第38話 あの日からずっと


遠くで小鳥の囀る声がする。


閉じていた瞼の裏側に太陽と思われる光が映り込み、俺に夜明けを伝える。

そんな目覚まし代わりの光を鬱陶しがるようにむにゃむにゃと口を鳴らす。


「あっ…お目覚めになられましたか?アレス様」


すぐ近くから懐かしい声が俺の耳をくすぐった。

それは、忘れることのない――ずっと昔からそばに居たもっとも付き合いの長い人。


最後に会ったのは、確か半年以上前。

だから、その声を聞いた時、幻聴かと疑ったんだ。


だって、その声の主は本来ここにいるはずのない人だったから。

しかし、後頭部にあるこの感触がどうしてもあの時と重なってしまって意識が朧げながら、ゆっくり目を開ける。


そこには、3年前と同じ――いや、もっとひどいかもしれない。

今にも泣きだしそうになりながらも必死に涙をこらえている美しい少女の顔があった。


ようやく――ここに帰ってこれた。


力なくよろよろと伸ばした手で彼女のそのきめ細かく透き通った藍色の髪をそっと撫でる。


「………ただいま、レイシャ」


あの日と同じように情けなくも弱々しい声で俺はそう言ったのだ。


「はいっ…お帰りなさい。アレス様。ずっと……ずっと、首を長くしてお待ちしておりました」


伸ばした俺の手を――その感触を確かめるかのように自分の頬に添えるレイシャ。

彼女の仄かに冷たくも温かい体温が伝わってきた。


「また、泣いてるんだな」


「……誰のせいだと思ってるんですか」


大粒の涙をポタポタ落とし俺の顔を濡らす彼女。

泣きながらも満面の笑みで俺を膝枕し、空いた右手でゆっくりと額を撫でるレイシャがそこにいた。





「あのさ……」


「はい……」


「キミがどうしてここにいるのかだけ聞いてもいい?」


見覚えのない部屋。

その一室のベッドに俺は寝かされていた。

考えるにきっと、俺よりも早く目覚めたリリスがここまで運んでくれたのだろう。

本当によくできた弟子である。


しかし、俺に膝枕しているレイシャはいったいどういう経緯でここにいるのだろうか。婚約解消してからというもの一切連絡は取り合っていなかったのに。

3年前と情景が重なってただ目の前の事実を受け入れていたが、少し落ち着き冷静に考えてみると疑問が浮かんでくる。


「王都のお茶会でランパーグ領に奇病が発生したと貴族たちが噂をしていたんです。それで、アレス様のことが心配になって居ても立っても居られなくなりとんできました」


「そ、そうか…とんできたか」


彼女はカーマリア家のご令嬢。

俺がどこの家に婿に出されたかくらいは把握しているだろう。

けど、そうだとしても本当にここまでやってくるのには驚いた。

なんせ、王都からランパーグ侯爵領はそこそこ距離があるし、昔と違って俺たちは婚約者でもなにもない。二人の間にあった関係はもう既に跡形もなく消えていた。


彼女にとって婚約者アレスとの関係はもう過去の話でゲームのシナリオではレイシャはアランに相応しい王妃になろうと精一杯尽くしてたはず。


それがなんで、俺のところに?

呪い(設定)の効果で俺のことを嫌ってるんじゃないのか?


半年前とは違い、呪い(設定)の効果が発揮されているはず。

発動したばかりのあの頃とは違うはずだ。

それなのに、呪い(設定)で俺のことを嫌っているはずのレイシャが今もこうやって膝枕をして以前と変わらぬ目線で俺を見続けてくれている――この状況さえ意味がわからない。


どうなっている。アランは?アランはどうしたんだ?


「俺を心配してくれたのは、ありがたい。だけど、アランのところに行かなくていいのか?」


その言葉をレイシャが聞いた瞬間、あれほど柔和だった笑みがスッとひいていく。

愕然とした表情からの冷めたい視線。

待てよ、この感じ覚えがある。

レイシャがこの表情を見せるのは決まって俺が何か余計なことを言ったときだ。


信じられないと言わんばかりのこの冷め切った表情での膝枕。

とてもシュールな絵面であることは間違いない。

あ、あれ…?おかしいな。

もしかして、さっきまでレイシャの笑顔ってのはバグでようやくシナリオ通りのレイシャに戻ったのか?

呪い(設定)が機能していなくて、さっきまで涙を見せていたとするなら納得でき――

現実逃避とも取れるそんな言い訳を考えているときだった。


彼女の冷たい小さな手が俺の両頬にパチンと添えられる。


「……れ、レイシャ??」


俺を覗き込むように俯き、真っ直ぐ瞳を捉えてくる。その仕草は昔のレイシャからは考えられないもので、そっと視線を逸らそうとしても何処までもついてきて、顔を動かそうにも両手で頬を固定されているため動かせない。


文字通り、俺は彼女に捕まっていたのだ。


「アレス様、私のことバカにしていますか?」


「な、なんで…?」


そんなことするわけない。


彼女はシナリオでアランを取られまいと主人公を妨害する悪役令嬢。

シナリオのためとは言え、自分に落ち度がないにも関わらず不幸になる不憫な少女だ。


それに、その設定がなかったとしてもレイシャは俺にとって長年付き添ってくれた婚約者でこの世で一番信頼できる人物。

例え、この先に艱難辛苦が待ち受けていたとしても最後には幸せを掴み取ってほしいとさえ思っている。

そんな人物を悪く思うはずがなかった。


「だって……こんな時でさえアレス様は、アラン王子のことをおっしゃるではないですか」


「そ、それは、レイシャの婚約者がアランだったから」


くどいようだが、彼女と俺はもうすでに何の関係性もない。

強いて言うならば、元婚約者というだけ。

彼女が王族を追放された俺を構う理由なんてどこにもないはず。


「そんなの……最初から、どうでもいいんです」


「は…?」


「無断で王都を抜け出しアレス様と会ったこと――これが、罪に問われ公爵家を追い出されるのであれば、甘んじてそれを受け入れます」


「おい……そんなことで自分を犠牲にする必要——」


「アレス様だけには言われたくないですッ!!」


「れ、レイシャ…?」


「また、この力をお使いになって……以前使って死にそうになったことをお忘れですか!3年前、こうやって、お約束して下さいましたよね?もう、こんなことはしないと――」


そんなこともあった。


ベールル遠征で隣国から攻め立てられた時、俺たちの軍勢は数的不利を覆しなんとか勝利をおさめたがそれには大きな代償がついた。


ベールルの街は敵兵と我が騎士の屍が並びそれは酷い有様だった。まだ、未熟で救える生命を救うことが出来なかった俺は、その時初めて未知の領域に足を踏み入れた。ただ、ひとりでも多くの人が助かってほしくて。生きて自分の場所に帰ってほしくて。


後先なんて考えず、俺は魔力を行使した。

そして、一ヶ月という長い期間眠りに着いていた。


「今でも、あの光景を思い出します。誰よりも自分を犠牲にして……自分の責任にして。私との約束も破り、懲りずにまた同じことを……それに比べたら私の無茶なんてなんてことありません」


また大粒の涙を溢れさせるレイシャ。

どうして、彼女はこんな涙を浮かべるのだろうか。

怒ってくれるのだろうか。

俺は、すでに呪い(設定)によってこの世界の人物から嫌われていて彼女にとっては既にどうでもいい有象無象のはずなのに。


「お願いです…もう、こんなことはなさらないでください。一人で全部なんとかしようとしないでください。いつでも私を頼ってください、アレス様」


俺の頬に添える手に力が入る。

真っ直ぐ向けられる瞳を眺めて、俺はずっと抱えていた疑問を投げかける。


「レイシャは、どうして俺のことをそこまで構う?俺のこと嫌いじゃないのか…?」


「……どうしてそんなこと聞くんですか」


「だって、俺は王族から追放させられて、地位も名誉も人望さえもすべて失った情け無い第一王子だ。国家を裏切るような真似をした王子なんてレイシャだって嫌いになるだろ?」


「愚問ですね」


「ぐもん…?」


「そんなこと、あるわけないじゃないですか。私の想いはずっと昔から変わりません」


そう言うと、レイシャは頬に添えていた手の力をさらに強めて俺を固定した。


「な、なにをするん――」


「ふふ、逃がしません」


そして、自分の顔をゆっくり近付けて、唇をそっと重ねた。



どれくらい時間が経っただろうか。

するりと彼女の碧い髪が逃げていく。

そして、ようやく俺を解放すると、恥じらうように頬を染めこう言うのだった。


「私はあの日からずっと、アナタ様を愛しております」






レイシャの唇が離されたとき、俺は現実を疑った。

少し時間が流れお互いに向き合い、目の前に頬を染めたレイシャがいたとしても。

唇に残る感触を確かめても。

そんなことがあるわけないと疑っていた。


だって、あのゲームの呪い(設定)は絶対のもので今までも不当に嫌われてきた。

それなのに、もう半年以上会っていなかったレイシャが俺のことを好き?


普通に考えてあり得ない。あるわけない。

このことを否定したかった。でも、目の前にいるレイシャのその言葉がそれを許してはくれなかった。


「私はあの日から、ずっとアナタ様を愛しております」


そう言った彼女の瞳は、昔と何も変わっておらずあの時と同じように愛慕するかのようにやさしい眼差しだった。


「これがアナタ様への愛の証明です。これでも、まだ信じてもらえませんか?」


「——いや、もう充分伝わった」


「そうですか。それならよかったです」


頬を赤らめながら、ニコリと笑うレイシャ。


それは、俺が今まで見てきた彼女のどの笑顔よりも美しい。

もう、疑うのはやめよう。これが紛れもない真実なんだと。


「その……ありがとな。レイシャ」


「なにがですか……?」


「レイシャにはこれまで、いっぱい助けてもらった」


「そんなこと――」


「あの日、キミがくれたこのネックレス。これのおかげで今の俺がある。ずっと、傍にいてくれてありがとう」


婚約者という関係がなくなって俺たちにはもうなにも残っていないとそう思っていた。

だけど、それは間違いで俺たちを繋ぐものは今も確かにあった。


こうやって、好意を伝えてもらった後に改めて言うのは気恥ずかしさで耐えられないけど、感謝の言葉をどうしてもかたちにしたくて。


俺の言葉に口をパクパクさせながら、また泣いてしまわないようにこみ上げてくるものを必死に我慢しようとして両手で顔を隠すレイシャの背中をそっと摩った。



嗚咽交じりに「こちらこそ、ずっと一緒にいてくれてありがとうございます」と涙ながらに言う彼女に頷いて答える。


結局、涙を我慢できなくなったレイシャの頭をゆっくりと撫でてながら永遠ともいえる刹那の時間を過ごしていたのだった。



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