第4話

 

 羽田空港からフライトしたSL0388便はシドニーに向けて飛んでいく。

 視界は良好で特に何の問題も無い、いつも通りの空の旅だった


「うっ……くっ……ぐっ」


「機長? どうかされましたか?」

 苦しげな声を上げる機長に副操縦士は思わず声をかける。

 脈動する世界の衝撃が二人の、そして乗客の魂を呼び起こす。


「ぶっ、ふふぶぶ……」

 機長の顔色が灰色を通り越して黒くなり鼻がどんどん伸びていく。

 あっという間に機長は夢を喰らう化物、獏に成り果てた。


「これじゃあこの飛行機は────」

 『は』の形のまま固定された副操縦士の口から滑った何かが飛び出す。

 際限なく飛び出すそれはすぐに副操縦士の体格以上となり、操縦室を埋め尽くした。

 目から、鼻から、口から出てくる半固形のその生物は超巨大なナメクジだった。

 質量保存の法則が幻であるかのように飛び出し続けたナメクジはやがて扉をぶち破り、同じく悪夢に取り込まれ変身していく乗客を飲み込み窓を割り、飛行機全体を包み込む。

 コントロールを失ったSL0388便は突如として表れた金色のスーパーセルに突っ込み、そのまま太平洋に墜落した。

 このままいけば近年稀に見る、原因不明の飛行機事故────になるはずだった。

 飛行機の墜落した海が逆巻き輝く。そのまま海水を退けて炎の渦が天を貫いた。

 即死した数十の命は混じり合い、転生し、巨大な火の鳥となり、旅客機よりもずっと速くシドニーへと飛んでいった。


 アメリカ、ルイジアナ州では異様な大きさの満月が観測された。

 しかしその異常気象を騒ぐ人間はもういなかった。

 州の外れにある貧しい農家の軒下の地面が盛り上がり、死者の腕が出てきた。

 かつて人間が見せた差別意識の極地、白い悪夢を纏った人間が蘇ったのだ。

 更に湖から、冷蔵庫から、墓からも飛び出して、鍬や鎌を死人のような手で握った。

 人の声とは思えない叫びが一体となり向かった先の木では、人間の形をした肉塊が奇妙な果実のようにぶら下がっている。

 白装束の非人間たちが一斉に木に括られた肉塊に噛みつき血を啜り始めた。

 ルイジアナは一晩にして、朝も夜もないヴァンパイア・エンパイアと化していた。


 ある紛争地帯の宗教施設に白燐弾が撃ち込まれた。

 老若男女の血あぶくが溶けて混ざり合い生まれた無数のカタツムリが、ひび割れたステンドグラスの上を這っている。

 やがて伸びた触角が殻にくっついて膜を張り、不思議な形の蛹となった。解決不可能と言われていた争いは収まり、今はただ羽化を待つばかり。


 ロンドン橋が崩れ落ちる。

 ソマリアの海賊の歌が島よりも大きな烏賊を召喚する。

 世界を変える発見をした科学者がユリイカと叫びながら塵となる。

 鮮やかなターミネーションが全てを奪い去っていく。

 竣と華怜が虚を空けた世界が。



*********************************



「…………?」

 何かとても悪い夢を見ていた気がする。

 10時間たっぷり寝たときのように、目はぱっちりと覚めて竣は現実に帰還した。

 両腕に包帯が巻かれて顎が固定されている理由も、ここが病院であることも直ぐに分かるくらいには頭が冴えていた。


「骨は折れてないって。よかったね。昨日はすごい熱出してうなされたりしてたけど」

 私服姿の華怜がベッドの隣で林檎の皮を剥いていた。あのナイフが普通の使われ方をしているのは初めてではないか。

 時計を見ると夕方4時を回ったくらいだが、『昨日熱を出していた』なんて、今日は何日の何曜日なんだろう。


「……ごめん……俺……」

 呼び出しにも応じられず、まともに謝ることもできず、喧嘩に負けてこんなところにいる。

 言葉を続けようとしたが咳が出てしまった。まだ喉に血が張り付いてるようだ。


「喉乾いた?」


「乾いたかも……」

 ベッドの上で長い間じっとしていた割には、喉自体はあまり乾いていないが、喉の血を洗い流したいので、好意を受け入れることにした。

 テレビの横に置いてあったレモンティーのペットボトルを華怜が手にしたので受け取ろうとすると拒否された。


「持てないでしょう」

 キャップを外して口元に近づけてくる。こんなにも誰かに優しくされたのは本当に初めてなので、なにも言葉が出なかった。

 久しぶりのぬるい水分が身体に染み渡っていく時に、気が付いてしまう。


「これ、華怜の……」


「それがどうしたの?」

 嫌じゃないのか、という言葉は残りを飲み干した華怜を見て引っ込んでしまった。 


「頭の傷、元からだよね。医者も自傷だって言ってた。どうしたの?」


「これは……転んだだけで……」


「言い方を変えるわ。話しなさい」

 吐きだした方がいいと華怜は判断したのだろう。いつもの命令に見せかけた精いっぱいの優しさに甘えて弱った身体を寝かせたまま口を開く。


「俺……家追い出されるんだって。学校も行けなくなるし、もうどう頑張っても俺は俺のままじゃいられないみたいだ……」

 自暴自棄になって暴れてみても、目を覚ませば現実は地続きだった。

 せめて華怜の存在が現実でよかった。搾りカスみたいな俺の人生で、それだけがよかった。


「だけど、だから華怜、君だけは……ずっと君のままでいてほしい。俺がずっと見ているから、きっとどこかで君を見ているから。俺だけは、本当の君を見ているから」

 たとえこの先、犯罪者になっても、ホームレスになっても、華怜が華怜のままで生きていられるなら。そう願いたいけど、無理だって分かっている。

 そのうち自分はケチな強盗で人を殺して、華怜は成金と結婚して嫌な大人の仲間入りをする。この世界は強すぎる。


「悔しいなぁ……! なんで俺はただ生きることさえもできないんだろう?」

 子供一人空手で生きようとした結果がこれだ。積み上げることが人の生だとして、ちょっと積んだ端から形のない鬼に崩されていく。

 ベッドに腕枕をして頭を傾げた華怜がすぐそばでボロボロの竣の横顔を見ていた。


「この先どうするの?」


「分かんないや……。もうどこか、遠くへ消えちまいたい」


「ねぇ、もしそうなら一緒に逃げてくれる?」

 どくん、と時が止まる気がした。すぐそばにある華怜の表情は真剣そのもので、まばたきすらもしていない。

 華怜が初めて弱音を口にした────だがその瞳の輝きは、砕けた星の最後のように一瞬だった。


「なんてね」

 ふっ、と現実に屈した息を漏らして華怜は小さく笑った。こんな怪我人に何を言っているんだか、と心の声が聞こえてくるようだ。


「ごめん……ごめんな……華怜……弱くって俺……!」

 これほど自分の無力を呪ったことはない。弱い竣には願いを叶えられないから、華怜は本当の願いを冗談にしてしまった。なんでも言うことを聞くと、本気だったはずなのに。

 あの線路に沿ってバイクを転がして、二人でどこまでも行きたいけれど、線路はいつか途切れるしガソリンも無くなる。そう考えてしまう自分が大嫌いだ。


「痛ぅっ……!」

 少なくとも捻挫はしているであろう手をぎゅうっと握られ、目を見つめられる。

 もう痛くてもなんでもいいから、華怜と見つめ合うこの瞬間に時間が止まってほしかった。


「……ピアス、持ってるでしょ。もう一度あたしにくれる?」


「……! ああ……! もちろん」

 少し動くだけでパキパキ音を立てる身体に鞭打ち、ポケットからピアスを取り出す。

 中学生の自分には大出血だった流れ星のピアスを黙って受け取った華怜は、それが完璧な角度だと知っているかのように首を傾げて微笑む。

 見惚れている間に魔法使いのような白い手が右耳に一等星を輝かせていた。

 ああ、華怜に、華怜が望むならあの星を摘んでその耳に、その髪に飾ってあげたい。だけど、どれだけ強く願っても竣にそんな力はない。あまりにも弱い。


「そのピアス、ずっと……。…………」

 ずっと付けていてほしいなんて、ありえないことだと分かっていた。

 そのピアスの値段は2万円だよ。高校生にしては高いけれど、いつか君はもっと高級なピアスを貰うんだろう。いや、なんなら本当はもう持っているのかもしれない。

 いつか華怜がそのピアスを何も思わずに捨てる日が来ると思うと怖くて、悲しくて、悔しくて。


「…………。竣、よく聴いて」

 包帯で固定された手を再び握られた。ズキズキ止まらない痛みと共に覚えていろと言わんばかりで、華怜は今までもずっとそうだった。


「約束する。あたしは変わらない。あたしはあたしであることをやめたりしない。たとえ世界がどれだけ変わっても、最後まで望むままに、赴くままにあたしはあたしでいる」


「華怜……」


「だから、竣も最後まで竣でいて」


「……? それは一体どういう意味……?」

 命尽きるその日までというよりも、不思議ともっとずっと近い日を指しているように感じた。

 華怜は言葉で答える代わりにテレビの電源を入れた。


『太平洋に消えたSL0388便 行方不明者数71人』


「なん……だ……こりゃ……」

 テロップからどこかで飛行機の事故が起こったことは分かる。

 だが、それを読み上げるべきニュースキャスターの首からは頭の代わりに蛸のような触手が生えており、喋ることもせずに揺れているばかりなのだ。

 こんなの即座に『しばらくお待ち下さい』に切り替わるべき場面なのに、生放送であるはずのスタジオは静寂を保っている。悲鳴の一つもない。

 切り替わったチャンネルでは、普通の力士とミノタウロスが相撲をとっていたが行司は真剣そのものの顔をしている。

 悪夢から目覚めるようにテレビの電源が消された。


「分かるのは」


「…………」


「あたし達じゃどうしようもないってことね」

 今まで見てきた不可解な現象も化物も、全て幻覚ではなく現実だった。目に見えて分かりやすくなったのがここ数日というだけで、かなり前から始まってはいたのだ。

 だが、そうなると問題なのは世界と同時に自分までも変わってしまったことで────


「でもね、こっちの方があたしはずっと好きかも」

 西日差し込む世界はむしろこの方が綺麗に見える。

 たとえ遠くの山の方でビルほどの高さの巨大ムカデが見えても、病院の前の道路をペストマスクを着けた亡霊が首なし犬の散歩をしていても。心はずっと落ち着いていた。


「林檎、食べるでしょ」


「あ、うん。……いててっ」

 どうせ気にしてもどうしようもないし、誰かが具体的にどう危険だとも説明していないから頭の中でどんどん世界の優先度は下がっていった。

 だがせっかく華怜が口元に持ってきてくれた林檎を口に入れようとしても、顎が痛んで上手く口を開けない。

 幸いにして腹は減ってはいないが、少なくとも今日明日はまともな飯は食べられそうにない。


「あらら、これ食べてさっさと病院出ようと思ったんだけどね」

 竣の口の中に少し入った林檎をそのまま口にする華怜に困惑する。

 自分たちはいつここまで距離が近くなったのだろう────竣の顔が華怜の両手に優しく挟まれた。華怜の手がやけに熱く感じられる。


(え?)

 こんなに近くに華怜の顔がある。そういう色素なのか、睫毛の色まで亜麻色で、炎が飛び出しているかのように燃える赤瑪瑙の瞳。

 いつもよりも赤いのは気のせいではなく、今から何かを、決定的に自分たちの関係を変える何かをするぞという意志を示しているように思えた。

 急激な緊張に、ベタにも唾を飲み込むために口を閉じようとしたら親指を差し込まれて強制的に開きっぱなしにされた。


「‼」

 唇が触れるか触れないかの隙間を空けて、どろどろに噛み砕かれた林檎が流れ込んでくる。血管が破裂するほどの甘酸っぱさが唾液に包み込まれ、まるでとろけた服薬ゼリーのようだ。

 いま実際に起きていることが自分でも信じられず、華怜の口の中でよく噛まれた林檎を己の舌で奥歯に擦り付けるとまだしゃりしゃりと音がした。

 そんなに見ていて面白いのか、華怜は僅か5㎝の距離で目を細めながらこちらを見ていた。

 ただの口移しです、なんて絶対に嘘だ。この行為には親切心よりも遥かに大きい意図が多数絡み合っている。

 耳元に心臓があるかのような、背中がぞわぞわするような時間ももうすぐ終わると、林檎の代わりに垂れてくる唾液が教えていた。


(まだ7個……────!)

 終わりじゃない、切り分けた林檎がまだまだある。

 心臓がもたない────そう思った瞬間に触れた唇が、本当に心臓を止めた。

 偶然触れたのではない。思わず動かしてしまった手が華怜の手で押さえられている。顔にかかる静かな鼻息と押し込まれる舌が理性をも持っていく。

 生まれて初めての唇付けは果実の味で────しっかり覚えるように、と言わんばかりにまだ華怜の口に残っていた林檎が竣の口に余すことなく擦り込まれていく。

 ああ、そうか。まだ残っていたから全部持っていけということか────なんてそんな訳がない。それならこんなに唇で唇を甘噛みする必要も、舌を絡めてくる必要もない。

 ちかちかと光る視界が沈みかける夕陽を真っ黄色に染めた。


「な……今の……どうして?」

 今までもっと苛烈なことをしているというのに、これだけで頭が燃え尽きてしまいそうだった。

 生きている意味が全く感じられなかった人生の全てが報われた感覚だった。

 そっと自分の唇に触れると互いの唾液で指が滑った。数秒前までそんなことをしていたなんて自分のことなのに信じられない。


「こぼれそうだったから口移ししたほうがいいと……」

 明後日の方向を見ながら建前を口にしていた華怜だが、口も目もぽかんと開けた竣を見て言葉を止めた。

 すぅっ、と息を吸い込む音だけがなぜだが鮮明に聞こえた気がする。


「嘘……キスしてみたかっただけ……」

 キスだと言い切ってしまった。

 照れきって顔を赤らめうつむく少女は、何者にも侵せない無敵の価値がある。

 そんな表情だけで、泥沼ヘドロの心の底に映った月のように全てをまばゆく光らせる。


「誰かとキスするの初めてなんだ」

 今の自分の顔を鏡で見たらぶち割りたくなるだろう。何故か泣きそうになってしまっている。

 きっとキスなんて母親とすらしていない。病院じゃなくてどっかの駅のトイレで生まれてそのまんま捨てられたんだろうと思っているくらいだ。


「……もう一個食べる?」

 自身の口を覆い隠した華怜の手の中から漏れ聞こえた呟き。

 何を意味しているかなんて、あからさまだった。


「…………」


「はやく! うんとかはいとか言いなさい!」


「はい!」

 今度はもう隠すこともしなかった。

 食べる、と言ったのに林檎の皿には目も向けずに華怜は竣に覆い被さってきたのだ。

 患者にこんなことしているところを見られたら看護師に何を言われるか、なんてこんな世界では不要な心配だった。

 少しだけ癖のある髪が竣の顔にかかり、間髪入れず理性を破壊する薫香が消毒液のにおいを押し退けて竣を包み込んだ。

 あの艷やかな唇が触れている、血色のいい肉厚の舌を入れてきている。学校の、あるいは世界の誰もが知らない顔をして。

 曲がりなりにも入院しているというのに若いというか青いというか、元気なもので竣は敏感に反応して勃起してしまっていた。

 どうかバレないでくれ、とは思っても全然収まらずに掛け布団を持ち上げており、投げやりに目を瞑って何かに飢えているかのように与え続けられる刺激に呑まれるしかなかった。


 まだ関わってから3ヶ月も経っていない。赤ん坊ならまだはいはいもできないくらいの短い時間で自分たちはキスをした。

 自分は一体いつの間に華怜の心を摑んでいたのか。

 人の心の機微に疎く、人間関係の経験が少なすぎる竣には全く分からなかった。

 ただ、残り時間が少ないことだけを思い出した。



*********************************



 無事退院した竣はどうするべきかと悩んでいた。

 こんな世界をどう生きていけばいいのだろう。

 相談する相手だって華怜しかいないが、訊いてみたら『面白そうだから学校に来なさい』とだけ返ってきた。

 華怜がそう言うならそこが地獄だろうが悪夢だろうが飛び込まなければならない。

 ガソリンの量が心配なバイクのキーを持って、竣は瘴気渦巻く外へと踏み出した。

 すれ違う生徒の半分は異形と化した学校で、なんとか教室に辿り着く。

 だがそこにも安心など一切なかった。


「どうしたのその大怪我。大丈夫?」


「あ、ああ……ちょっと転んだだけ」

 後ろの女子生徒が両腕や顔を怪我した竣に声をかけてくる。彼女はまともな見た目だし中身もまともなようだが、もっと大丈夫かどうか見るべきところがあるだろう。

 教室を見渡すと一番前の席にはネズミが数十匹集っているし、竣の斜め前には手だけが浮かんで本を捲っている。


「まじやめろって服部」

 遠く離れた席に座る男子生徒が後ろの男子生徒から何かいたずらをされたようで、笑いながら暴れている。だが、服部と呼ばれた生徒は既にまともな見た目ではなかった。

 口から人間の両脚が太ももまで飛び出しており、その足で前の男子生徒の顔を掴み親指を無理やり両目に押し込んでいるのだ。


「あとにしろよお前ほんとさ~」


(後にってなんだよ……)

 確実に失明していると言い切れるくらいに眼窩に指がねじ込まれているのにどちらも笑っている。見ているだけで気絶しそうな光景だ。


(華怜……!)

 そこだけはいつものように、華怜が扉を開けたら教室は静まり返った。

 普段ならば無表情でつかつかと自分の席まで歩いていくが、流石にそうはいかないようだ。見知った顔までも変わり果ててしまったのを見て表情が歪んでいる。

 竣と目が合った華怜は頷いて自分の席へと向かった。


(……! あの子は……)

 クラスでいじめのターゲットとなり誰にも助けてもらえなかった哀れな女の子が教室に入ってきた。暗い性格を象徴するように真っ黒な髪が長かったことは確かに覚えている。

 だがあそこまで長くは────見間違いだった。首から鎖骨にかけての黒さを髪と間違えたのだ。よく見ると肌にできた無数の窪みに黒い何か、まるで蟲の卵のようなものが埋まっている。

 俯きながら歩いていた女子生徒が顔を隠している黒い髪をかきあげた。


「うっ……」

 右目を中心に小動物に齧られたかのように肉が露出して穴が空き、そこに何匹もの大型の蜂が蠢いていた。高熱の時に見る悪夢そのものだ。

 ホームルームのベルと共に校庭からズンッ、と重たい衝撃が響いてくる。


「‼」

 悲鳴をなんとか堪えたのは勇気があるからじゃない。叫んだ瞬間に飛びかかられると思ったからだ。果たして衝撃の原因は竣の左隣、ベランダにあった。

 手すりをその体重でひん曲げて、体長10mはあろうかというがしゃ髑髏が腰掛けていた。席が埋まっていないのは教室の真ん中の一個だけだから、あそこに座っていた生徒がこんな姿になってしまったのだろう。


「おっ、今日は全員いるな。元気でよろしい」

 まだ人間の教師が入ってくる。顔がひきつっているのは自分と華怜だけだった。


(どこが元気なんだよ)

 服部から飛びだした脚に目をほじられていた生徒は笑顔のまま動かなくなっている。

 誰がどう見たって死んでいる。生徒の死体がそこにあるというのに、出席確認を始めた教師を見て竣は受け入れるしかなかった。

 この世界はぶっ壊れてしまったのだと。



*********************************



 午後の授業はまともに受けられたもんじゃなかった。

 物理の教師は宙で舞う白いボロきれになって黒板の前で浮かんでいるだけだし、音楽なんて人間の声より化物共の好き勝手な声の方が大きくてピアノの伴奏も聞こえなかった。

 なんとか学校は終わったが、華怜はやることがあると言って帰ってしまった。

 こんな世界になってまでやることってなんだと思いつつも、竣もこんな世界なのに律儀にバイトに向かっていた。

 ちらと覗いたハンバーガーショップのレジでは白ヤギが精算機に頭突きしているし、客は客で巨大な頭をした四足歩行の化物になっているものもいた。

 世界が混乱に陥った時に火事場泥棒で金品強奪、なんてのはよくある話だが果たしてこの世界で金なんて意味あるのだろうか。


「なんだありゃ」

 たこ焼き屋に向かったら高島はいなかった。

 代わりに王冠を被った豚が二足で直立してたこ焼きを作っている。

 たぶんこれバイト代貰えないな────とは思いつつも声をかける。


「おい、交代だろ」


「…………?」

 縮れた導線のような尻尾をぴこぴこさせて、聞いているのだか聞いていないのだか分からない顔でこちらを見てくる。

 これは本当に高島なのだろうか、と思ったが吸ったばかりの煙草の跡がある。


「豚野郎。交代に来たぞ」


「ブガっ?」

 全く話が通じておらず、頭に手をあてて天を仰ぐ。豚野郎がまさか本当に豚野郎になるなんて、面白すぎて呆れ返る。だが人間の姿よりもこっちの方がずっと好感が持てる。

 見上げた空はミルフィーユのように何層もの分厚い雲に覆われていた。


「……たこ焼きくれ」


「ブブッ」

 なんとなく言ってみただけだった。それなのに豚と化した高島は紛うことなき豚足を器用に使ってパックにたこ焼きを詰めて渡してくれた。

 なんだかこっちの世界のほうが好きかも────なんて本気で思ってしまう。


「ほら、五百円」


「?」

 台の上に500円玉を置くが大きな鼻でにおいを嗅いで顔をしかめるだけだった。

 裏側を覗き込んでみると、売上を入れるタッパーに一円も入っていない。


「金……いらねえの?」

 ぶひぶひ言っているだけの高島からたこ焼きを受け取るが、つぶらな瞳を煙にしばたかせているだけで何も言わない。

 これで竣に対してすることは終わった、と言っているかのように新しいたこ焼きを作り始めている。


「うまっ……」

 勝手にマヨネーズとソースをかけて口にする。屋台に寄りかかって見上げた空はいっそ清々しいほどに禍々しい。

 ぼんやりしていると新しい客がやってきた。羊のような身体に肉食獣よりも凶悪な牙と角の生えた化物が行儀よく並んでいる。


「じゃあな」

 交代だと言っても話が通じていない。それならまだしも、一円たりとも儲けを出していないのだから、もうここで働く必要がない。

 プライドなんか捨てた方が楽だと高島は言ったが、プライドどころか心まで捨てた結果大変身してしまったわけだ。


「まぁ、お前の作るたこ焼きはマジで美味かったよ」

 これが収穫なのかどうかは分からないが、一つ分かったことがある。

 あらゆる生物や物が変身しているが、人の姿を失ってもまだ自分を人間だと思っている者と、悪夢に取り込まれ完全に発狂してしまった者がいる。

 時間の問題だ。自分も獣になりかけていた。まだ人の姿を保っているのが不思議なくらいだ。

 きっと幾許もしないうちに自分は心まで獣に堕ちる。


(……もう少しだけもってくれ)

 変身するのはもういい。自分が自分じゃいられなくなるのは世界がどうあれ同じ事だった。でも約束の日まであと少しなんだ。

 妄想の中だけだったアレもソレも、なんだって好きなだけ────きっと純粋な好意からくれたであろう華怜の唇付けが脳裏にちらつく。


(それでいいのかな……)

 きっと楽しいだろう、嬉しいだろう、気持ちがいいだろう、満たされるだろう。

 だけど世界が終わるなら最後の最後くらい、と欲望を解放するなんていうあまりにもありきたりな結末が二人の終わりでいいのだろうか。それが本当に自分の望みなのだろうか。

 でも、それなら俺は華怜をどうしたいんだろう。どう思っているんだろう。この世に生まれて誰からも一度も好意なんて欠片ももらったことがない、ガリガリにやせ細った俺にはどうしていいかわからない。


『竣も最後まで竣でいて』

 思い返すと華怜らしい言葉だ。今はそれどころじゃない、ではなく世界が終わる今だからこそって言っていたんだ。でもそれってすごく難しいよ。

 俺なんていつも壁にぶつかってそのたびに形が変わってしまって、もう自分でも自分がわからないんだ。

 だけどせめて、答えが出るまでは────3日後までは俺は俺のままでいたい。



********************************* 



 今日の霊九守邸は一部の使用人を除いて大半が留守となっていた。

 霊九守一族だけではなく、各業界の会長社長や政界の重要人物等々のほとんどが今日の夜、霊九守ビルに集まっている。

 一族の頂点に立つ霊九守燈の32歳の誕生日だった。きっと華やかな食事と豪奢なオーケストラに囲まれて燈は楽しんでいるだろう。

 一族全て、つまり父も『母』も出席しているのに華怜は出ていない。

 燈との仲自体は悪くなかったが、幼い頃に父から霊九守の名前で公の場に出てはいけないと言われたからだ。


「……好都合とはこのことね」

 父の部屋の金庫から鍵を見つけ、百年は開かれていなかったであろう倉庫の地下から見つけ出した古紙の巻物。

 華怜は少しだけ読んでから風呂に入り、もう一度自室に籠もって読み始めた。

 竣に教えてもらった美味しい作り方に倣って作ったココアは混乱する頭を急速に癒やしていく。煙草に火を付けるとそれだけで心はかなり落ち着いた。


(……元々は貴族でもなんでもない……ただの商人一族……)

 そこに記されているのは霊九守の歴史の全て。

 口伝とはいきなり矛盾するのが、鎌倉時代まで霊九守一族は『霊九守』という名前ではなかったということ。

 1000年以上前からこの国を牛耳ってきたということになっているのに。

 少なくとも平安時代は『九(いちじく)』という名字だったそうだ。


「なるほど……」

 劣化していて読めないところや現代語訳が分からないところを飛ばしつつ読み進めていく。

 書かれていることを素直に受け取るなら、どうも昔は一族に生まれた女児を忌み子扱いなどしていなかったようだ。

 ただ、九一族の女はみんな厄介な体質を持っていて、数え年で10歳になる前には発狂して死んでしまったのだという。

 座布団の上でぷぅぷぅと寝息を立てて寝るゴン太をちらりと見てから、A4の紙に大事なことを書き記していく。


「……まるでおとぎ話の世界ね」

 しかしその体質こそが大事だったらしい。

 今からおよそ900年ほど前に起こった保元の乱にて敗れ、若くして退位させられた崇徳天皇は讃岐に追いやられた。

 崇徳天皇の側についた公家や武士は全て斬首され、その怨念を全て背負ったまま流刑地で死んだ崇徳天皇は煮詰めた怒りと恨みを背負って最強の怨霊となった。

 そして日本は騒乱の時代を迎えた。民は口々に崇徳天皇の祟りだと口にし、相応の力を持った当時の霊能力者も次々と呪い殺されたという。

 どこまでが本当のことかは分からない。誰だって知っている卑弥呼ですら鬼道なんていう、あまりにも非科学的な力を使って邪馬台国を統治したと記録に残っているのだから。

 やがて時代は流れ、崇徳天皇の名は日本最悪の怨霊として名前は広まったものの、その呪いは前触れもなくぱったりと止んでしまったという。

 不思議に思い讃岐の地を訪れた坊主がそこで見たものは────


「…………。……忌み子、か」

 そして九一族の娘は讃岐に送られて、全ては収束した。

 帰ってきた娘は発狂こそしていなかったものの、既に尋常ならざる存在となっていた。

 娘はそのまま生贄に捧げられ、当時の九一族の当主は時の天皇から霊九守の姓を与えられた。

 以降、霊九守の一族に生まれた全ての女児は忌み子となり、生まれれば即座に殺され死体は念入りに燃やされ灰は海に撒かれたのだという。

 そこより先はさして面白くもない、霊九守一族の隆盛の歴史だった。


「…………」

 ふっ、と溜息混じりの笑いが出る。

 1000年生きる人間はいない。どんな動物も記憶を忘れていく。

 口伝は形を変えていく。霊九守の一族はそんな伝説をも忘れ、ただの夢物語だと思うようになり、そして華怜は殺されることなく育ってしまった。

 あまりにも愚かな世界の黄昏は、想像力の欠如した人間によってもたらされたのだ。


「ゴン太、おいで」

 煙草の火を消し声をかけると、鼻提灯の割れたゴン太が眠そうな顔で華怜の膝に乗ってきた。

 やたら懐くな、とは思っていたが懐くはずだ。こんな体質では。


「また同じ結末になると思う?」

 言葉の足りない疑問を受け止めて、耳をぴこぴこと動かしたゴン太は流れるように後ろ足で耳を掻きだした。

 のん気な動物に見えるが、ずっと一緒にいるから知っている。ゴン太は話を聞いているし理解もしている。理解した上で、どうでもよいのだ。人間なんて。


「ねぇ、あたしどうしたらいいかな」

 着信と発信の履歴は竣ばかりだ。携帯の画面をゴン太に見せても首をかしげるだけで特に鳴き声の一つも上げなかった。

 普通に考えれば、今すぐにでも竣に電話して教えなければならないのに。


「あたしはずるい女だから教えてあげない」

 とうとう『6本』にまで増えてしまったゴン太のふわふわ尻尾を触りながら華怜は破滅の微笑をした。

 携帯の画面を切り替えて竣に一言、『ヒーローになりたいと思ったことはある?』とだけ送信して。



*********************************



 ヒーローになりたいと思ったことはあるか。

 正義の味方になりたいか。英雄になってみたかったか。

 そんな問いかけをしなければならない程に世界は悪で溢れ人間は救いようがないのか。

 少年少女だけじゃない。この世界に生きる誰もが昔は純粋にそんな存在になってみたかったはずだ。己が正義だと信じ、己と対立する悪を打ち倒すヒーローに。


「ヒーローにだと……」

 一昨日の夜に華怜から来たそんなメールをバイクの隣で読み返す。もう竣はこの世界になってからヘルメットも被っていなかった。

 どうしたのか、と返信しても『明日は用事があるから学校に行かない』と会話になっていない返事が戻ってきた。こんな世界で学校に行く意味なんかあるもんか。そう思った竣は昨日、生まれて初めて学校をさぼった。

 今日はもう時間的には放課後だ。華怜から『放課後ちょっとだけ学校を見に行ってみよう』と言われ、普段二人が違法駐車している場所に来たのだ。


(ヒーロー……か……)

 施設の小さなテレビの前でみんなで集まって見たっけか。怪人を倒し街を救う仮面をつけた正義の味方を。最悪の生まれの子供達でも、純粋に憧れたものだった。


(でも今は────)

 だがヒーローは、正義の味方は、施設の職員に虐待される子供達を助けに来てくれず、彼らは捻じ曲がったまま成長して職員を惨殺した。世間の誰もが彼らをまともに育たなかった悪の因子だと叩いた。

 賢く生まれた竣も、いつしかヒーローの存在など信じることがができなくなり、ただ自分の足で踏ん張って生きることしかできなかった。

 もしも今、自分がヒーローになれるなら。それを喜ぶことはできるのだろうか。


「さぁ、行こうか」

 気付かぬ間に、原付に乗った華怜がいた。当然のようにノーヘルでなんだか笑ってしまう。

 ふかしている煙草の煙とショールが風になびいているその姿は、早くもこの世界に馴染んでいるかのようだ。


「制服じゃないの?」

 コートの下から学校指定のスカートが見えない。袖からもブレザーが覗いていない。これから学校に行くのに。


「あんたこそ、なんで制服なの?」


「……そっか」

 壊れた世界、意味をなさない学校の為に着る制服になんの意味があるのか。

 華怜の言葉に合わせて学ランを脱いでみるが、その下もYシャツだし師走の風が寒かった。


「バイクをそこに駐めておく必要もないでしょ」


「そうだな」

 座席を開いて学ランをしまう。もうこれを着ることはないのかもしれない。

 キーを回して先に行ってしまった華怜を追いかける。学校への道中、とうとう普通の人間の姿は一つも無かった。



 土足で校舎に踏み込む華怜に着いていく。

 静か過ぎる。普通なら部活動をしている時間帯なのに校庭に誰もいなかった。

 なんの生物もいないのか────と思っていたら廊下を歩くかぎしっぽの黒猫と目が合った。


(あれは普通の猫……か?)

 竣と目が合ったまま、ぴたっと動きを止めているのは野良猫の反応として正しい。

 だが華怜が気にせずに前に進むと黒猫は逃げてしまった。壁に向かって。


「……普通なワケないか」

 黒猫は壁をすり抜けてどこかへ行ってしまった。

 ここは三階なのにちゃんと着地できたのかなんて考えるのは無意味だろう。


「はっ。何アレ」

 二年七組、自分たちの教室に辿り着く。華怜が気が付くのと同時に竣は全身に鳥肌が立った。前の扉をぶち破ってあまりにも太い木の根っこが飛び出ているのだ。

 教室の壁はひび割れており、中で何か大事が起きたことを示していた。もしも普通に登校していたら自分も────引き止める前に華怜は教室に入ってしまった。


「誰もいない……! あはーっ!」

 華怜が気持ちよさそうに大声で笑った。

 嵐でも起きたのかと思うほどに散らかった教室の端では血溜まりの中に指が落ちており、床から生えている木はあちこちに根を張り神聖なる学び舎を腐食させている。

 砕けた黒板には数式が書いてあった。途中までは数学教師による指数積分の解答が書かれていたのに、『Cを積分定数とすζ』と急に文字が途切れていた。

 妙な白い痕跡が残っているが、おそらくチョークを力尽くで黒板に押し付けたのだろう。竣の推理を裏付けるように、足元には白い粉が落ちていた。

 いつも通りに授業を進めている最中に悪夢に飲み込まれ、文字が書けなくなり、チョークが何かも分からなくなり、力任せに黒板をぶん殴った。そんなところだろう。


(とうとうか)

 自分が人間であることも忘れてしまったモノたちの百鬼夜行。竣が登校した日だって笑いながら生徒が殺されていた。

 路地裏で大喧嘩したあの日を思い出す。サラリーマン達は竣を殺す勢いで殴っていたし、竣も殺すつもりだった。

 倫理観・道徳心や常識が溶けて消えていくあの感覚。それが行くところまで行った結果がこれか。

 他の生徒もほとんどが同じように変身し、人の心を忘れて大暴れしたのだろう。

 ベランダへと出る窓も割れており、半壊したベランダから────学校指定の鞄が外へと放り投げられた。


「あーっ‼ 俺の鞄‼」


「もう使わないでしょ、あんなもの」

 竣の肩に手をかけてステップを踏む華怜はこちらの視線を避けながら竣もくるくると回してくる。まるで竣の周りで踊っているかのようで、本当に楽しそうだった。

 張り詰めた生活と無感情を強制される学校がこんな姿になってしまって愉快で仕方がないのだろう。


「財布入ってたのに……」


「お金! どこで使うのそんなの!」

 初めてディスコに連れてこられ、下手くそで覚束ない踊りをするような竣の襟首を掴んでリードする華怜は、自分よりもずっと軽いのに華麗に翻弄してくる。

 目を回して机にぶつかった竣は結構な数の机と椅子を巻き込んで転んでしまった。


「あはっ。それでいいの、よっ!」

 まだ倒れていなかった机までも華怜は勢いよく蹴飛ばし倒してしまった。

 一瞬止めようかと思ったが、実際のところその衝動は竣にも理解できてしまっていた。


「ダメダメ。竣はまだダメ。取り繕っている。カッコつけてる」


「なにが?」


「教室入るところからやり直しね!」


「あっ、ちょっと!」

 華怜に手を引かれ、廊下に連れて行かれる。

 引き戸を閉じた華怜の視線に操られるように、取っ手に手をかける。


「違う。もっとこう……竣の願うままに!」


「俺の願い?」


「あたしも一緒にやってあげるから」

 扉の前で横に立った華怜にピンとくる────こと自体、その願望が自分の心の中にあったことを示しているのだろう。

 胸に大きく息を吸い込む。自分より長い華怜の脚が息を合わせたように振りかぶるのが見えて、頭の黒いモヤを消し去るように扉に蹴りを叩き込んだ。

 引き戸が吹き飛んでいき、ガラスが割れる音とからからと笑う華怜の声が響く。

 扉を蹴っ飛ばす、ただそれだけなのに、なんと心が晴れ渡ることか。


「スッキリした?」


「ああ……ああ!」

 そうだな、きっとこの生き方が正解だったんだ。

 俺を見くびるなと机に噛り付いて勉強するよりも、夜道に幸せそうな人間のド頭を鉄パイプでぶん殴って身ぐるみ剥ぐような生き方が。

 でも、もういい。俺はよくやったさ。


「もっと‼」

 くっきりと足跡の残った扉の上で一回転した華怜が、ロッカーから取り出したバットをまるで竣の心を読んだかのように投げ渡してくる。

 野球なんてルールさえも知らないのに、『そのための道具』だと思うと信じられないほどに手に馴染む。


(俺はずっと、こうしたかったんだな)

 フルスイングを机に叩きこむと、驚くほど簡単に脚が折れた。

 その隣で華怜が時間割の貼られている壁に一発叩き込んだが、こちらもあっさりとヒビが入った。


「はっ、はは。あははは!」

 給食費が盗まれたら真っ先に疑われた。同級生が失くしたと騒いでいたゲームカセットがなぜか竣の机の中から出てきた。駄菓子以下の人生、ブタしかないカード。

 一回振り下ろすたびに、そんな思い出が塵となって消えていく。打てば鳴る音が華怜の破壊音と交わり、手がじんじんと痺れる。


「楽しい! 100万倍も楽しい‼」

 ぶつかった視線はまるで片割れ月の鏡写しのよう。赤い瞳孔が開ききって、鼠を追う猫のように本能剥き出しの表情。自分も全く同じ顔をしているのだろう。

 華怜と竣のエスやイドとでも呼ぶべきものが交響している。これまでで一番繋がっている。今なら心の底から言える。君と俺は同類だって。

 開校八十周年を迎え、かつては総理大臣すら輩出した県下一の進学校。その終わりが最後まで正気だった生徒に破壊されることだったなんて、笑えるだろう。

 クラスの連中も先に心を失ってしまって可哀想に。理性を保ったまま暴れることがこんなにも楽しいのだと知らないまま獣になってしまったのだから。

 後ろの棚に並んでいた辞書や地球儀が華怜のバットになぎ倒され、吹き飛んだ地球が竣の頭に当たった。


「いてえ‼」


「あははは‼」

 いや、本当に痛いのだが、自分を覆っていた薄い膜が消えたかのようだ。

 現代文なら0点の回答かもしれないが、今の俺が一番俺だ。


「あー……あつい」

 しばらく好き放題暴れることを続けて流石に華怜も疲れたようだ。

 バットを放り投げて肩で息をしている。せっかくの綺麗な髪が乱れ、額から珠のような汗が流れており────華怜がコートを脱いだ。


「⁉」

 なんでショールを外さないでコートだけ先に脱ぐんだ、と思っていたらいきなりブラの紐が見えた。上を着忘れているのか、と言う前にコートが床に落ちる。

 着忘れているのではない。コートの下は本当に下着だけだった。黒と白の高級そうなブラは汗に濡れて透き通る肌に映え、濃い目のタイツに包まれた健康的な肉付きの脚がブーツへと伸びている。夢と思うにはあまりにも艶めかしく匂い立つ姿だった。

 竣の反応は予想していたのか、十代の危うい笑みをこちらに向けて華怜は何も言わずにいた。日常なんて一皮剥けば非日常、そんな言葉が服を脱いで立っているかのよう。


「竣も脱いじゃえ。教室のど真ん中でこんな格好でいるのって、気持ちいいよ」


「いやっ、待ってっ」

 気持ちは分かる。堅苦しい制服に身を包んで、じっと座って退屈な授業を受けなければいけないはずの教室で半裸でいるのは得難い快感だろう。

 だがそれはせめて人がいない時にすることだろう。俺はまだそこまで吹っ切れてない。

 蠱惑的な微笑みを浮かべてこちらに近付いてくる華怜から後ずさると、倒れた机に肘がぶつかった。


「こうして!」

 栄養状態良好で揺れる大きな胸に視線を吸い込まれていたら、Yシャツのボタンを千切られベルトが取り上げられた。痩せぎすの竣の腰から制服のズボンが落ちる。

 学ランはバイクの中にしまいっぱなしだからYシャツとパンツだけだ。流石に寒すぎる。

 機嫌良さそうにベルトを振り回した華怜は黒色が混じってきた竣の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。


「あーあ。治らなかったねぇ」

 竣の胸に刻まれた己の名を確かめるその撫で方は『愛おしそう』以外の表現が見つからない。

 この証を見る者はもう自分以外にいないという現実が嬉しくてたまらないようだ。


「変わっちゃった後も残るかな?」


「残っててほしい」

 自分でも驚くほどの即答に、華怜が一瞬目を見開いた。下着姿でも堂々としていた華怜の顔が上気していく。

 照れか喜びか、あるいはその両方かは分からないが裏表のない笑顔を見るに120点の答えだったらしい────何か妙な物が目に映った。


「あ……れ? それは……」


「あー……」

 華怜のタイツに何か引っかかっている。数秒間、それが何か分からなかったのは実物を見たことが無かったからだ。

 それはどう見てもコンドームの帯だった。一体いつから?


「竣が我慢できなくなって襲ってきたら、せめて使ってって言うために持ってたの」

 何事も叶わない日常退屈鬱屈憂鬱世界に抑圧されていた魂が燃えるように華怜の瞳が赤く光る。

 竣は華怜の中身を知っている。世界の誰よりも。だからこそ、その準備から導き出される解答は一つしか無かった。


「俺にそうされることを待ってる?」

 結構前から、もしかしたら華怜が受け入れた日から分かっていたことだ。

 竣が華怜からの嗜虐的な行為を内心喜んで受け入れていたように、華怜もいつかそうなることを待ち望んでいたのではないのかと。


「かもね」

 なんて歪んだ笑顔なのだろう。十代の少女がしていいものではない。

 華怜はカフカの小説のように変身などしなくても、最初から十分怪物だった。


「……もし、俺が本当にそうしたら華怜はどうしたの?」

 待っている、望んでいるとはいえそれだけで済むはずがない。

 本当にただ望んでいるだけならいくらでも命令する時間はあったのだから。


「そうしたら……? そしたら? 殺してやる。絶対に!」


「……あはっ」

 それはむしろ信頼のようにも聞こえ、竣は笑ってしまっていた。

 華怜のことを歪んでいる、怪物だなんて思っておきながらこんな回答を聞いて笑ってしまうなんて、自分も十分歪んでいるじゃないか。

 そうだ、きっと少年少女は見た目が普通なだけでその中身は誰も彼もがいびつな形をしているのだ。みんな正常に見せているだけだったんだ。


「あは────っ! ぶっころしてやる────っ‼」

 叫んだ華怜がブーツに引っ掛けた机を投げ飛ばすと、ロッカーの上の濁った水槽に当たり、割れた水槽から魚とも生物とも言い難いぶよぶよとした何かが水の上で息絶えた。

 一人舞台の舞踏家のように、湖畔の上をつま先で走るカモシカのように、下着姿のまま華怜はベランダへと向かっていく。


(ああ)

 この姿がずっと見たかった。鉄仮面の華怜が学校で心から笑う姿。

 でも華怜が華怜である限り、世界が世界である限りはあり得なかった。


(本当に)

 ショールを振りかざして天女のように舞う華怜の向こうで天駆ける麒麟が曇天の空を突き破り、太陽の光が雲の隙間から天国への梯子のように漏れている。

 麒麟が現れるのは吉兆だと言うが、世界にとってこれがよいことなのだろうか。


「この日が素晴らしき日でありますように!」

 誰も彼も想像したことのない最悪の日に、華怜は満面の笑みで良き日を祈る。

 その笑顔を誰も知らない。もう誰も見ることはできない。ただ一人、竣を除いて。


(世界は終わっちゃったんだなぁ────)

 少なくとも華怜が華怜のままで笑える世界になったのだから、自分たちにとってはこれで良かったんだろう。

 華怜が腕から糸のように飛ばしたショールが偶然にも竣の首にかかり、解放された華怜の香りに包まれた。


「楽しそうだな」


「あんたはもっと楽しそうだけどね」


「え?」


「ずっと笑っているんだよ。気が付いていないかもしれないけど」

 確かめるまでもない。竣は先程からずっと笑顔だった。世界がこんなことになってしまってから随分感情豊かになった。それこそ生きているのが楽しいと感じるほどに。

 おいでおいでとするベランダの華怜の元へと小走りに駆け寄る。


「綺麗だなぁ」

 冷たい手すりに寄りかかって流転する世界を見る。

 ところどころ穴の空いた雲から光の漏れる中、地上では化物がお互いに食い合い街を破壊しているのが見える。最早まともな人間など一人もいない。

 戦っていないモノもこの世の生き物とは思えない姿をしながら街を徘徊している。今まで生き延びられたのが奇跡に思える。

 正気も人間の姿も失ってどこかで死ぬのが先か、人間のまま死ぬのが先か。

 残酷な想像をしているのに不思議と気分は晴れやかだった。

 どうしようもないけど、今日はどうしようかと考えていると背中から華怜が体当たりするかのように抱きついてきた。


「華怜⁉」


「動くな!」

 慌てた竣をぴしゃりと一言で停止させて、親を亡くした子猫のように鼻を背中に擦り付けてくる。

 殺してやると言って一分も経たない内にこれなのだから、華怜の行動を予測するなど根本的に不可能なのだ。


「あたしたち、世界でふたりぼっちみたいね」

 全てがカオスに取り込まれてある意味渾然一体の世界に残った理性が二つ。

 触れた肌から二人の体温が同化していき、華怜の狂気と竣の獣性が混ざり合って少しだけ頭がぐらつき世界が斜めに見えてくる。


「おしっこしてみてよ」


「は? え? なに?」

 夢見心地が弾けた。何度考えてみても意味不明だ。やはり華怜はいつまで経っても言動が全く読めない。


「外に向かってしてみて。朝からトイレ行ってないでしょ」

 なぜそのことを知っているんだろう。今朝から膀胱が膨らむ感じが全くせず、今日はトイレに一度も行っていないのだ。そういえば昨日の夜も行っていなかった気がするが。


「なんでそんなことを?」 


「世界がおかしいなら、あたしたちもおかしくならなきゃ損だって。はやく! 下は見ないでおいてあげるから」

 やれと言われたらやるしかない。

 竣は引きつった笑いのまま、祈るように目を閉じたあとに性器を出した。


「……すごい! ねぇ、どんな気分?」

 竣の肩の後ろから顔を出した華怜が幼い子供のような歓喜の声を上げた。校庭にばら撒かれていく小便が虹を作っている。背徳に背徳を叩きつけているような爽快な気分だった。

 とてもではないが、口で説明できるような開放感ではない。


「うわっ!」

 もうそろそろ出し終わる、という時になって背中を強く叩かれた。

 絶対にわざとだ。おかげで左手の指に少し小便がかかってしまった。


「どうしたの?」


「手を洗いに行かなきゃ」

 少々恥ずかしいが、濡れた薬指を見せる。華怜だってこれを見れば原因は自分だと分かるはず。なのに、一向に華怜はどいてくれなかった。


「へぇ」

 手首を掴んでまじまじと見てくるが、そうしている間にも水滴は下へと垂れている。

 下着姿の華怜を見ていると未だに慣れずに心臓が痛くなる。

 激しく運動したからか、ブラの紐がずれているのに目が行って────


「何してんだ!」

 竣が悲鳴を上げる頃には、さも当然のように華怜は竣の指を口に入れていた。

 いつだかに言った概念的な汚さではなく、もろに汚いからこそ離れようとするが、足が踏んづけられて動けない。


「…………」

 目を白黒させる竣を見るのがそんなに楽しいのか、更に深く咥え込んできた。

 とんでもないことしているんだぞ、恥ずかしいことしているんだぞと目で伝えてもまばたき一つしない。

 根負けして空を見上げると巨大な無重力カバが逆立ちして月に向かっていた。なんちゅう世界だ、と考える前に首を手で強制的に曲げられまた華怜の目を見ることになった。


「も、もうやめ……いててでっ、いだいいだいっ!」

 口の中のぬくい感触に集中できなかったのはこうなるのが予想できたからだ。

 狂暴な華怜の口の中に指を入れて噛まれない訳がない。吠えまくる犬よりも確実だ。

 ガジガジとたっぷり一分以上噛まれてようやく解放される。抜いた左手薬指は根本までたっぷりと濡れ、何か意味があるかのように歯型の輪を作っていた。


「なんてことを……」


「うるさいなぁ。今更指がなんだっての? ほら! ほらほら!」

 ぼやく竣の口に今度は華怜の指が突っ込まれた。これは予想外だった。

 細長い指が三本、暴れるように突き進んできて口内を蹂躙してくる。


「げほっ、がふっ⁉」

 手で顔を押され、軋んだベランダの端まで追いやられた。

 手すりに体重がかかり砕けた床の破片が下へと落ちていっても華怜はまだ止まらない。

 一通り竣の歯の形を確かめて、人差し指と薬指で舌をつまみ中指を喉の奥まで突っ込んでくる。

 きっとこの美しい指を口にしてみたいと思った人間は男女関わらず数え切れないほどにいただろう。だが実際はそんな夢のようにはいかず、こうなるのだ。

 あからさまに竣が苦しんでいるのを楽しんでいる表情だ。どうして同じ行為なのに主従は崩れないのだろう。


「なにこれー。竣のよだれって変なの。こんなに伸びるんだ」

 口から抜かれた指は唾液に濡れ、尋常じゃないくらいに糸を引いている。

 華怜が指を開いて閉じてを繰り返しても、切れるどころか伸びる糸が増えてしまった。


「喉まで指突っ込まれれば誰だってそうなる」

 咳き込むと喉に絡んでいた痰がとれた、と思ったらそれも唾液だった。

 理屈は知らないが、口の中に異物をずっと入れられていると粘り気の強い唾液が出るのだ。


「あたしにもしてみてよ」


「‼」

 さっきしたじゃないか、とは言えない。それとはまた違う。

 言い訳する前に────きっと華怜は行動するのが早いと知っているのだろう、口を開けてしまった。

 華怜がこんなに口を大きく開けているのを始めて見た。歯並びは模型のように整っていて、歯茎の色も健康的な赤色をしており、虫歯どころか色がくすんだ歯すらもない。

 きっとこんなに華怜の口の中を見た人間は歯科医以外にいないだろう。

 だが、華怜のとんがった性格を象徴するかのように少々八重歯気味で────と言うにはその犬歯はいささか鋭すぎた。

 上唇では隠し切れない程に長く、凶器のように輝いており、禍々しい赤い瞳にその鋭い牙は一つの想像に帰結した。


(そうか、君は吸血鬼になるんだね)

 己の全てを縛り付けていた血がただの食料になるというのならば、華怜はきっと喜んで変身を受け入れるだろう。

 むしろ内なる獣性を認め一度は獣に堕ちた竣自身のことを考えるに、案外全ての変身は心を代償にした望んだ姿への生まれ変わりなのかもしれない。

 自身の変調に華怜が気付いていないはずがない。こんな状況でも落ち着いて見えるのはそういうことなのだろう。

 いいから早くしろ、と目で言う華怜は風で髪が流れて口の中に入るのも気にしておらず、高級な家具のような色をした髪が桃色の舌に着地した。


(あの舌が……)

 ついこの間自分の口の中に入ってきたなんて、記憶を疑ったほうが早いくらいには非現実的だ。

 なのにもっと非現実的な事をしようとしている。冬の風がその魅力を奪い去る前に、指先で華怜の舌に触れた。


「うあ……」

 きっと世界最高のスポンジはこんな感触なのだろう。指で圧力を加えるとじんわりと唾液が滲んでくる。

 たぶん、たぶんだけど人差し指だけじゃダメだよな────と考えていたら蝿取草のように他の指ごと咥えられて口を閉じられた。


(……あったかい)

 まるで体温が10万度あるかのようで、指先が圧倒的な熱によって溶けていく。

 指を動かしても溶岩のようにやわらかく熱い口内に当たって逃げ場所がない。

 自分は華怜と話す前の世界で、教室の机に突っ伏しながら学校の支配者である華怜を押さえつけてこの口に×××を突っ込む妄想をしていた。

 馬鹿馬鹿しい、対価を差し出して許可を得なければ実際はそんなことをする勇気もないくせに。

 こうして、喉の奥まで────


「がふっ、ぐっ」

 いくら華怜でもこうされれば汚い音を立ててえづくものらしい。よく考えてみたら自分の方が指が長いのだから、華怜と同じように入れたら華怜がしたよりも奥に入るのは当たり前だ。

 酷いことをしていると気が付き、指を抜こうとしたら爪を立てた手で腕を掴まれた。普通は逆だ。抜いてくれ、とすべきなのに抜かないように腕を押さえている。


「うえっ、あッ‼」

 それどころか更に奥に入れようとしてくる。聞いてて痛々しい悲鳴を上げて、目尻に涙を溜めながらも竣の目を凝視して。

 思わず動かしてしまった指が喉を引っ掻いてようやく華怜は大量の唾液と共に指を吐き出した。


「あー……」

 だらだらと華怜の顎を伝って伸びる唾液は胸まで達してもなお切れない。

 竣の指には巨大な蜘蛛が巣を張ったかのように唾液の迷宮が出来上がっていた。


「……ほら。誰でも────」

 華怜のべちゃべちゃの手が、唾液に汚れていた竣の手を握った。

 あえて体液を混ぜるかのように指も絡めてきた────どきっとする暇もなく、ずっと竣の目を見つめていた華怜が口を開けたまま顔を近づけてきた。


「────!」

 そのまま唾液を塗りつけるように竣の唇に噛み付いてくる。

 竣が口を開けてなかったのが不満だったのか舌をねじ込むよりももっと直接的に、指で口をこじ開け舌を引っ張り出してからもう一度噛み付いてきた。

 なめくじのように這う舌の湿った音が最早自分の頭の中から聞こえる。ゼロ距離という表現を踏み越えて入り込んできている。

 もうすぐ底をつきそうな理性がじゅるじゅると吸い取られていくかのようだ。窒息しないよう必死に吸った空気にすら華怜の呼気が大量に混ざっていてやけに熱い。

 はだけたYシャツの下に肌を押し付けるようにくっついてくるが、冷えた肌のやわらかい感覚ですら頭を冷ますことはできない。

 これあげるからそっちもちょうだい────べろんと舐められた舌と舌の上で、刺激されて押し出された互いの粘っこい唾液が絡み合い口と口に橋をかける。

 二人の肌に唾液がぼたぼたと落ちていくことも気にもせずに唇で唇に蓋をしてくる。


(もう華怜しか見えない……)

 その瞳の赤は眩暈がするほどの発情色。溶けた理性の中にある本能が繋がる感覚がして、華怜も同じ気持ちなのが嬉しくて、下半身に血液が流れ込むのを止められない。

 それなのに半ば本能で華怜の腰に腕を回そうとしたら強めに引っ叩かれた。身勝手で狂暴な手の付けられないむき出しの愛は無邪気なテンプテーションだ。

 終わりを迎えた世界の壊れた校舎の中で、若い二人のすることがよりによって半裸でキスすることだなんて。


「ん────ッ‼」

 ベランダから突き落としたいのかと言うほどにぐいぐいと身体を寄せてきて、手すりに背中が当たって反り返る。

 それなのに、むしろ身体は元気になったからますますなのか、痛いほどに勃起してしまっている。ズボンは脱いでしまっているからパンツ一枚では隠しようもない。


「あはぁ」

 完璧にバレた。当たり前だ。ぴったりとくっついている華怜のへそに当たっているんだから。きっとその時の華怜の顔は何度も夢に見るのだろう。

 世界の何もかもから解放されて、残ったのは本能だけしかない人間以下に堕ちて蕩けきった顔。

 わざと膝を竣の股に入れてぐりぐりと押し付けてくる。

 外へと身体が半分放り出された竣の顔を遠慮なく掴んだ華怜は、上から竣の口に向ってくちゅくちゅと口の中で音を立てて絞り出したよだれを流し込んできた。


「痛っ、痛い!」

 もうそれはキスにすらなっていなかった。一方的な欲求の押し付けは加速し、竣の歯を唇ごとがちがちと噛んでくる。水の滴る刃のような牙が野放図に竣の肌を、唇を切り裂いていく。

 流れた血で止まるどころか、華怜はむしろそれを望んでいたかのように啜っていて────いきなり華怜は顔を離した。


「っ……あ……」

 殺される。すっかり捕食者の顔をした華怜の開いた瞳孔にそう感じた瞬間、視界に星が飛び散った。


(なんだ……? なにされた……?)

 呼吸の止まった鼻からズギュンと痛みが広がり、飛び散った血が華怜の顔を汚した。ぱたぱたと鼻血が落ちてようやく、華怜に頭突きをされたのだと分かった。

 べろちゅーからの本気頭突きなんて人類初にして最後に違いない。顔に飛んで唇にまで垂れた竣の血を舐めて震えている華怜の顔ときたら、もう本当に欲望だけに突き動かされて息をしている。


「もっとちょうだい‼」

 竣の髪を乱暴に掴み再び口を開いて迫ってきた華怜の牙が、赤い舌が、喉が見える。

 獲物が最後に見る光景────人中の血を舐めたのはぎりぎりの理性だったのかもしれない。でもやっぱりガマンできなかった華怜はそのまま竣の鼻を丸ごと口に入れた。


「がはッ、かッ……」

 どぷどぷと止まらない血が口に逆流して呼吸ができない。だが鼻で息をしようにもそんなこと知ったこっちゃないとばかりに吸われてしゃぶり回されて。

 やたら酸素の薄まった荒い息を華怜の口から直に吸うと、狂暴で純粋な華怜の命そのもののにおいを感じた。それしか感じれない。比喩ではなく華怜に溺れている。

 いくら俺は好きだと思っても、口のにおいを嗅がれるなんてさすがに華怜でも嫌がるだろうに。きっともう自分でも自分を止められないんだろう。

 獣になりかけた自分がごく自然に喉を鳴らしていたのと同じだ。華怜は吸血鬼になるのだ。ちくちくと小鼻に刺さる牙の感触がやけにはっきりと感じられる。

 薄れる視界、雲の奥に輝く月が見える。まだほんの少しだけ人の心を忘れていない生徒がいるのか、どこからか『月光』のピアノソロが聞こえてきた。

 竣の顔に付いた血を舌の腹で丁寧に丁寧に余さずじっくりと舐め取って、ようやく華怜は満足して口を離していった。


「もう、もう」

 心も身体も満たされていっぱいいっぱいだ────月を仰いだ華怜が竣の手を握ったまま感極まった声を出している。


「もう死んで! あたしとしたことの記憶、全部持って、死んで‼ そこから飛び降りて頭ぶっつけて死んじゃえ‼」

 これが華怜の最後にして究極の願い。もうずっと前から分かっていた気がする。華怜は血肉一片余さず竣の命が丸ごと欲しいのだと。これで竣は永遠に華怜のものになる。

 本当は竣も願っていた。あんな世界ならその方がずっといいと。華怜に全て捧げたいと。

 ああ、結局俺たちは違う答えを見つけられなかった。女王を刺す奴隷よりも、もっとずっと分かりやすい女王に命を捧げる奴隷。

 悲しいかな、どこまで行っても犬っころの魂がその結末を受け入れてしまっている。花の色が褪せるように理性が壊れて行くのなら、何もかも分からなくなる前に────覚悟は決まっていたのに、華怜は握った手を離してくれなかった。


「………って、最初の頃はそう言おうと思っていたのに、もうだめなの」


「…………?」

 先に人の心を失ってしまったのではないか、と思えるほどに支離滅裂な言葉。

 飢えた獣みたいにぐちゃぐちゃの口元を拭うこともせず、だらだらと唾液を垂らしっぱなしにしている。

 完璧に整えられて理路整然とした姿と対極にあるのに、今までの華怜の中で一番美しい────竣の隆起した一物に何かが当てられた。


「動くな」

 月光に輝くそれは何度も二人を傷付けたナイフだった。尻の方から取り出したのが確かに見えた。

 ショーツにコンドームとナイフを隠しているなんて、性と暴が同居している華怜らしかった。


「まさかいまさら嫌だなんて言わないよね」

 華怜が口元から好き放題に流れている粘ついた唾液を竣のパンツに垂らすと、布地が中身に張り付き分かりやすく形が浮かび上がった。

 こんなにも熱い液体を口から流し込まれていたなんて。恐怖よりもその興奮のほうが強く、全く縮み上がらなかった。

 というよりも、恐怖なんてもう全く感じていない。竣を取り巻く全てが死さえも受け入れる完璧な屈服を作り上げていた。 


「華怜のためなら死んでも構わない」

 絶対に生き残ってやると思っていたのに、たった90日で心の全てが変わり果ててしまった。華怜の願いを、欲望を叶えるためならこんな身体も命もいらなかった。

 だってもう、華怜の記憶の中に残っているから────月よりも無慈悲に笑った華怜がナイフを振り上げた。


「あ……」

 血が噴き出し耐え難い痛みが襲ってくると思ったのに。華怜はその場でくるりと回って教室の壁に向かって思い切りナイフを投げていた。

 回転したナイフは偶然にも刃の部分から当たり、もう意味をなさない大学偏差値ランキングのポスターに突き刺さった。


「あーあー……あーあーあー……」

 しなやかな身体を猫みたいに伸ばして大あくびをしながら華怜は薄暗い教室に入っていく。

 そのまま倒れた机の山に腰掛けて思い切り背筋を伸ばした。華怜は女王だった。たとえ世界が変わってしまっても。

 大きく伸びをした華怜は今まさに永遠の中の一瞬と言っていいほどの完璧な身体をこれでもかと見せつけてくる。

 飛び散った血と垂れた唾液は身体を伝って輝いており、少し汗をかいた腋に、伸びきって縦になった綺麗な形のへそ、身体の動きにあわせて弛む胸、肉感的でやわらかい脚を包む濃い黒のタイツ。竣の目にはあまりにも眩しすぎた。


「目を逸らすな! もうすぐ竣のものになる身体でしょう?」

 こんな世界だからこそ、私以外の何も見ないで。そんな主張が見え隠れする言葉。

 ずれたブラ紐を直した華怜は、ピアスが出るようにサイドを纏めていたヘアゴムを乱暴に外して投げ捨て、丁寧に梳かれていた髪を額からぐちゃぐちゃにかき乱した。

 そして股ぐらに腕を突っ込み百獣の王のように警戒心ゼロでもう一度大あくびをした。

 呆けたように眺めている竣を北風が撫でていき、華怜のよだれが乾いたツンとしたにおいが顔中からした。顔を洗いたくない、と残り僅かな理性を無駄に消費してしまう。


「ねぇねぇ」

 その言葉通りに指をくいくいっとしてくる。

 もう誰もいないのだからそこで話せばいいのに、と思いながら近づくと華怜は腕を差し込んで閉じていた脚を広げ、そのまま広げた股間を指差した。


「‼」

 そこは色の濃いタイツの上からでも分かるくらいに濡れていた。

 竣だって未だに勃起が収まらないくらいなのだから、華怜だってそうなってもおかしくない。ただ、男と違って言わなければ分からないのにわざわざ教えてくるなんて。


「なんでかな?」 


「し、知らない!」

 それだけでは飽き足らず、びりぃっとタイツを破きクロッチをずらそうとしたところで限界を迎えて目を逸してしまった。唐突にそんなものを見せられたらきっとショック死してしまう。

 二人しかいないがゆえに静かな世界で、『ぬちっ』と何をしたか聴覚だけで分かってしまう音が鳴った。


「あー……すごい。こんなになるの初めてだなぁ。なんで?」


「知ら────」


「なんであたしたちだけ普通なの?」


「え?」

 華怜は突然核心に触れた。視線を戻すと、至って真面目な顔の華怜がそこにいた。


「この世界で、あたしたちだけが『普通』を覚えている」


「あれ……なんで……?」

 崩壊する世界を止められなかったのは、誰も騒がなかったのは。

 世界や己が変わっていることに誰も気が付いていなかったからだ。

 そんな中で、普通の世界を基準にして変わりゆく世界を見ていたのは、竣と華怜だけだった。自分たちにはどうしようもない────華怜は前にそういった。

 大嘘じゃないか。どうしようもないどころか、自分たちが何かしらの当事者であることをこれ以上なく分かりやすく示されていたのに。

 混乱する竣を見て薄く笑った華怜は『うちにおいで』とだけ言った。




 

────

つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る