「いひゃいっ!」


 私は涙目になったシルチェスターの頬から手を離しました。そして「ごめんね」と彼を抱きしめます。

(本当は心の片隅で、今日こそはデビュタントのドレスについて打ち合わせができるんじゃないかと思っていた……)


 八歳の従弟の指摘通り、私は本当は泣きたいのです。今にも泣きそうだったのです。こうして慰めるように細い体を抱いていれば、潤んだ瞳を見せずに済みます。


「ひとりぼっちのデビュタントで本当にいいの? 八歳の僕にも、十分すぎるほど婚約破棄の理由になると思えるんだけど。大舞踏会には他国の王侯貴族もいっぱい来るでしょ? いわゆる『新ヒーロー』みたいな人が、現れないとも限らないよ?」


 私はシルチェスターを抱きしめたまま「うーん」と唸りました。ついでに鼻もすすります。


「領民のことを思えば賭けには出られないわ。アクアノート公爵は、いずれ自分の孫が──私に子供がひとりしかできなければ、ひ孫の誰かが──フォレット伯爵領を継ぐという前提で、すでに支援をしてくださっている。技術協力、人材育成のための教育研修、安全啓蒙活動。この三年で、フォレット領の人々は搾取されるどころか、より豊かになったの」


「だから、あのクソ野郎の花嫁になるの? 一生愛されなくても? エイドリアナ王女殿下にくっついて、クソ野郎がクランデル王国に行っちゃったらどうするのさ。アクアノート公爵はまだまだ元気なんでしょ、爵位を継ぐまで帰ってこない可能性もあるよ?」


「建国祭と収穫感謝祭とアクアノート公爵のお誕生日には帰ってくると思うから、そこを狙えば子供は何とか……あるいは財力に物を言わせて、私が通い妻になって子種をゲットするという手も……」


「やめてよお、悲しくなっちゃうよお、アイシアには幸せになってほしいよお」


 びええええ、とシルチェスターが泣き始めました。私は慌てて体を離し、ドレスのポケットからハンカチを取り出して従弟の涙を拭います。


(ありがとうシルチェスター、私の代わりに泣いてくれて)


 泣くという行為は、悲しみを昇華させるためのものです。わあわあ泣くシルチェスターが私の悲しみまで吸い取ってくれたらしく、私は冷静になることができました。


(うん、初心に返るって大事ね。婚約して三年雑に扱われたけど、ひとりぼっちのデビュタントが決定したけど、ランダル様と結婚するのが一番いい。フォレット伯爵領のために『白い結婚』というわけにはいかないから、ナニしてアレする必要はあって……余計嫌われちゃうだろうけど。でも彼が、一生をエイドリアナ王女殿下捧げたとしても、絶対に文句を言わないから許してほしい)


 私は焦らずゆっくり時間をかけ、シルチェスターが落ちつくのを待ちました。その間も脳内で、どんどんランダル様の評価が上がっていきます。


「婚約者として正しく扱ってほしいなんて、欲張りになっていた自分が恥ずかしいわ。ランダル様は私を脅して大金庫を開けさせて、好きなだけ宝石を持っていくこともできたのに。『貸してくれ』って頭を下げるなんて、やっぱり彼って物凄く誠実……!」


「「アイシア様、誠実の定義が大幅にズレてますっ!」」


 つい脳内の言葉を口に出してしまった次の瞬間、使用人部屋の扉が勢いよく開きました。執事のニコラスと侍女頭のミリーが飛び込んできます。

 揃って最古参の使用人で、似た者夫婦でもある彼らの形相があまりにすさまじいので、シルチェスターが「ひええ」と悲鳴を上げました。ようやく引っ込みかけていた涙が、また溢れそうになっています。

 私は右手で「よしよし」とシルチェスターの背中を撫で、左手で「声を抑えてくれ」とニコラスとミリーに合図をしました。


「ランダル様は、エイドリアナ王女殿下に相応しいジュエリーセットを、ちゃんと選べた?」


 私は穏やかな声で尋ねます。

 ニコラスとミリーは顔を見合わせ、同時に深々とため息をつき、幾分か語気を弱めた声で答えました。


「随分と迷っていらっしゃるご様子でした。アドバイスを求められましたが、使用人の分際で出過ぎた真似はできませんので差し控えました。いやあ、老体に大金庫の寒さはこたえまして、何度かふらついてランダル様の足を踏んづけてしまいましたよ。さんざん悩んで、ルビーのジュエリーセット『マビ・チェリータ』をお持ち帰りになりました」


 五十三歳のニコラスが眉間に皺を寄せます。茶髪をオールバックにし、片眼鏡をつけた彼はキングオブ執事といった風情です。


「何の言い訳か知りませんけれど『これが一番小粒だから』とかなんとかおっしゃってましたわ。まあ侍女頭としては最後までおもてなししなければなりませんから、フォレット領特産の健康茶をお出ししました。ランダル様ったら真っ青な顔をして帰って行かれましたわ。ちょっと苦いだけなのに、騎士って軟弱ですのねえ」


 五十一歳のミリーは肩を怒らせました。赤毛をきっちりと髪を結い上げて、シミひとつないお仕着せを纏った彼女は、いかにも上級使用人らしい生真面目な風貌です。


「ニコラス、ミリー、君たちは最高だよ」


 シルチェスターが左手の袖口で涙を拭い、右手でグッドサインと呼ばれる拳を握った状態で親指を立てるジェスチャーをしました。


「なんてこと……」


 なぜか満足げに微笑み合う三人を見ながら、私はサーッと血の気が引くのを感じました。

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