丹砂堂鬼録綴り
棺桶六
視線 一
……お父さん、さ。
お祓いしてくれる神社とか、知らない?
おかしいよね、変なこと訊いて。でも、正直ちょっと……限界なんだよね。
梓、いるでしょ? 友達の。あの子と心霊スポット行ったって話したじゃない。……いや、反省してる、してます。お父さんの言うこと、ちゃんと聞いていればよかったって思います。でも今は本当にそれどころじゃなくて……。
その、心スポ行った後……3日くらい経ってからかな。梓と一緒に学校から帰る途中、電車の中でオジサンがすっごいジロジロ見てきたんだよね。ちらちら、じゃなくて、じろじろ。遠慮も何もあったもんじゃなくて。
んで頭にきて、オジサンに「何か用ですか」って言ったら。オジサン振り向いて「え、何がですか?」ってとぼけるの。……分かってる。おかしいよね。オジサン、私が声をかけてから振り向いたの。つまり、私たちに背中を向けて立ってた。私も梓も、さっきまでオジサンにずっと見られてたのは確かなのに、でもオジサンは間違いなくこっちを向いていなかった。
私、混乱しちゃってさ。その時ちょうど駅に着いたから、梓の手を掴んで電車を飛び出したの。まだ降りる駅じゃなかったんだけれど、状況がおかしいし、気まずいし、とにかくその場から離れたくって。
駅に着いてからも周りの人からすごくじろじろ見られている気がして。でもそれは視界の端だけなの。そっちを見返すと、誰も私達の方は向いてない。……頭がおかしくなりそうで、とにかく人目のないところに行きたくて、二人でトイレの個室に逃げ込んだの。
梓は何も感じてないみたいだったけれど、私がそんなだから混乱しちゃって。「心霊スポットなんか行ったせいだ」って泣き出しちゃって……。でも本当に何もなかったんだよ、あの心霊スポット。人がいっぱい死んだ病院だって聞いていたけれど、中は全然そんな感じじゃなかったし。だからオジサン達がこっちを見ていたのも、何かの間違いか気のせいだって言い聞かせてたんだけれど……。
視界の隅を、何か動いた気がして。トイレの扉って下が開いてるでしょ? そこで何かが動いたような。誰かが入ってきて、個室が空くのを待っていたとしたら悪いなと思って。改めて扉の下を見たらそっちを見たら。
目が合ったの。……ううん、梓とじゃない。個室の扉、その下の隙間から覗いていた目と。
誰かが覗いていたとかじゃない。一つ……一対じゃなかった。大きいのも、小さいのも、色んな大きさの目玉が、私達のこと見てたの。誰かが下から覗いてたとかじゃない、目玉だけがぎゅうぎゅうに詰まってた。私達、声も上げられずに。ただ震えて、でも目をそらすこともできなくて、ずっと動けなかった。
気付いたら、何時間も経ってた。個室を飛び出したら外はすっかり暗くなっていて。まだ電車は動いていたから帰れはしたけれど……。あれから相変わらず電車の中や人混みで誰かに見られている気がするし、それに隙間からまた目玉が……。
ねぇ、もう限界なの。
そういう神社とか、本当に知らない……?
●
(……何をやっているんだ、俺は)
磐田郁郎は神社の拝殿で、そう自嘲した。
神社にいることが、ではない。むしろ彼にとって神社は比較的馴染みのある空間だった。ブライダル業界に就職して20年以上、神前式を手掛けた回数などもう覚えていない。仕事だけでなくプライベートでも、娘の椿の初宮参りや七五三などは欠かさずこの来摩神社でお参りしている。
「それでは只今より、岩田椿様のお祓いを執り行います」
顔見知りの禰宜がそう言いながら、意味ありげに郁郎に目配せする。郁郎の隣で胡床に腰かけた椿はそれに気付くことなく、ただがくがくと震えるように頷く。
社内ではそれなりに責任を負う立場となり、実家の援助も受けながら妻一人娘一人で暮らすには十分な広さの一戸建ても購入した人生を、郁郎は順風満帆と自認していた。反抗期を終えたはずの娘――椿の態度がよそよそしくなったのも、学校からの帰宅がやけに遅くなったのも、アルバイト代で購入するには少し無理があるブランド物の所持品が増えたのも、いずれは家族が力を合わせて乗り越えられる課題だと。
――お父さん、さ。お祓い……除霊してくれる神社とか、知らない?
ある朝。久しぶりに顔を見せた椿が彼に伝えた一言は、予想外のものだった。確かに食卓でも最近口数が少なく、どこか憔悴しているような気はしていた。だとしても、「除霊」などと言い出すほど何かに追い詰められているとは思ってもみなかった。
幽霊の存在なぞ信じていない郁郎だが、それでも彼は娘の希望を叶えるため、会社と提携している神社にお祓いの予約を取り付けた。宮司も禰宜も彼の知り合いだ。思春期の少女が何かの思い付きで頼んだお祓いを、子供扱いせず真摯に対応してくれるよう言い含めてある。
狩衣を纏った老齢の宮司は恭しく修祓と献饌を終えたのち、幾重にも折りたたまれた奉書紙を広げる。書かれているのは除霊の祝詞――などではない。崇敬者の厄除けを祭神に祈念する、一般的な祝詞だ。
「それでは祝詞を奏上する間、御起立になり御低頭下さい」
背後に侍る禰宜の言う通り、郁郎と椿は立ち上がり頭を垂れる。板張りの床の上に揃ったつま先を見ながら、(これで椿も納得してくれるといいんだが)と胸中で呟いた。
「掛けまくも畏き……」
宮司の祝詞を聞きながら、郁郎はこの後のことを考えた。子供のことだ、学校という狭い社会でストレスに晒されて何かを見間違えたんだろう。いいきっかけだ、こうして出かけるのも久しぶりだし、どこかで食事でもしながら親娘水入らずで話を聞こう。思えば椿のことは妻に任せ切りだった、これからはもっと気に掛けないと――
「掛けまくも畏き……」
郁郎はふと視線をつま先の前へと向けた。祝詞奏上の間は頭を下げると最初に教わったのは、まだ入社して間もない頃。だから頭は上げずに視線を宮司の方へと向ける。
「掛けまくも、畏き……」
聞き間違いではなかった。神職としての教養がない郁郎でも、それが通常の祝詞奏上ではないことに気が付く。掛けまくも畏き、とは「言葉に出すのも畏れ多い」という意味で、祝詞の冒頭での決まり文句のようなものだ。何度も繰り返すような内容ではない。だが宮司はつっかえながらも、郁郎の視界の外で壊れたオルゴールのようにその冒頭を繰り返す。
ぱた。ぱた。
宮司が奏上する祝詞の合間から、軽い音が届いた。郁郎はたまらず顔を上げる。本来ならそれを咎めるはずの禰宜も、異常に気を取られていた。音は宮司の足元。その体が遮って郁郎からは見ることができない。それでも郁郎は、音の発生源であろう宮司の足元から目が離せなかった。
ぱたた、たっ。
宮司がしきりに顔を擦っている。老齢で目が衰えていると聞いていたとはいえ、祝詞を何度もつっかえるほどだったか――と郁郎が考えたその時。
「な、何だこれは⁉」
宮司が叫び声を上げて後ずさる。郁郎はようやく、先ほどから続いていた音の正体を知った。宮司の両目から滴り落ち、彼の足元に血溜まりを作っていた夥しい量の血涙。鮮血は拝殿の床だけでなく、宮司の纏う狩衣にも、手にしていた奉書紙にも赤い痕跡を残している。
「宮司、眼が!」
禰宜が叫び、宮司は顔に手を当てる。その手を染めた血で、ようやく周囲を穢す赤が自分の両目から流れ出ていることに気付いたのだろう。驚愕で顔を歪ませながらよろめき、その足袋を履いた足が血溜まりを踏む。
ずるり、と足が滑った。勢いで宮司の足が高く持ち上がり、反対に体が傾く。バランスを失った彼の頭部が落ちた先にあったのは、神饌台――祭神へ捧げる酒や食物等が乗った、白木の台だった。
ご、と鈍い音を立てた後、宮司の体から力が抜ける。
「親父ィっ!」
仕事中は父親ではなく宮司として接するようきつく言われていたことも忘れ、禰宜が叫び声を上げながら宮司へと駆け寄る。そのまま体を抱き起そうとするのを見て、郁郎が「救急車だ!」と声を荒げた。
「気道を確保して、人工呼吸を――」
そう言いながらスマートフォンを取り出した郁郎の腕を、椿が掴む。
「お……お祓いは?」
その言葉を耳にして、郁郎はしばし絶句した。目の前で人が倒れているのに、自分の娘は一体何を言っているのだ、と。だが郁郎が怒鳴りつけるより早く、椿は「失敗したんだ」と呟いた。
「何……?」
「やっぱり、神社のお祓いなんかじゃ駄目だったんだ。あの"眼"から、もう逃げられないんだ!」
駄目とは何だ。友人と体験したあの話は、何かも間違いではなく本当なのか。郁郎の脳裏に、今すぐ問い質したいことがいくつも浮かぶ。しかし極度の混乱からか、目の前で椿はふと気を失った。弛緩して拝殿に体を投げ出した娘が倒れないよう抱き止めながら、郁郎は自分の置かれた状況を飲み込めずにいた。
――一体、俺は何をやっているんだ。
混乱する拝殿のなかで、郁郎の呟きに耳を傾ける者はどこにもいなかった。
●
「脳振盪だったよ。精密検査もやったけれど脳に異常なし、すぐに神社へ戻るって親父は息巻いてる。いい機会だし、ちょっとくらい病院でゆっくりしてほしいんだけどな」
「そうか……」
お祓い、という名目の厄除け祈願から3日後。郁郎と禰宜の下野は、とある定食屋で顔を突き合わせていた。結婚式場のスタッフと神社の神職という立場で出会った2人だが、不思議と気が合い家族ぐるみで付き合う友人同士だ。お互いの職場が近いこともあり、こうして昼食を共にするのも珍しくはない。
「脳はいいとして、眼の方は?」
「そっちも異常なし。あんなに血が出たはずなのにピンピンしてるよ、拝殿の掃除の方が大変だった」
「それは……よかった」
その時、2人の机に注文した料理が運ばれてきた。下野は郁郎の前に置かれたざる蕎麦を見て「どうした、ダイエットか?」と驚く。彼が頼むのはいつも定食か丼物。この店では大盛り以外を注文するのは初めてだった。
「最近、ちょっと胃の調子が悪くて」
そうこぼしながら二、三口ほど手を付けて、郁郎は箸を置く。胃の辺りをさすりながらため息を吐いた。
「椿ちゃんは、その後どうなんだ?」
「ほとんど部屋から出てこないよ。風呂は流石に入っているみたいだが、食事もずっと妻が部屋に運んでる」
「……悪いことをしたよ。厄除け祈願をしておけば気が晴れるなんて」
「こっちこそ、面倒な頼み事をして親父さんが怪我したんだ」
郁郎が椿の「お祓い」という頼み事を聞いた時、真っ先に相談したのが下野だ。霊のお祓いなんてできないが、椿にお祓いと偽って厄除け祈願をするくらいなら問題ないだろう――というのが、彼と出した結論だった。
「……なぁ、前にも聞いたけれど。本当に除霊はできないのか?」
「できない」
下野は割り箸を手に、運ばれてきた親子丼を食べながら簡潔に答えた。
「怪談じゃあ『寺や神社に駆け込んで事なきを得た』なんてことはよくあるけれど、あんなものはフィクションだ。そもそも霊は道教の概念で、神道の管轄外だよ。神道では死ねば祖霊となって子孫を見守る。人に祟ることもあるけれど、神主が『破ァッ!』って言えば除霊できるなんてことはない」
それは概ね、最初に郁郎が下野に相談した際に聞いた内容と同じだった。郁郎もその時まではまさかこのような事態になるとは思わず、下野の説明に納得したのだが。
「言っておくが、俺は親父のあれが祟りや何かだとは思っていないぞ。未知の病気を突如発症して、医者は何が原因か特定できなかったって言われた方がまだ納得できる」
「俺もそう思いたいよ」
少し前までは、それは郁郎の本意だった。しかし先日の神社での一件、そして気絶するほどに追い詰められた椿の姿を見て、彼の心は揺らいでいた。
「なぁ、道教のお寺に伝手はないか? 日本になければ中国でも構わない」
「……お前、本気か?」
そう尋ねながらも、下野は郁郎が冗談で言っている訳ではないことを感じていた。
「本気だよ。娘のためなら外国に行って除霊してもらうくらい――痛ッ!」
突如、郁郎の胸を刺すような痛みが襲う。その激しさに耐えられず、胸に手を当てて机に突っ伏した。
「大丈夫か⁉」
「あぁ、胃潰瘍かもな。最近仕事が忙しくて」
懐から郁郎は胃薬を取り出すと、コップの水で嚥下する。
「難しいかもしれないけれど、ちゃんと病院には行った方がいいぞ。手遅れになったら神頼みしかできないんだから」
「その時はまたお前の神社にお願いするよ」
「馬鹿、そうなる前にどうにかしろって言ってるんだよ」
発作的なものなのか、痛みはすぐに引いた。蕎麦はまだほとんど残っているが、郁郎はとても手を付ける気にならなかった。店に申し訳なさを感じつつも、伝票を手にして席を立とうとしたその時。
「――申し訳ございませんッ!」
食堂の中に大声が響き渡る。郁郎も下田も、そして昼食時で混雑している店中の視線が一点に集中した。彼らの視線の先にいたのは、レジの前で腰を90度に折って頭を下げる青年だった。
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