第十六話 おかえりなさい


三泊四日の修学旅行が今日、終わる。

この三日間はあっという間の時間だった。喧嘩していたことを悩んでいたことも遠い昔のように感じる。

(あれからずっと連絡は来るし、離れてる感じは全然なかったけど)

電話はなかったものの、休み時間らしき時間には必ずと言っていいほど連絡が送られてきていた。


『次現代文なんですけど、寝る気配しかしません』

『起きろ』

『起きます』


『次英語です。腹減りました。弁当が恋しいです。唐揚げ……』

『我慢しろ。ちなみに俺はさっきとんかつ食った』

『裏切り者ですね』


『先輩のために猫かいてみました』

『猫っていうより、それ化け物だろ』

『失礼な。耳と髭と尻尾があるでしょう、ちゃんと』

『バランスって知ってる?』


他愛もない、どうでもいい会話ばかり。

でもそれが心地いいと感じていたからか、無くなるのが少し寂しく感じる。ほんの少しだけど。

(あいつ、今五限目くらいか?)

疲れで眠い頭で、時間割を思い出す。甘利からの連絡がなくなって二十分程度。授業中なら連絡がないのも納得できるが、このままでは寝てしまう。


バスの中、既にほとんどの人は夢の中に旅立っている。俺は甘利と連絡をしていたから起きていたけど、それもそろそろ限界そうだ。

(学校、もう近いと思う、けど)

眠気には勝てない。俺は襲い来る眠気に逆らうことなく目を閉じた。





「はーい、みなさーん。順番に降りてくださいねー。バスから降りたら自分の荷物を受け取ってくださーい」


寝起きの頭に、西田先生の声が響く。

俺は寝ぼけ眼を擦りつつ、「ふぁああ」と大きな欠伸を零した。

(やば。結構しっかり寝たわ)

うたた寝程度で終わるかと思っていたが、どうやら思っていたよりも疲れていたらしい。


くありと欠伸をすれば、背後からダダダダと地鳴りのような音が聞こえた。



「――先輩ッ!!」

「うわっ!?」


背後からの突撃にぐらりと揺れる視界。俺はたたらを踏んで堪えようとしたが、それよりも早く後ろから抱きしめられた。

(び、びっくりした……!)

倒れ込む寸前の身体がバクバクと音を立てる。

――誰の仕業かなんて、振り返らなくてもわかる。


「おいこら、甘利。あぶねーだろーが」

「すみません。先輩を見つけて、居ても立っても居られなくなってしまって……!」

「だからって背後から抱き着いてくる奴がいるか!」


「重いっつーの!」と声を上げれば、甘利は「すみません」と謝罪をする。しかし、抱きしめてくる腕は離れる気配はない。

(こいつ……!)

全然反省してねーな。

俺は怒りに拳を震わせながら振り返る。さぞかしふてぶてしい顔でいるのだろうと思えば、甘利は俺の首に顔を埋めたまま動かない。「おい?」と声をかけても、反応がない。

(なんだこいつ、落ち込んでるのか?)

いつもはこれでもかと言わんばかりに振られている尻尾も、今は垂れ下がっているように見える。

責め立てるのもなんだか可哀そうな気がして、俺は握っていた拳を下ろした。


「おーい、春ー。って、あれ? 噂の一年クンじゃーん」

「本当だな」

「秋人、夏生」


お前らどこにでもやって来るな。俺はハアと肩を落とした。


「なにいちゃついてんのー? あ、ていうか仲直りしたんだ? へぇ! よかったなぁ、春ぅ。お前寂しがってたもんなぁー!」

「いちゃついてねーよ。こいつが離れねーの」

「ふーん? なんか大型犬に抱き着かれる飼い主みたいだねぇ?」

「茶化すな。撮るな」


パシャパシャとシャッター音が秋人のスマートフォンから聞こえて来る。今後、スマートフォンの扱いには注意することだな。

(それにしても、無言とか……)

一応こっちは三年で、先輩のはずだ。直属ではないけど、甘利だってそれをわかっているはず。


「コラ。挨拶くらいしろ」

「いっ」


後ろ手でべしっと頭を叩けば、甘利が唸る。のそりと顔を上げた彼は、じっと秋人と夏生を見ると「こんにちは」と呟いた。


「おー。挨拶出来てえらいなー」

「おいっ! 何で俺を撫でる!?」

「そりゃあ、ちゃんと躾の出来ている飼い主を労おうと思って?」


ニヤニヤとする秋人は、俺の頭をガシガシと撫でる。

(今度絶対仕返ししてやる)

俺が復讐を心に誓っていれば、パシリと音が聞こえた。甘利の手が、秋人の手を払っている。


「あ?」

「すみません。でも、先輩を撫でていいのは俺だけなので」


ぎゅうっと抱きしめられる力が強くなる。俺は甘利を見上げ、数秒固まってしまった。

(何言ってんだ、コイツ)

撫でていいも何も、そもそも撫でることを許可した覚えはない。俺は甘利の足を踏みつけた。


「ッ~~~!!」

「俺は抱き着く許可も出してねーよ」

「うわ、いったそ~」


知ったことか。

痛みに悶える甘利の旋毛を見下げ、俺は息を吐く。……顔を合わせたらちゃんと謝ってやろうと思っていたのに、これじゃあ謝るどころの話じゃない。

(ったく、本当に人の話聞かねーんだから)

ぐりぐりと旋毛を指で押せば「痛いっ、痛いです先輩っ」と甘利が悲鳴を上げる。「うっせ、縮めっ」と吐き捨て、俺は抉っていた指先を離した。涙目になって顔を上げる甘利に内心ざまあと呟いていれば、夏生が甘利に手を差し伸べた。


「大丈夫か、甘利」

「あ。はい、ありがとうございます。雲井先輩」


手を取り、立ち上がる甘利。

秋人への対応と全く違う。


「え、何々? 二人知り合いなの?」

「ああ。少しだけな」

「以前、走り込みについて質問させてもらったんです」

「走り込みって……お前陸上部だよな? 夏生は剣道部だけど?」

「うちの顧問、外部からの人で、いない時は副顧問である東崎先生に聞くことになっているんですけど、丁度その時不在で」


「先生がいなかったので、剣道部の三年生なら知っているかなと思いまして」と続ける甘利に、「ああ、なるほど」と呟く。


東崎先生は剣道部と陸上部の顧問を兼任している。どっちも全国常連だが、常に見ているのは剣道部の方なのだとか。陸上部には別の先生がいるものの、フィジカル化け物と比べてしまうとどうしても劣ってしまう。

(東崎、勉強の教え方はイマイチだけど、身体の動かし方はすげーわかりやすいんだよなぁ)

以前、体育で教わった時を思い出す。ダンクのやり方の説明は、驚くほどわかりやすかった。まあ、それが実際出来るかどうかは話が別なんだけど。


「へぇ。意外なつながりもあるんだな」

「こっちこそ意外でした。先輩は文化部なのでそっちとの繋がりの方が多いのかと……」

「うちの部はほぼ幽霊部員だしなぁ。周りと関わりもあんまりねーし。むしろ被写体として運動部にお願いすることは多いぞ」

「! 俺の写真もいつか撮ってくれますか!?」

「それは話が別」


顔が近い。

興奮に寄せられる顔を押し退ける。相変わらずここぞとばかりに自分のいいように解釈するのだから、気が抜けない。

「そういえばみんなは?」と問えば「もうとっくに解散してるよ~。なになに? 後輩クンとの逢瀬で気づかなかったの~?」と秋人が言う。本当に一言多いというか、茶化さないと会話できないのだろうか、コイツは。


「うるせーよ、帰宅部」

「帰宅部サイコーよ。春も転部するー?」

「しない」

「ちぇー」


「つまんないのー」と呟く秋人。つまらないも何も、毎日夏生の部活終わるまで教室にいる奴がよく言う。

以前それを問い質したら「だーって一人で帰るのさみしーじゃーん?」と言われた。別に帰るのにそんなに人数要らねーと思うが、秋人はそうじゃないのだろう。

(寂しがりはどっちだか)


「んじゃそろそろ俺ら帰るけど、春はどうする?」

「俺もかえ――」

「すみません。春先輩は俺と話があるので」


(えっ)

話? そんなの知らないんだけど。


「あ、そう? んじゃ春のことよろしくねー」

「はい。任せてください。ちゃんと家まで送り届けますので」

「おいっ、ちょ、待っ――!」


待ってくれ! 俺を置いていかないでくれ!!

俺は秋人たちへと手を伸ばすが、秋人は「仲良くしろよー」と手を振るだけで助けてくれる様子はない。

(この、裏切り者ぉッ!)


この状況で置いて行かれるなんて、良くないことしか浮かばない。

俺はいつの間にか肩をホールドしている甘利に、恐る恐る視線を向ける。するりと肩を撫でられ、そのまま腕を引かれる。


「行きましょうか、先輩」

「お、おお……」


有無を言わさない顔に、俺は頷くしかなかった。




甘利に連れ去られ、やって来たのはいつもの部室だった。

「授業は」と問えば「今日は短縮日課です。部活は水曜なので休みです」と返された。淡々とした口調が少し恐ろしい。甘利は俺を後ろから抱きしめると、そのまま床に座った。それから十数分。甘利は動かない。

(な、何がしたいんだこれ……)

戸惑いに、変な汗が浮かぶ。しかし動こうとすると抱きしめて来る腕が強くなるので、抜け出すに抜け出せない。

(どうすりゃいいんだ)


「あ、あー……そうだ。お前にお土産があるんだけど」

「すみません。あとで」

「あ、ああ」


「……」

「……」


(いや、すっげぇ気まずいな??)

落ちる沈黙に、俺は耐えぎれず視線を彷徨わせる。この状況を打開できることが何かないかと視線を彷徨わせていれば、甘利がごそりと動いた。

甘利の癖毛が耳を掠めた。


「っ」

「先輩」


(耳ッ、ちか……っ)

甘利の低い声にぞわぞわと背中が粟立つ。反射的に体を引けば、追いかけて来た。


「っ、おい甘利――っ」

「すみませんでした」


荒げた声が遮られる。俺は動きを止めた。


「……何がだよ」

「あの日、怒って出て行ってしまって。先輩には返事はいつでもいいとか、惚れさせるとか言っておきながら、俺の気持ちを押し付けていたんだって気づいて。……すみません」


俺は堪らず天井を見上げた。

(やっぱりその事か)

正直、今でも甘利が怒った理由は納得できていない。先生と話して理解は出来た気もしているが、本当に理解できたかと言われればそれはわからない。

(気まずさはある。だけどここで答えないのは、先輩としてよくない、よな)


「あー……俺も、悪かった。お前に変なこと言って……その、ちゃんとわかってるから。お前の気持ち」

「!」

「まあ、だからって応えられるかはまだ……わかんねーんだけど……」


肩に埋められた甘利の頭を撫でる。ふわふわとした毛並みに触れると安心するようになったのは、いつからだろうか。

この毛並みを手放したくないと思うくらいには、こいつに情はあるわけで。


「……ズルいです、春先輩」

「はあ? 何がだよ」

「全部です。でも、そういうところが好きなんです」


“好き”。

その言葉が、いつもより深く俺の心に刺さる。じわじわと込み上げて来る熱に頬が熱くなる。「先輩?」と顔を上げようとしてくる甘利の頭を、俺は押し付けた。


「っ、そういうこと、軽々しく言うなよ。だから勘違いされるんだぞ」

「大丈夫です。先輩にしか言いません」

「そ、うかよっ」


(恥ずかしげもなく恥ずかしいこと言いやがって!)

ムカつく。怒りも申し訳なさも全部持って行かれたのが、心底腹立たしい。わしゃわしゃと両手で豪快に甘利の頭を撫でてやる。「うわっ」と声を上げる甘利に「ざまあみろ」と笑った。

ぼさぼさになった髪越しに、甘利の目が俺を見る。


「ひどいです、先輩」

「わははは。せっかくのイケメンが台無しだなぁ!」

「……」


むすっとする甘利。「拗ねんな拗ねんな」と髪を整えてやっていれば、突如抱きしめる腕に力が込められた。

ぐっと圧迫される腹に「ウェッ」と変な声が漏れる。


「うっ、ちょっ、くるし……っ!」

「……今のは、先輩が悪いです」

「何が!」


ぐぐぐぐ、と強くなる腕に、俺は耐え切れず甘利の腕を叩く。「出る出る!! 内臓全部出る!!」と騒ぎ立てれば、漸く力を緩めてくれた。

(し、死ぬかと思った)


「おっまえなぁ……っ、絞め殺されるかと思っただろ」

「嬉しいことを言う先輩が悪いんです」

「はあ? 俺、なんか言ったか?」

「そういうところ、好きですけど腹立ちます」

「どういうことだよ」


好きなのに腹立つってなんだ。

意味が解らないことをぶつぶつと呟く甘利に、俺は「あー、もういい」と手を振る。


「それで? 話は終わったかよ? 俺そろそろ帰って寝たいんだけど」

「まだです」

「まだなんか話すことあんの?」


くありと欠伸を零して、俺は首を傾げる。

何かあっただろうか、とぼんやりする頭で考えてみるが、思い当たることはなかった。

(つーか、甘利の体温あったけー……)

ズルズルと背中に重心が傾く。眠い身体に高い人肌の体温なんて、寝てくださいと言っているようなものだ。

(話、聞かねーと)

下りて来る瞼を持ち上げながら、俺は必死に意識を繋ぎ止める。


「はい。その、この前の“ご褒美”について」

「ごほうび?」


なんだっけ。……ああ、そうだ。テストで赤点を逃れたらご褒美をやるって話だったんだっけ。

(ご褒美の内容……確か一日一緒に出掛けるとかそんなんじゃなかったっけ)

すぐに俺が修学旅行の準備に入ったから、まだやってなかったんだった。

重い身体が、ズルズルと滑って行く。甘利の腹に頭が落ち着くのを感じ、甘利を見た。俺を見下げる甘利の顔は、今まで見たことがないくらい優しくて。

(こいつ、こんな顔もできたんだな)

何だか知らない甘利を見ているようで、ドキドキする。


「どこか行きたい場所は決まったのかよ?」

「はい。というか、来て欲しい場所になるんですけど」

「“来て欲しい場所”……?」


なんだそれ。

寝ぼけ眼で甘利へ問いかける。

甘利はふふふ、と笑みを浮かべると俺の頬を撫でた。デカい手が温かくて、余計に睡魔が襲ってくる。俺は慌てて甘利の手を取った。


「やめろ、寝るだろ」

「寝てくれてもいいのに」

「話が終わったらな」


さすがに話の途中で寝るのは良くない。しかも学校行事の不可抗力とはいえ、待たせてしまった負い目もある。

(せめてどこに行くかくらいは聞いておかないと)

甘利にもそれが伝わったのか、「実は」と話し始めた。


「今度の土曜日、地区大会があるんですけど」

「地区大会……陸上の?」

「はい。俺も出るんです」

「おー、すげーじゃん」

「で。先輩に応援に来て欲しいんですけど」


「ダメですか?」と問う甘利。俺は微睡む頭で甘利の言葉を整理した。

(……つまり、今度の大会に出るから応援に来て欲しいってことか?)


「なんだ。そんなことでいいのかよ」

「そんなことがいいんです」

「ふはっ。真似すんなよ」


言葉を反芻する甘利に、俺は込み上げる笑いに肩を揺らす。甘利は不服そうだ。握ったデカい手が緊張しているのか、少しだけ体温を落としていた。

(別にそんなの、ご褒美でもなんでもないだろ)

断る理由なんかないんだし。もっといつもみたいに図々しく言えばいいのに、変なところで遠慮しいだ。俺は手を温めるようにぎゅっと握りしめてやる。


「いーよ、行ってやる」

「! 本当ですか!?」

「嘘ついてどーすんだよ」


くくくっと肩が揺れる。甘利の大袈裟な反応が懐かしく感じた。


「ありがとうございます。俺、絶対に一位取ってみせます」

「おー。楽しみにしてる」

「一位になったらまた、何かご褒美くれますか?」

「んー……そうだなぁ。気が向けば?」

「わかりました」


「絶対に一位を取って、先輩の気も向かせます」と真顔で言う甘利。その姿は使命を受けた犬のようで。

(可愛いヤツ)

健気で一生懸命で、真っすぐで。


「お前さぁ、なんでそんな真っすぐなの」

「え?」

「俺、お前みたいに素直じゃねーよ? ひねくれてるし、口も悪いし……正直お前に好かれるところなんて思いつかねーよ」


眠いからだろうか。思ったことがぽろぽろと口から滑り落ちてしまう。

甘利は少し驚いた顔をしていた。


「俺さ、お前が好きだよ。でもそれって可愛い後輩って感じで、お前の言う“恋愛対象”って感じじゃねーんだよな」


一緒に飯食って、他愛もない話をして。ただ同じ時間を共にする。それが心地いいだけだ。

(恋人みたいに振舞えって言われて振舞える自信なんかねーし)


「可愛い後輩だから、お前を曖昧な言葉で縛っているのがなんつーか、申し訳なくってさ……それくらいには、お前のこと、気に入ってんだ」

「っ、そ、れは、嬉しい、です」

「ははっ、顔真っ赤!」


「お前、本当に俺のこと好きなんだなぁ」真っ赤な甘利の顔に手を伸ばし、ぼさぼさになった髪を手で梳いてやる。リンゴのように赤くなった顔は、俺でも初めて見る類のものだった。

(いいな、なんか)

この顔、見てると気分がいい。


「っ、先輩、そんなこと言って……後で後悔しても知りませんよ?」

「ん-?」

「それ聞いて大人しくいられるほど、俺、大人じゃねーし」


甘利が俺の手を摑まえる。そのまま頬を摺り寄せられ、俺は少し驚いた。

――しかし次の瞬間、驚きを通り越すことが起きた。


ちゅ。


鼻先に感じる、唇の感触。

近い甘利の整った顔。


「先輩、好きです」

「っ――!」

「ね、早く俺のとこまで落ちて来て」

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