴は、自分の濃い影がフィルターみたいになって他人の影を見えなくしてる。でもお前は違う。お前は元々、自分の影が薄いから余計なものが邪魔をしねえ。」
「フィルター……って、自分の影が薄いことが良いことだって言いたいのか?」
航は納得できない様子で眉を寄せた。
「良いか悪いかは、お前次第だな。ただ、影喰いを繰り返すうちに副作用で影に敏感になった上に、お前の影の薄さっていう特性と影喰いの二つが合わさって、他人の影を感知しやすくしてるんだよ。」
「他人の影を感知しやすいって……」
カゲは少し考える素振りを見せたあと、軽く笑った。
「今更だな。お前が自分の存在を目立たせないため、周りの空気を読んでたその能力が、影喰いの影響で他人の影の形が見える能力にシフトしただけだ。」
航は少し黙った後、ぽつりと言った。
「……でも、それって結局、俺自身には何もないってことじゃないのか?」
「そう思うか?」カゲは肩をすくめた。
「他人の影に気づけるなんてのは、普通の人間にはできねえ特別なことだろ?だからそれをどう活かすかは、お前次第って事なんだよ。」
カゲがそう言って静かに視線を外すと、航は再び考え込んだ。
「どう活かすかは俺次第……でも、田辺さんの影は普通じゃなかった。見えたからってあの影どうすればいいんだ?」
航が迷いながら問いかけると、カゲは再びこちらを振り返り、少しだけ口角を上げた。
「簡単だろ。お前が近づけば、俺がそいつの影を喰う手伝いをしてやるよ。」
「俺が近づく……?どういうことだよ。」
「影喰いってのはな、直接その奴に会わねえとできねえんだ。けど、今のお前が媒介になれば、そいつの影を一部分だけ引き受けて、俺がここから喰うことができる。」
航は目を見開いた。
「俺が影を引き受ける?そんなことできるのか?」
カゲは軽く鼻で笑った。
「できるとも。ただし、全部を喰うわけじゃねえ。部分的にな。そいつの影の一部を引き取るだけで、重さを少し軽くしてやる。」
「それで本当に助けになるのか……?」
航は半信半疑だった。
「さあな。そいつ自身がどう思うかは分からねえが、影を軽くしてやるだけでも違うのはお前も経験済みだろ?」
カゲはしっぽを一振りしながら続けた。
「ただし、お前も覚悟しとけよ。影の一部を引き受けるってのは、そいつの抱える感情を一瞬でも感じるってことだ。それがどれだけお前の負担になるかは、やってみなきゃ分からねえ。」
航は黙り込んだ。
影を引き受けるという言葉の響きが、思った以上に重く感じられたからだ。
しかし、田辺の疲れ切った表情と、じっとりと濃い影が頭をよぎる。
「……分かった。試してみる。」
カゲは満足そうに小さくうなずいた。
「いいぜ。そんじゃ、明日そいつに話しかけてみろ。ただ自然に近づけばいい。あとは俺がやる。」
翌日、昼休み。
航は意を決して田辺に声をかけた。
「田辺さん、大丈夫ですか?最近、ちょっと疲れているように見えますけど。」
田辺は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに気まずそうに笑った。
「ああ、大丈夫だよ。ただ、いろいろ重なってるだけでね。まあ、いつものことさ。」
その言葉とは裏腹に、航の視界に映る田辺の影はますます濃く重く見えた。
航はゆっくりと田辺の隣に立ち、ほんの少し体を寄せる。
次の瞬間、航の胸の奥に冷たく湿った感覚が走った。
それは田辺の影が自分の影と重なり、カゲのいる場所へと引き寄せられている感覚だった。
(これが……他人の影を引き受けるってことなのか?)
黒い靄のようなものが航の影から湧き出し遠くに消えていく。
そのとき、田辺の影の一部が航の中に一瞬だけ流れ込んだ。
それは冷たくて湿り気のある感触で航の心に鋭く刺さった。
「ん?……なんか……肩の荷が少し軽くなった気がするな。」
田辺が軽く笑いながら言った。
「俺はやれることをやってるだけだ。これくらいで十分だろ?」
その言葉を聞いた航は、微かな違和感を覚えた。
田辺の声には、どこか軽薄な響きがあった。
彼の影は、まだ完全には消えず、床に薄い膜のように残っている。
(これくらいで十分……?これが田辺さんの本音なのか?)
航の胸の奥には、冷たく湿った感覚がまだ居座っていた。
それは、影喰いの瞬間に感じた、田辺の影に潜む感情
――「本気を出さずに逃げる言い訳」を隠そうとする歪な冷たさだった。
会話を終えた後、航は自席に戻る途中で足を止めた。
胸の奥に刺さった冷たさが、じわじわと広がっていくような気がする。
(田辺さん……あの言葉、どこか空っぽだった。)
「俺はやれることをやってるだけだ。これくらいで十分だろ?」
その一言に込められていたのは、責任を放棄しながらも自分を正当化する矛盾した感情だ。
航は机に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
自分自身の心の中にも、田辺と似た影があるのではないか
――そんな考えが頭をよぎる。
(俺も……“失敗しないように”って理由で、本気で挑むことを避けてきたんじゃないのか?)
ふと、カゲの言葉が頭を過った。
『影はその人間そのものだ。どんなに隠しても、他人から見えちまうもんだ。』
航は深く息を吐いた。
自分の影は、まだ見えていない部分が多い。
だが、田辺の影を媒介することで、その一端に触れてしまったような気がしてならなかった。
航はリビングのソファに腰を下ろし、頭を掻きながら呟いた。
「……影はその人間そのもの、か。お前、本当にそう思ってるのか?」
ソファの背もたれに丸くなっていたカゲが、片目を開ける。
「ああ、間違いねえ。影ってのはな、その人間の奥底でグツグツ煮えたぎってるもんだ。それをどう処理するかは、そいつ次第だがな。」
航は眉を寄せた。
「田辺さんの影……あれは、逃げ道を作るためのものだったように思えた。でも、それが田辺さんの本質だとしたら、影を軽くして意味があるのか?」
カゲは欠伸をしながら前足を伸ばす。
「意味があるかどうかなんて知らねえよ。ただ、影喰いは一時的に影を軽くするだけだ。そいつがその間にどう動くかで、結果は変わる。影そのものが消えるわけじゃねえからな。」
「一時的……。」
航は呟きながら胸の奥を押さえた。
そこには冷たく重い感覚がまだ残っていた。
田辺の影を媒介した際、自分に流れ込んできた「逃げ道を探す」冷たい感情が消えず、じんわりと広がっているようだった。
「おい、どうした?」カゲが頭を上げ、航を見た。
航は肩をすくめた。
「なんでもない。ちょっと疲れてるだけだ。」
しかし、その言葉とは裏腹に、体の奥底に染み付くような違和感は消えなかった。
カゲは軽く鼻を鳴らした。
「媒介ってのはな、そいつの影を一瞬引き受けるってことだ。だからお前も影の“重さ”を一時的に背負うことになる。覚悟しとけよつったじゃねぇか」
「……それ、もっと真面目に具体的に言っとっいてくれよ。」
航は疲れた声で返したが、カゲは飄々とした口調で続けた。
「お前が引き受けた影は、俺が喰った時点で軽くなってる。でも、その痕跡が残るのは当然だ。大事なのは、その影を通してお前が何を感じたかだ。」
航はカゲの言葉を反芻しながら、田辺の影を思い出した。
あの冷たさ、そして逃げることへの正当化。
「俺も……“失敗しないように”って理由で、本気で挑むことを避けてきたんじゃないのか?」
そう呟いた瞬間、胸の重みが少しだけ鋭くなった気がした。航は深く息を吐いた。
「結局、影とどう向き合うかは本人次第か。」
航がぼそりと呟くと、カゲはしっぽを軽く振った。
「そういうこった。お前が気づいたなら、それをどう使うかはお前次第だ。」
航はその言葉に答えず、静かに目を閉じた。
田辺の影を媒介した影響は体の奥にまだ残っているが、それが航の中で何を変えるのかは、まだわからなかった。
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