政治の影

六月の陽光が照りつける午後、工房内に緊張が走った。サン・マルコ教会からの使者が、ひときわ深刻な面持ちで入ってきたのだ。


「大変な事態になっております」

使者の声は震えていた。「昨夜の説教で、サヴォナローラ師が世俗的な芸術を真っ向から否定なさいました。しかも、メディチ家の名を直接挙げて」


マエストロ・ボッティチェッリの表情が石のように固くなる。工房の隅で顔料を調合していたマルコは、手を止めて息を呑んだ。ピエロと視線が交錯する。


使者は声を潜めて続けた。

「街では早くも、一部の過激な信徒たちが芸術品の破壊を始めているとの噂も」


工房内の空気が凍りつく。北窓から差し込む陽光も、急に冷たく感じられた。壁に立てかけられた祭壇画の下絵が、不吉な影を落としている。


「マエストロ」

ピエロが静かに声をかけた。「ベアトリーチェ様からの使いが」


マルコの手が、一瞬止まる。顔料を磨る石臼の音だけが、重苦しい空気の中に響いていた。


入ってきた使者の表情は、これまでになく暗かった。

「お嬢様が、トルナブオーニ家との縁談で」

言葉の途中で、使者は工房内の徒弟たちの存在に気づき、声を潜めた。


マエストロは奥の部屋へと使者を案内した。扉が閉まる音が、妙に重く響く。マルコは黙々と作業を続けようとしたが、手が震えていることに気がついた。


「この街が、大きく変わろうとしているんだな」

ピエロが、独り言のようにつぶやいた。「それも、私たちの予想以上に急速に」


マルコは深く息を吸い、気持ちを落ち着けようとした。石臼を回す手に、必要以上の力が入っているのに気づく。


「メディチ家の影響力が弱まれば、芸術のあり方も変わる」

年長の徒弟が、静かに言った。「トルナブオーニ家との同盟は、彼らにとって最後の砦になるかもしれない」


窓の外では、早くも夕暮れを告げる鐘が鳴り始めていた。六月の陽光は、まだ高く空に残っているというのに。マルコは、その鐘の音に、これまでにない重みを感じていた。


***


翌朝、工房に着いたマルコを、異様な光景が迎えた。床には、前日までの祭壇画の下絵が広げられ、その上にマエストロが跪いていた。しかし、その祈りは苦悩に満ちたものに見えた。


「マエストロ」

マルコが声をかけると、ボッティチェッリはゆっくりと顔を上げた。その目には、深い疲労の色が宿っていた。徹夜で何かを考え続けていたことが、一目で分かった。


「昨夜、サヴォナローラ師の説教を聞きに行ってきた」

マエストロの声は、かすれていた。「確かに、その言葉には真実がある。私たちは、技巧に溺れすぎていたのかもしれない」


「しかし、マエストロ」

マルコは思わず声を上げた。「私たちの絵には、確かな祈りが」


「問題は、その祈りの形だ」

マエストロが、下絵の聖母の表情を指さす。「この美しさは、本当に神の栄光を表現しているのか。それとも、私たち人間の傲慢の表れなのか」


その時、工房の扉が突然開いた。

「マエストロ!」

予期せぬ声に、二人は振り返る。そこには、ベアトリーチェが立っていた。


普段の優雅な装いとは違い、彼女は簡素な服装で、頬は上気していた。明らかに、誰にも気づかれないように工房まで走ってきたのだろう。その姿に、切迫した事態が象徴されているようだった。


「このままでは、フィレンツェの芸術が死んでしまう」

ベアトリーチェの声には、これまでにない強い感情が込められていた。「サヴォナローラ師の教えも、決して間違ってはいません。でも、美を否定することは、魂の否定にも等しいはず。そして——」


彼女は一瞬言葉を詰まらせ、それから決意を固めたように続けた。

「そして、私にはもう、政略結婚という形での妥協はできません」


工房内が水を打ったように静まり返る。その沈黙の中で、外から街の喧騒が聞こえてきた。何やら興奮した群衆の声が、通りに満ちている。


***


「見てください、これを」

ベアトリーチェは、小さな羊皮紙の束を取り出した。手が僅かに震えている。


そこには、これまでマルコたちが見たことのないような素描が記されていた。市井の人々の姿が、極めて簡素な線で捉えられている。技巧を極限まで削ぎ落としながら、なお、魂の震えが伝わってくるような絵だった。


「これは」

マエストロが、息を呑む。「いつ描かれたものだ?」


「昨夜から今朝にかけて」

ベアトリーチェの声は、静かだが芯が通っていた。「サヴォナローラ師の説教の後、眠れずに描き続けました」


マルコは、その素描に見入っていた。パンを焼く職人、子供と遊ぶ母親、祈りを捧げる老人。それは、貴族の令嬢の目を通して見た、フィレンツェの魂そのものだった。技巧の限界に挑戦するのではなく、むしろそれを否定することで、より深い表現に到達している。


「お嬢様」

マエストロの声が震える。「これこそが」


その時、工房の外で突然、大きな物音が響いた。続いて、興奮した群衆の声が近づいてくる。


ピエロが窓から外を覗き、青ざめた顔で振り返った。

「サヴォナローラ師の信徒たちです。世俗的な芸術品を探して回っているようです」


工房内の緊張が、一気に高まる。壁に立てかけられた祭壇画の下絵が、不吉な影を落としていた。


***


「急いで、裏口から」

マエストロが素早く判断を下す。「お嬢様を」


しかし、ベアトリーチェは静かに首を横に振った。

「もう、逃げることはしません」


彼女は、持参した素描を広げ、作業台の上に置いた。

「これが、私たちの答えになるはずです」


工房の外では、群衆の声がますます近づいていた。マルコは、自分の心臓の鼓動が聞こえるほどだった。しかし、不思議なことに恐怖は感じなかった。むしろ、この瞬間に立ち会えることへの、奇妙な高揚感があった。


「お嬢様」

マエストロが、ゆっくりと頷く。「おっしゃる通りです」


その時、工房の扉が勢いよく開かれた。サヴォナローラの信徒たちが、興奮した面持ちで入ってきた。しかし、工房内の静謐な空気に、彼らの勢いが一瞬、止まる。


「これが、私たちの祈りです」

ベアトリーチェが、凛とした声で言った。「技巧を否定し、魂の真実だけを求めた祈り」


信徒たちは、呆然と素描を見つめていた。そこには、彼らの説く禁欲的な精神が、芸術という形で結実していた。技巧の否定が、新たな表現の可能性を開いていることを、誰もが感じ取っていた。


窓から差し込む夕陽が、素描の上に柔らかな光を投げかけていた。その瞬間、工房は奇妙な静寂に包まれた。古い時代の終わりと、新しい時代の始まりが、確かな形で示された瞬間だった。

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