1-3 夫を殺した。だから、スパに行く。
夫を殺してから一週間と何日か。
夫の死体を沼に沈めた時には、ああもうこれで何もかもから解放されるんだ、と思ったのに。それから毎日見る悪夢は、私を苛め続けた。
ここ数日は、まとまった睡眠時間がとれていない。ベッドに入ってどうにか目をつぶったとしても、1時間以内に悪夢を見て飛び起きる。そのたびに、肌に張り付いた下着やパジャマの感触が気持ち悪くて仕方がない。
元職場への復帰が上手くいかないのも、苛々と焦燥の原因だった。
前の職場を辞める時、みんなが私を惜しんでくれた。でも今、私が「職場に復帰したい」と元上司に打診しても、曖昧に話を濁されるだけだった。
どうして?
私は元同僚に電話で連絡を取った。
「復帰の件、松原さんは考えてくれてそう?」
どうも、手続きが遅いみたいで。だから、できたら貴方から松原さんに何か一言言ってほしい。そんな私の言葉に、元同僚は声を潜めて言った。
「うーん。でもね、悪いけど……貴方のポジション、もう他の人が居てね。うちはもう、中途採用は募集してないみたいで……」
なら、もういい。私は元同僚の言葉を遮り、通話を切った。
一体、私の人生の後悔はどこから始めたらいいのか。やり直せるとしたら、一体どこからやり直せばいいのか。
夫を沼に沈めたところから?
夫を殺したところから?
夫と結婚したところから?
何も分からない。
キラキラするはずの生活が、全然キラキラしていない。
どうして? こうすれば幸せになると思ったのに。
晩御飯を作りながら、どこかの家のドアが開いてしまるとき、夫が帰ってきたのかと思ってしまう。
スパから帰ってきてタオルを洗濯機に入れる時、寂しさと切なさがある。
どこに、私の幸せはあるのだろう?
夫を殺したのが間違いだったのか?
いや、ちょっとまって。そもそも私は夫を殺したんだろうか?
あの日の事は――夢だったのでは。夫はまだ世界のどこかで生きているかもしれない。
寝不足の現実と断続的な夢の狭間では、そんな思いに駆られる。どこからが現実でどこからが夢だったのかも、夫に死んでいてほしいのか生きていてほしいのかも、徐々にあやふやになっていった。
でもある時。スパの帰り道、私はふと、解決策を思いついた。
そうだ。辰己くんに聞こう。
辰己くんに、「あの日私達、ちゃんと夫を沈めたよね?」と確認しよう。
丁度辰己くんに、会いたかった頃だ。むしろなんでここ数日、辰己くんが居なくても生きていられたんだろう。
私はリビングのソファに背を預け、電話を掛けた。出ない。電話をかける。出ない。スマホを何度もタップする。出ない。
「どうして出ないの」
ああ。
ああうるさい。
隣の家、ずっと電話が鳴りっぱなし。騒音をちゃんと考えてほしい。
あれ? 違う。
私は廊下の方を見た。この電話の呼び出し音は、うちの廊下の奥から鳴っている。うっすら暗い、冷えたフローリングの向こう側から。
それに、私はこの音を知っている。何度も聞いた、辰己くんのケータイの着信音だ。
どうして辰己くんのケータイが、うちの家の中で鳴っているの?
私の中にぷくりと涌いた疑問は波打って、私の中に眠っていたとある記憶の1シーンを呼び起こす。
そうだ。だってあの日辰己くんが――うちの家に来たからだ。
頭痛と共に、辰己くんが玄関に来た瞬間の映像がバチリと音を立て脳内をよぎる。その映像と共に、胸に激しく刻まれた狂おしい焦燥感を思い出す。
そうだあの日の私は、辰己くんに焦りながら電話をかけていた。すぐに出て欲しくて。助けてほしくて。リビングに横たわった夫の死体に辟易した、あの状況をどうにかしてほしくて――
どうして。
どうして電話に出てくれなかったの。私の問いかけに、辰己くんは困ったような顔で言った。
『だって、旦那さん殺したからなんて、そんなの俺無理だよ。もう無理だよ。とにかくもう、あんたのことは大丈夫だから』
どういうこと。ねえどういうこと。
『いやだからさ。もうあんたのことは大丈夫なんだって』
あたしもう、要らないってこと。
『うーん、まあなんていうかそんな、旦那さん殺すとか、ヤバいじゃん。オレたちそれほどじゃないっていうか。もう大丈夫っていうか。だってお互いに丁度いい関係がよかったじゃん』
私の事、愛してるって言ったのに。一生一緒に居たいって言ってくれたのに。
『いやまあ言ったけど。でも言ったけどなんか違うっていうかさ。旦那さん殺してまでとか、なんか違うし』
匂いがする。
『え?』
シトラスのシャンプーの匂いがする。辰己くんの職場の――りこちゃんの匂いと同じ。
『いやだからさ。そういうのもいいじゃん。お互いにさ、なんていうの、好きとか嫌いとか愛してるとかそういうのじゃなくてさ。都合がいいから、っていうかさ。ほら、恋愛ごっこを楽しみたい時ってあるじゃん? お互い都合よくその辺のメリットが一致したからごっこを楽しんでただけで』
あなたもキラキラさせてくれないんだね。
『え?』
あなたも、私をキラキラさせてはくれなかったんだね。
ごぼ、ごぼ。
内臓を下から揺らす、深い水の音が聞こえる。
ああ、そうか。
私は、廊下の方を見た。
――沼には捨ててなかったんだ。
沼に捨てることはできなかった。夫の死体を沼に捨てたかったけど、私には車の運転ができないから、辰己くんに頼るしかできなかった。
でも、うちに来てくれた辰己くんは――私の嫌いなシトラスのシャンプーの匂いをさせてた。だから。
ムカムカした。
何一つ。誰一人。私をきらきらさせてくれない。どうして? ねぇどうして。
私は動かなくなった辰己くんに包丁を刺し続けながら、問いかけ続けた。
どうしてキラキラさせてくれないの。
辰己くんは動かなかった。だから答えてくれなかった。
でも、リビングが臭いのはいやだった。
だから辰己くんの遺体も、私は――
どこへやったか、というと。
ごぼ、ごぼ。
深い水の音。
辰己くんの遺体も、そう、夫と一緒に沈めた。
水の中に沈めたら、少しはマシだと思ったから。
ああ、そうだ。
記憶が明滅する。
夫の死体も、そして辰己くんの死体も。
両方とも、まだうちの浴槽の中だ。
ごぼ、ごぼ。
水の音がする。
どんよりと湿った暗い廊下の奥から、ずっとずっと、聞こえ続けている。
「……そういえばそうだったな」
そうそう。だから、うちのお風呂は使えないんだった。私は立ち上がると、スパ用のバッグに着替えを詰めた。
「考えてみたら、暫く通うことになるなあ。なら会員になる為のアプリ、ダウンロードしようかな」
ま、それはまた後日でいいか。
ひとまず、今日もスパに行こう。
あ、なら眉毛だけでも書かなきゃ。
私はいつものアイブロウペンシルを手に取った。
<続>
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