【全37話】 6丁目の、沼。
二八 鯉市(にはち りいち)
1章 夫の死体、誰かなんとかしてよ。
1-1 夫を殺した。スパに行く。
――撲殺なんて、するんじゃなかった。
レースカーテンにも血痕がついているのを見て、私は心底うんざりした。お気に入りだったのに、汚れてしまうなんて。
――どうせなら、血が飛び散らない方法で殺せばよかった。
私はリビングを見回した。思っていたよりも飛んでいた血飛沫が、床も、壁も、あちこち汚してしまっている。
「……ああ。お風呂、行こう」
私はそう呟いて、ドレッサーの前へ向かった。
「どうせ落ちるけど、眉毛だけ」
例え近所のスパだとしても、すっぴんで外に出る事だけは無理だった。眉毛だけ、せめて眉毛だけ書こうと思った。
「——あらこんにちは」
スパの脱衣所で再会したのは、前の会社の同僚だった。
脱衣所の照明はきらきらしていて、ずらりと並んだ化粧台の鏡に反射してさらに輝きを増している。
サウナを楽しんだらしい若い女の子たちのつやつやした肌に、きらきらした水滴が浮いていた。
「まさか、こんなところで会うなんてね」
元同僚に言われ、私ははにかんだ。
「うちのお風呂、ちょっと今壊れちゃってて」
「あら大変。でも、便利な時代よね。家のお風呂が最悪使えなくっても、ここの会員になっておけば月額で入り放題だもの。会員証もスマホのアプリでいいしね」
「あら、そんなシステムあるの? 便利そう」
「えー知らなかったの? 次回から使ったらいいよ」
朗らかに笑いあう。けれどふと、同僚の目がきらりと光った。
「そういえば、私達が会うの結婚式以来だよね。どう? 結婚生活」
「最高だよ」
私はにこりと微笑んでそう答えた。あ、でも、と思う。
「でもね。もしかしたら、近々職場に復帰するかも」
「え? ああ、そうなんだ」
同僚はうんうんと頷くと、髪を留めていた桃色のクリップを外し、せっせとタオルドライを始めながら言った。
「あー……ま、まあそうよね。専業主婦って退屈って聞くもんね。やっぱり、ちょっとは外出ないとってコトよね」
「うん、そうだね」
私は――ただ微笑むだけにとどめた。
職場への復帰はしなければならないだろう。だって、私はもう専業主婦には――いいや、やめておこう。折角広いお風呂に来たんだから、家の事は考えたくない。
ああ、なんていい気分だろう。
初めて来たスパだったけど、すごく心地よかった。これからもここに通おう。
私は宙に浮くような心地よさで、家に帰った。
でもそんなスパのいい気分は、リビングのドアを開けた瞬間、湯気のように呆気なく薄れてしまった。
リビング中に、ガラスが散乱していたからだ。
「……片付けなきゃなあ、これ」
一瞬で、陰鬱とした気持ちに引きずり込まれる。
三日前、私はこのリビングで夫を殴り殺した。
***
――三日前。
夫と二人で選んだ間接照明に照らされて、フローリングに散乱しているガラスの破片がきらきら光っている。
何のガラスだったんだろう。グラスだろうか、いや、ガラス製の鍋の蓋だったかもしれない。もう分からない。きっと何かの形だったんだろう。
私は、傍らの夫を眺めた。
割れて本来の形を失ったガラスの破片にまみれて、夫はうつ伏せで倒れている。赤黒い血が、オレンジ色の間接照明に照らされてぬらぬらと沼の泥のように光っている。汚い。
夫はもう動かない。
動かない夫を眺めながら、私はその時やっと、右手に重いものを持っていることを思い出した。硬直したように硬い手をほどいて、すっかり変形してしまった鍋を床に置いた。
そういえばこの鍋、「ちょっといい鍋があれば、美味しいご飯が作れると思う」と夫にねだって買ってもらったものだった。結局、すぐ焦げ付くから使わなくなったけれど。
まさか、こんな風に役に立つなんて。
「人って、鍋で死ぬんだなあ」
ぼんやり口にすると、なんだかおかしくって。私はお腹の底からこみあげてくるまま笑った。
重い鍋で人を殴り続けたせいで震える手が、私が笑うたびにケタケタと痙攣した。
私の笑い声は、リビングにどこまでもどこまでも隅々までこだましていく。
壁に反射して返ってくる自分の声は、なんだか自分のものではないように感じた。
***
夫を殺したきっかけは、些細な喧嘩だったように思う。
夫は私が遊びに出て行くことを罵ったし、私は、夫が結婚の時に交わした約束を守ってくれないことを罵り返した。
それで、なんだか今日は不思議といつもより喧嘩が収まらなかった。二人とも何かおかしかったのかもしれない。
夫は私を罵るだけ罵って、そして私に背を向けた。私が、
「晩ご飯はどうするの」
と言ったら、夫は「適当に外で済ませた」と言った。そして私に背を向け、背広を脱いで着替え始めた。
夫の何もかもを許せなかった。
何もかもを。
私は気づけば、キッチンの棚の中を探していた。
一番丈夫な金物を、探していた。
それで見つけたのが、新婚の時に買ってもらった鍋だった。丈夫で、重いお鍋。
だから、それで。
私は背後から夫を殴った。
夫はよろめきながら床に膝をついた。だから、さらに殴りやすくなった。
私は2度、3度と、夫の頭を殴り続けた。右から、左から。上から、何度も。
最後に、横向きになった夫が、震えながら私を見上げた。
目が合った。夫の黒い瞳の中には、私が映っている。
でも、ときめきも、きらきらも感じなかった。
私は、
「こっち見ないでよ」
そう言って、鍋を振るった。
それで夫は動かなくなった。
それで終わりだった。
冷静で同時に熱かった。熱いけれど、どうしようもなく冷めてもいた。息をした。何度も何度も吸って吐いた。まるで、今まで何度も練習してきたことを淡々とこなしたように、心のどこかが冷えていた。
殺してしまったが、後悔はなかった。ただ、困ることはあった。夫の死体をどうしたものか、ということだ。
死体の始末なんて、全く見当がつかない。山に埋めるとか、海に沈めるとか、それぐらいしか思いつかないけど、どれもうまくいく予感がしなかった。きっと誰かに見つかる気がする。
一体、どうしたものか。
けれど、不思議なもので。夫の死体をどうするかという問題について、解決策は向こうから飛び込んできたのだった。
夫を殺した次の日。
それでも、馴染みの美容室の予約を、私は忘れなかった。
夫を殺しても、日常はいつものように回っている。馴染みの美容院の受付は、いつも通り事務的に、少しけだるげに予約を確認してくれた。
そうしてカラーとカットをしてもらっている最中。隣の席の会話が聞こえてきた。
「これ、オカルト好きの友達から聞いた噂話なんですけどね」
若い美容師は、いかにもコワい話をする、といった様子で大きな目をぱちぱち瞬かせ、茶目っ気たっぷりにニヤリと、言った。
「
<続>
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