猫の恩返し

逢雲千生

第1話 サユリちゃん

 これは、私が社会人になってすぐの話です。

 私の名前は、そうですね……キリエとさせていただきます。

 もう、十年以上も昔の話になりますが、節目ということもあり、この話をしようと思いました。

 若い娘の体験談として、聞いていただければと思います。

 ……あれは、私が社会人になった年の八月――短い夏休みを控え、仕事を必死で覚えようとしていた頃のことでした。

 実家から急な連絡があり、疲れた体で電話をかけ直したところ、いとこのサユリちゃん――こちらも仮の名前にさせていただきます――が、急に亡くなったと言われました。

 サユリちゃんは、私より五つ年上の女性で、美人と名高い憧れの人です。

 その年のお正月に、私の実家で会ったばかりだったので、何か病気をしたのか、それとも事故だったのかとお母さんに聞いたところ、「自殺だったの……」と、暗い声で告げられました。

「……それで、夏休みまで少し早いのですが、有休をいただきたいのです」

 上司に説明する時も、まだ実感が湧かなかった。

 母の泣きそうな声も、自分が悲しい気持ちで電話を切ったことも覚えているのに、ふわふわした気持ちのまま会社に来て、こうして上司に有給を申請している。

 悲しそうな目をする上司に、「わかりました。では、こちらで手続きをしておきますから、明日から実家に行きなさい」と言われたけれど、足は重い。

 同僚達から「大丈夫?」と聞かれても、頷けたかどうかもわからない。

 自分の受け持つ仕事を代わってもらい、同僚達に挨拶を済ませ、気がつけば電車に乗っていた。

 電車の揺れに身を任せながら、流れていくビルを見て、サユリちゃんのことを思い出した。

 サユリちゃんはお父さんの弟の子供で、いとこの中で一番年上だ。

 明るくて可愛い女の子だったから、私のお父さんだけでなく、親戚のみんなが褒めていた。けれど、彼女は決して驕ることはなく、いつも謙遜していた。

 それは中学生になっても、高校生になっても変わらなくて、そんなふうに自分の容姿や性格を自慢しない彼女に、いつしか憧れを抱いていたのだ。

 私は特別可愛いわけではないし、美人でもない。

 親戚のおじさん達からは、嫁の貰い手がないのではないかとからかわれて、いつも悔しい思いをしていたけれど、サユリちゃんだけは笑わなかった。

 いつも私のことを「可愛い」と言ってくれて、「おじさん達って、見る目がないのね」と、お茶目に笑ってくれたのだ。

 そんな彼女が大好きで、お盆やお正月のたびに、彼女と話をしていたけれど、大人になっても心根が変わらない彼女を、どこか羨ましく思うこともあった。

 好きな人ができても、容姿のことで振られることがあったし、垢抜けないところが無理だと、酷いことを言われてこともある。

 それでも、私は自分らしくありたいと、サユリちゃんのように胸を張りたいと思っていたけれど、時々は美人になったサユリちゃんを妬ましく思うこともあった。

 綺麗になっていくサユリちゃんが、嫌いになりそうな時もあった。

 それでも嫌いになれなかったのは、サユリちゃんが私の味方でいてくれたからかもしれない。

 スマホを持ってからは、事あるごとにサユリちゃんに報告して、振られたことや失敗したこと、容姿をからかわれたことを話しては、いつも慰めてもらっていたから、私は嫌いになれなかったのだろう。

 どんな時でも、しんに話を聞いてくれたから、私はずっとサユリちゃんに憧れて、大好きだったんだろう。

 それなのに、彼女は突然亡くなってしまった。

 お母さんの話だと、自殺だったらしい。

 詳しいことは聞かされなかったと、泣きながら話してくれた。

 実家に近づくにつれて、ふわふわしていた頭が、だんだんはっきりしてくる。

 そうやって、私に事実を告げようと迫ってくる気がした。

 それでも、もしかしたらドッキリなのでは、という希望を持って自分の実家に行ったけれど、現実は現実だった。

 迎えてくれたお母さんは泣いていて、目が真っ赤だったし、お父さんも、いつもより元気がない。

 話し合いに来ていたサユリちゃんのお母さん——私の叔母さんが、私の顔を見るなり声を上げて泣き出すと、ドッキリなんて言葉は、一瞬で頭から消え去った。

「……本当に、私も、どうしてこうなったのかわからないの。あの子が苦しんでいたことも、そこまで追い詰められていたことも、何も、気づいてあげられなくて……っ」

「叔母さん、落ち着いて。ゆっくりでいいから」

 声を出して泣く叔母さんの背中をさすりながら、私は優しく言う。

 深呼吸をしながら、叔母さんは話してくれた。

「私もね、あの子の同僚だって人から聞いた話なの。なんでも、サユリの同期の子に、カナミという女性がいるらしいのだけど、その子にサユリの彼氏がとられたと言われたわ」

 サユリちゃんには、同棲して二年になるミキオという彼氏がいた。

 勤めている会社で出会った一つ年上の人らしくて、去年サユリちゃんに見せてもらった写真では、とても誠実な人に見えた。

 結婚を視野に入れての同棲だったこともあり、叔母さんも叔父さんもミキオさんと会ったことがあるらしく、その時を楽しみしていたらしい。

 けれど、去年の冬からサユリちゃんは浮気されていて、ずっと悩んでいたらしかった。

 今年のお正月に帰省した時は、そんな素振りを見せなかったため、気づかなかったそうだ。

 それが、今年のゴールデンウィーク前に明らかになり、婚約前だったため、そのままお別れしたのだという。

 そのままミキオさんは、カナミの元へ行ったらしいのだけれど、その後のことは、会社の同僚も知らないそうだ。

「あの子、私達には心配をかけたくないから、ずっと黙っていたって、先月に言われたわ。彼氏と別れたって泣いていて、わざわざ家に戻ってきたのよ。相当つらかったと思うの。それでも、浮気相手のことも彼氏のことも詳しく教えてくれなくて、そのまま自分の家に戻ってしまった。それが、あの子との最後だったのよっ……」

 先月の休みに、サユリちゃんは一度実家に帰ってきていた。

 そこで彼氏と別れたこと、彼氏は別れてすぐに浮気相手のところへ行ったことを報告され、結婚の話は無かったことになったと、叔母さん達は言われたそうだ。

 当然、叔母さん達は納得できず、彼氏を問い詰める気でいたけれど、サユリちゃんが何もしないでほしいと言ってきたため、仕方なく何もしないことにしたらしい。

 いつもと変わらない様子で家に戻る娘を見送ったのが最後で、それからのことは、連絡をくれた同僚の人から聞いた話だそうだ。

 カナミという女性は、サユリちゃんから彼氏を取ったことを自慢していたらしく、あまり素行の良い人ではない。

 彼女以外でも、既婚者や彼女持ちの社員に声をかけるほど見境がなく、そのせいで別れた既婚者が一人いるそうだ。

 女性社員には横柄な態度を取りやすく、後輩や年下の同僚をいびることもあったそうだ。

 上司にとっては頭の痛い存在だったそうだけれど、決定的な証拠がなく、結果、辞めていく人が何人も出ていた。

 上司が注意しても、八つ当たりで周囲に迷惑をかけるし、目に余るからと同期が怒っても逆ギレしてくるらしく、人事に相談しても「証拠がないから」と動いてもらえなかったそうなのだ。

 そこまでされて、なぜ問題にできなかったのかといえば、彼女が上の人に気に入られていたから、らしい。

 そこまで大きな会社ではないため、別部署の課長や部長と話ができる機会があり、そこで気に入られたようなのだ。

 上の人には良い人だと思われたこともあって、下手に訴え出れば、訴えた側が不利になると思っての沈黙だったそうだ。

「……何年も、皆さんで我慢していたらしいのだけど、サユリが彼氏と別れてから、そのカナミという女が自慢を始めたらしいの。サユリの彼氏と付き合い始めたってね」

 叔母さんが、悔しそうに、憎らしげに口元を歪め、歯を食いしばる。

 誰もいない空間を睨みつけ、忌ま忌ましげに「あの女……」と言葉を漏らした。

「あの女……サユリの目の前で、彼氏との日々をせきに語り、サユリを馬鹿にしていたのよっ……! 誰も、何も言えないのを良いことに、サユリを……サユリをぉおっ……ううっ!」

 堪えきれず、叔母さんは泣いた。

 叫ぶように泣く叔母さんの口からは、カナミという人への恨みと、サユリちゃんを捨てたミキオさんへの憎しみが、どんどんと出ていく。

 それを聞きながら、私は何となく、サユリちゃんが死んだ理由を知った。

 サユリちゃんは、本当にミキオさんが大好きだった。

 いつも幸せだって顔で、「私ね、彼と結婚したら」と前置きして、将来のことを語っていた。

 美人な彼女が、急に可愛らしくなる瞬間が、ミキオさんの話をする時で、私はその顔を見るのが好きだった。

 結婚式では、二人を目一杯お祝いして、精一杯の「おめでとう」を言おうと決めていた。

 ドレスも靴も新調して、絶対ブーケを取ると決めていた。

 ブーケを取ったら、笑顔で「次は私が幸せになるからね!」と言おうとも決めていて、そうやって、私なりにおめでとうを伝えようと思っていた。

 なのに……。

「なんで、なんで死んじゃったのよぉ……」

 涙が溢れた。

 そこでようやく、私はサユリちゃんの死を認めたのかもしれない。

 ぼやける視界の中で、泣き続ける叔母さんを見ながら、私も一緒に泣いた。

 私のお母さんも泣いて、お父さんも泣いた。

 四人で泣きながら、サユリちゃんの死を悲しんで、ミキオさんとカナミさんを恨んだ。

 それやって泣き続けた数日後、サユリちゃんの通夜になった。

 彼女の遺体は自宅で発見されたけれど、死後数日経っていたため、捜査が入っていた。

 暑い夏の日だったけれど、彼女が消し忘れたらしい冷房のおかげで、腐敗はそこまで進んでいなかったそうだ。

 自宅に戻ってくるまで時間がかかったものの、初めて見た遺体は、とても綺麗だった。

 通夜は自宅でやりたいという叔母さんの願いで、サユリちゃんの遺体は家の一番奥にある部屋に寝かされている。

 連絡をもらって私が行った時には、すでに棺に入れられていて、首に真っ白い包帯を巻いていた。

 真っ白い着物を着て、紅をさした姿はまるで寝ているようだった。

 叔母さんに許可をいただいて頬に触れると、冬の空気みたいに冷たくて、けれど、なんだか温かかった。

「……本当に、死んじゃったんだね」

 叔母さんと泣くだけ泣いたからか、遺体を前にしても涙は出なかった。

 悲しくないわけではなかったけれど、今はただ、静かに休ませてあげたいと思った。

 叔母さんが隣に来ると、涙ぐみながら、サユリちゃんの髪に触れる。

 綺麗に手入れしていた自慢の髪はパサついていて、胸を締め付けてくる気がする。

「髪の毛ね、このままにしてもらったの。あの子、へんに髪をいじられるの嫌いだったから、私が櫛でとかしたのよ」

「そうだったんだ。うん、すっごく綺麗」

「ふふ。ありがとうね」

 初めて知ったけれど、サユリちゃんって、髪型を変えたりするのが嫌いな人だったんだ。

 まあ、私もそこまで髪型を変えることはないけれど、このタイミングで知るというのも、変な感じだった。

 もし彼女が今も生きていたら、何かの拍子に聞けたかも知れないから……。

 肩くらいまで伸びたサユリちゃんの髪を綺麗に整えた叔母さんは、驚いた顔で下を見る。

「あら、ミー子。あなた、今までどこに行ってたの?」

 叔母さんの足元には、いつの間にか飼い猫のミー子が座っていた。

 

 

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猫の恩返し 逢雲千生 @houn_itsuki

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