流砂の底
秋犬
もう這い上がれない
それは、うちの馬鹿姉のひと言ではじまった。
「ようちゃん、赤ちゃん出来ちゃった」
「誰の子だよ」
「多分ようちゃん」
俺とそいつの他に誰もいないリビングが一気に広くなった気がした。
「
この
「違う。その週やってないもん」
「本当に俺の子供なのか?」
「だからそうだって言ってるじゃん」
クソが。こうなるともう話し合いにも何にもならない。
「責任とれよ馬鹿」
「なんで?」
「19歳と14歳じゃどう考えても成人が責任とるべきだろ」
「なんで? 私、女だよ」
知らねーよ馬鹿。なんでこいつが姉なんだよ。
「だから、赤ちゃん生むならどうすればいいかなーって相談したくて」
「生むのか!?」
「だって、堕ろすとか怖いし」
こういう時、姉は異様に無表情になる。俺は頑張って冷静になろうとする。
「あのな、俺は未成年なの。だからそういうのは相談されても無理だし、言うなら寺崎さんに言えって」
「でもようちゃんの子だよ? 殺していいの?」
そう言って馬鹿姉は冷たい俺の手を取って、直に自分の腹に押し当てる。
「殺すもなにも、俺には全く関係ないし中絶するなら好きにしろよ」
あったかい腹の体温が、じわじわと俺の手に伝わってくる。こういうとき自分の手の冷たさが申し訳なくて手を引っ込めようとしたけど、姉は手を離してくれない。
「関係あるでしょ、出したんだから」
そう言われると、苦しい。なんでこいつはこんなに馬鹿なんだろう。もし馬鹿じゃなかったら、それかこいつが馬鹿だってわからないくらい俺が馬鹿だったら、こういうことにはならなかったかもしれない。
俺だって、好きな女を中絶させるなんてしたくない。
***
だいたいあのときのことだって、俺は未だに夢か何かだと思ってる。あの日は確か、異様に曇ってて寒い日だった。気温が冷蔵庫とかテレビで言っていたような気がする。
うちは親が両方不倫してるから、家族水入らずなんて俺の記憶にある限り一切なかった。だから姉も高校に上がってからはさっさとバイトして金貯めて、在学中から彼氏を作ってはそいつの家に転がり込んで追い出されてを繰り返していた。高校卒業してからはふらふらとバイトをして、そのうち何人目かの安定した彼氏の寺崎さんと結婚するんだとばかり思ってた。
その姉が寺崎さんに殴られて部屋を追い出されたって、泣いて帰ってきた。どうせ姉が馬鹿なことを言ったんだろうと思う。俺も寺崎さんとは会ったことがある。俺の知ってるクズ親と違って、兄貴分って感じのいい人だった。だから、こいつならうちの馬鹿姉を幸せにしてやれるって思ったんだ。
でも、今は父親の不倫相手が姉の部屋に住み着いている。不倫相手の家に住み着くって意味がわからないけど、そうなったんだから仕方ない。猫みたいに盛るだけ盛るくせに、たまに夕食とか作ってみせて「陽一君も私がお母さんだったら嬉しいでしょう」とかふざけたことを言うので、この前テーブルをひっくり返したら父親にぶん殴られた。てめえをぶん殴らなかっただけありがたく思え。
だから、俺も馬鹿姉みたいに早くこのクソ環境から飛び出したかった。だけど、その馬鹿姉が夜遅くになって居場所がないからって俺の部屋に逃げ込んできたんだ。
『邪魔だから帰れよ』
『どうして、ここだって私の家なんだよ?』
そんなことはわかってる。クソみてーな家だけど、ここは俺の家だし馬鹿姉の実家だ。ここからどこかに行きたくても、最終的に戻ってくるのはここ以外ない。
『ようちゃんは私が可哀想じゃないの?』
『はいはい可哀想ですね、自分が一番可哀想かわいそー』
昔からそうだ。この家では誰が一番可哀想かグランプリが毎回開催される。
家では女として見られなくなったからと、職場で若い男を捕まえて滅多に家に帰らない母親。それをいいことに嫁に逃げられたけど俺は優しいから嫁のことを許してやってるんだ、と開き直って愛人を家に連れ込む父親。そんなクズ親に育てられて自己肯定感が下がって、DV野郎とばかり付き合っては別れてを繰り返してきた姉。
そして、そんなクズ親を心底見下して育ったから本当に縋れるものが姉しかいない俺。
本当に、はやくこの部屋から出て行ってほしかった。
俺もこの馬鹿姉をぶん殴れるくらいこいつを見限っていればよかったのに。
『ようちゃん、もう寝よう。昔みたいに一緒に』
馬鹿姉は勝手に俺のベッドに潜り込んでいる。本当に馬鹿だな、こいつは。
『嫌だ』
『どうして?』
『俺が寺崎さんを裏切ることになるから』
もう嫌だ。こんなイカれた部屋に俺はいたくない。さて、どこで寝ようかな。いっそ今から俺が寺崎さんのところに謝りに行くべきなのかもしれない。そんで寺崎さんの家で寝ればいい。
『そのベッド使えよ。俺がどっか別のところにで寝るから』
俺が部屋を出ようとすると、甘えた声が後ろから聞こえる。
『嫌だ、ここにいて』
その声に涙が混ざっているような気がした。泣くのだけは、やめてほしい。
『嫌だ』
『ダメ、来て』
横暴だ。どうして姉って生き物はこんなにわがままなんだ。
『一度だけだからな』
『ふふ、久しぶり』
姉の強烈なリクエストによって、俺は仕方なく姉と同衾することになった。せっかくなので、姉の顔をガン見しておくことにする。多分、こんな機会はもうこれ以上他にないだろう。
『おっきくなったねえ。あんなに小さかったのに』
姉が俺を撫でる。昔、クズ親たちが今の関係に落ち着くまであいつらは毎晩怒鳴り合っていた。離婚するしない、子供をどうするか、相手に慰謝料を要求するしない。怒鳴り合いは嫌だったけど、俺たちの処遇についてはもうどうしようもないんだと俺は冷めていた。でも、姉は違っていた。「ようちゃんと一緒に暮らしたい」って、俺のところで毎晩泣いていた。俺も姉とは離れたくなかった。
俺は姉が泣くのが嫌だった。それで一緒に泣いていた。
だからよく、くっついて寝ていた。
5歳と10歳で、同じ布団で、泣きながら寝ていた。
『うるせー、その口塞ぐぞ』
『反抗期だ』
反抗して何が悪い。嫌いだ、みんな嫌いだ。
クズ親も、馬鹿な姉も、流される俺も。
やっぱり、こいつをぶん殴っておくべきだったんだ。
女だからって情けなんかかける必要なかった。
どう足掻いてもこいつは女なんだよ。
俺が守りたい、たった一人の女だ。
大好きな女を大切にしたいって思うのは、おかしいことじゃないだろう。
だから今日だけ、今日だけ姉を借ります。
俺は寺崎さんに心の中で土下座した。
***
静かなリビングで、俺は姉の腹を撫で回しながらあの日の感触を思い出していた。あれから結局姉は寺崎さんと仲直りして、また一緒によろしくやってるらしい。そんで今日、俺が家にひとりでいる時間を狙って突撃してきたようだ。
「それで、妊娠検査薬とか試したのか?」
「まだ。だってアレもう少ししないと結果出ないって言うし」
「はぁ?」
「生理遅れてるの。だから早めにお知らせしないと、って思って」
遅れてる!? 遅れてるだけだって!!??
「待てよ、妊娠確定してないのかよ」
「でも妊娠してるかもしれないよ」
ふざけんなよ!! 俺のやっちまったって悩んだ時間返せよ!!
「そういうのは検査薬持ってきて言え! 馬鹿!」
「ああ、また馬鹿って言った!」
「何度でも言う! 馬鹿馬鹿馬鹿大馬鹿野郎!!」
普通ならここでぶん殴るところだけど、俺は大好きな女の顔は殴れなかった。その代わり、馬鹿な女の身体を抱き寄せてしまった。
苦しい、これ以上触りたくない。どうしてこの馬鹿な女が俺の姉貴なんだよ。お願いだからどこかの誰か、実は俺はあのクズ女から生まれたんじゃないって証明してくれよ。そうすれば、俺はこの馬鹿女と一緒に二人で楽しくやっていけるからさあ。家族なんかいらねえよ。
ああ、でも本当に俺の子ができてたらどうしよう。
その時はマジでごめんなってしか言えないな。
もし生まれてきてしまったら、どうしよう。
その代わり俺が死のう。こんなクズ、生きていたって仕方ない。
生まれてくる赤ん坊には、罪なんか何もないものな。
ごめんな、本当に悪かった。
俺は悔しくて泣いた。
そんな俺の気持ちもわからないで、馬鹿姉は俺を撫でてくれた。
本当にこいつは馬鹿だな。余計好きになっちまうだろうが。
誰にも渡したくない。他の男にも、姉ちゃんが将来生むかもしれない子供にも。
大好きな大好きな、俺だけの姉ちゃんだ。
***
数日後、「生理が来た」って嬉しそうなメッセージが届いた。その次に「今度はゴムつけてしようねえ」ってしょうもないコメントも来た。
ああ、相変わらずこいつは馬鹿だ。馬鹿すぎて反吐が出る。
そんでこいつを好きな俺も、反吐が出るくらいクズだ。
実の姉、しかも
俺もあのクズどもと一緒だ。血は争えないってか。
まあいいさ。同じクズならどこまでも地獄に落ちてやる。
どうせ這い上がれるわけがない。それならこのまま、身を任せるだけだ。
俺は「お前が買ってこい」ってだけ返信した。
〈了〉
流砂の底 秋犬 @Anoni
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