序幕(9/9)
「やあ」
突然声をかけられ、ゾーイは危うく口にしていたコーヒーを吹き出すところだった。
喫茶店で声をかけてきた青年はケープを羽織っている。その隙間から口元の笑みが見えた。
「ここ、空いてるかい?」
真向かいに座った青年は同じくコーヒーを注文した。
「貴方、無事だったの」
「この通り」
彼らがいるコーヒーハウス『エオシオン』は、西区クルーズ郡6階に位置する。西区と分類されているが鉱山都市全体のほとんど中央に位置し、8階より上に行けば南区、3階より下に行けば深奥地区となる非常にややこしい場所にあった。
あれから、ゾーイは子爵家に追いつかれないようやたらめったらに逃げ回った。ロープで火傷した手のひらからは血が滲み、服もあちらこちら破けている。そんな格好でこのコーヒーハウスに辿り着いたのは偶然だった。空中迷路で知られる鉱山都市の、奥深い内地にあったコーヒーハウスであれば羽も休めるだろうと判断した。
それから彼はどうなったのだろうと心配していたのだが、あまりにも当たり前にピンピンしているのを見て、安堵というよりもむしろ呆れてしまった。
「ここ、いいね。誰かに追いかけられても早々見つかりはしなさそう。栗鼠の穴蔵みたいなところだ」
セオドアはおもむろに何かを机の上に置いた。
ヴィヴィニ遺跡の着彩写真だった。
「はい、どうぞ。きみにあげる」
その美しい画にたちまち目を吸い寄せられる。しかしゾーイは戸惑い顔をあげた。
「いいの?」
「勿論」
「でもこれ、貴方の物だわ。だから取り返したかったんでしょう」
「ああ、それは嘘」
「うそ!?」
窓硝子の天使は思わずひっくり返りそうになった。
慌てて座り直すと、思わず問い詰めるような声色になった。
「嘘ってどういう意味なんですか」
「そのままの意味さ。僕のじゃないよ、欲しかったけど」
実にあっけからんとした態度である。
給仕が彼の側にコーヒーを置いた。蠱惑的な香りの湯気が円を描く。ゾーイはこめかみを指で押してため息をついた。
「まあ。それなら、これ、シュタイン家に返すべきだわ」
天使の言葉に、二輪車乗りは目を見開いた。
「冗談だろう。これ、そもそも元の持ち主から子爵家が勝手に奪ったものなんだよ」
「それも嘘だったりしないかしら?」
「おや、信用を失ってしまったようだね」
青年は笑って言った。
「じゃあ、ごめんなさいって謝って子爵様に返しに行こうか」
彼のはめた白い手袋が、机の上から手品のように取る。
「あ……!」
ゾーイは思わず声を上げた。そんなつもりはなかったのに、縋るような声色がでた自分に動揺する。
セオドアは二本の指に写真を挟んだまま、彼女をまっすぐに見た。
「君はどうしたい?」
彼の前髪の隙間から、意外に真剣な瞳が彼女を射抜いた。その暗い翡翠色の瞳に、ゾーイは落ち着かない気分にさせられる。
「君は何がしたいの?」
「わたし……」
蓄音機からジャズ音楽が心地よく流れてきている。人々は居心地の良いソファや椅子にそれぞれ腰掛け、談笑している。すぐそばに、世間を騒がす色男と、天使と呼ばれた女が並んで座っていることに、気づく者は誰もいない。
ゾーイは彼の手にある絵を手に取った。空想の世界のような異次元さを緻密に描かれたその背景画は、ため息の出るほど美しい。
ボロボロの服を身に纏い、手も足も傷だらけの天使は、周りの音に掻き消されそうな、小さな声で呟いた。
「……誰も見たことのない景色を見に行きたい。この、絵に描かれているみたいな景色を」
一度唇を閉じる。ややあって彼女は顔を両手で覆った。
「どうかしたの」
「今言ったことを忘れて」
「どうして」
「こんなのおとぎ話を信じる子どもみたいだわ。あり得ない」
「夢物語なんかじゃないさ。きみが言ったんだろう、これは絵じゃなくて写真だって」
「そう、写真なの」
ゾーイは両手を顔から外した。
「写真なら……その場所に行って撮ったんだもの……。実際に誰かが行ったんだわ! この遺跡は、どこかに絶対ある」
青年は誦じた。
「正体不明の古代遺跡、ヴィヴィニ。居場所は不明。空飛ぶ岩石から泉が滴り落ち、大地に花々が咲き乱れる夢の場所。古代人の金銀財宝が眠ってるとか、世界征服も容易い古代技術があるとか、巷ではそんな噂が流れてる。――ただの噂だったはずなのに、子爵家が後生大事にその手がかりとなる『絵』を隠し持ってた」
セオドアは、ゾーイに向かって手を伸ばした。
「僕は探すよ、絶対に探してみせる。――君はどうする?」
第一章 終
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