第1章 夏村さんは最強です(1)

 教室を出て行った夏村さんの足音が、廊下の奥で小さくなっていき、やがて完全に消えた。

 その残響だけが耳の奥に残り、俺はしばし机の上に手を置いたまま動けなかった。

 ……何だこの感覚は。

 心臓はまだバクバクしてるし、さっきまでの熱気が残って頬は火照っている。けれど、背中には冷や汗がじわっと広がっていて、まるで風邪を引きかけた時のような気持ち悪さだ。

 カバンを取り上げて、深くため息をひとつ。

 そうだ。問題はこれからだ。


 形だけとはいえ、彼女ができた……。

 この事実は、俺の高校生活にとって爆弾級の意味を持つ。

 いや、爆弾どころか核弾頭クラスだ。下手すれば明日からの人生が灰になる。

 しかも相手は「総番」なんて異名を持つ夏村さん。恋愛ゲームでいきなりラスボスが攻略対象になりました、みたいな話だ。

 いや違うな……あれは攻略対象どころか、一歩間違えればゲームオーバー確定のバッドエンドキャラじゃないか。

 ……問題は、どうやって自分の教室に戻るか。

 俺は廊下に視線をやり、すぐに引っ込めた。

 あの連行劇を目撃したやつらは、当然まだざわついてるだろう。

 このまま普通に戻れば「おかえりー」とはならない。

 間違いなく「何があったんだ」と詰め寄られる。

 それが怖い。

 いや、正直に言えば怖いというより、面倒だ。

 俺の辞書には「恋愛経験ゼロ」という太い線で書き込まれた単語がある。

 だから質問攻めにあっても、まともに答えられる自信がない。


 どうするか。

 頭の中で簡単な地図を描く。

 総合棟には階段が二つ。俺のクラスのすぐ横と、廊下を挟んだ八組の横。

 最短ルートで戻れば時間はかからない。だが問題は「視線」だ。

 夏村さんに腕をつかまれて連行されたのは、かなり目立ったはず。

 証人多数の現行犯みたいなものだ。

 ……となれば、最短ルートは危険。

 遠回りでも八組側の階段を選ぶのがベターだろう。


 俺はカバンを肩にかけて、静かに教室を出た。

 途中で出会う生徒の反応を観察すれば、連行劇がどう広まってるかも推測できる。

 計画は決まった。あとは実行あるのみ。


 三階。二年生の教室が並ぶフロアに出る。

 廊下を歩く上級生たちは、俺を見ても特に反応しない。

 ……よし、二年生は無関心らしい。俺の噂なんてどうでもいいんだろう。

 少し気が楽になって、足取りも軽くなった。

 しかし次の二階……俺の学年に足を踏み入れた瞬間。

 空気が変わった。

 廊下を歩く同級生たちの視線が一斉に俺に突き刺さってきた。

 「痛っ!」と声が出そうなくらい、ガン見だ。

 その目には驚きが混じっている。

 どうやら「なぜか無事に帰ってきた」という事実が信じられないらしい。

 俺は努めて平静を装った。

 中三の頃に浴びたあの嫌な視線……蔑みや敵意を含んだ視線ではない。

 ただただ、驚きと好奇。

 ……まあ、マシといえばマシだ。


 それにしても、夏村さんが先に戻ってくれたのは助かった。

 もし二人で仲良く教室に入っていたら、噂は秒で校内を駆け抜けていただろう。

 あの人、見た目はどう考えても「彼氏と並んで歩く」キャラじゃないからな。

 ……そう考えると、案外気を遣ってくれたのかもしれない。

 ……いやいや、そんなことはないか。


 教室前の廊下。

 案の定、クラスの中は異様に静まり返っていた。

 廊下の中間層たちは、俺の姿を見つけて一気にざわつく。

 「おい、帰ってきたぞ」「マジで無事なのか」……そんな小声が飛び交う。

 俺は背筋を伸ばし、なるべく堂々と歩いた。

 心臓はバクバクしてるのに、足取りだけは妙にゆっくりになる。

 さながら処刑台に向かう囚人の気分だ。

 後ろのドアから教室に入ると、仲間たちが立ち上がって駆け寄ってきた。

「無事の生還おめでとう……」と坂本。

「おめでとうじゃねぇだろ!」俺は思わず突っ込む。

「誰かが後を追うとか、先生呼びに行くとか、そういう約束じゃなかったか!?」

 すると、坂本も佐々木も、多江さんも、そろって首を横に振った。

「動けなかったんだよ。夏村さんの取り巻きがドアふさいでたから」


 ……なるほど。

 つまり、俺は最初から「見捨てられた」のではなく「見殺しにされた」わけか。

 微妙に表現が違うだけで、結論は同じじゃねぇか。

 そこへさくらちゃんが恐る恐る声をかけてきた。

「かずくん……夏村さんに、何かされなかった?」

「いや……奇跡的に無事。いやまあ、何もなかったわけじゃないけど」

 俺が濁したその瞬間、佐々木の不用意な大声が炸裂した。

「すげぇ! かず、ヤンキー姉さんを論破したのか!?」


 ……バカ野郎。


 教室の空気が一変する。

 窓際にいたクラスヤンキーたちが、一斉に立ち上がった。


「あぁ?! 今なつさんの名前出したの誰だ!」

「てめぇら、なつさんになんかしたのか!」

 ……はい、死亡フラグ立ちました。

 俺は思わず天を仰ぐ。

 佐々木、おまえはいつも余計なひと言で墓穴を掘るんだよ。

 今度は俺だけじゃなく、仲間まで危険にさらしてどうする。

 頭の中で夏村さんの笑顔……いや、あの悪魔的な小悪魔スマイルがよみがえる。

『すべて、俺にま・か・せ・ろっ!』


 ……本当に任せて大丈夫なのか、正直疑問だ。

 けれど、なぜだろう。今は不思議と「何とかなる」気がしてきた。

 仮彼女という肩書きができただけで、人間ってここまで楽観的になれるものなのか。

 あるいはただの現実逃避か。

 ……ともあれ、この日を境に俺の人生は確実に変わり始めた。

 ヤンキーの夏村さん。彼女が、仮初めでも俺の彼女になった。

 そして、それがどれほど大きな意味を持つのかを、当時の俺はまだ理解していなかった。

 

 <あとがき>

 当作品をここまで読んで頂き、ありがとうございます。

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 2025/08/11、15、17 改稿 

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