第19話
プラザサンエー大島店は十月に開店する予定だった。開店の二か月前から準備のため、社員全員が現地に着任した。そして、研修に入ったのである。その前から店長と教育担当次長は地元への説明、各種の許認可申請、地元での広報活動等を積極的にやっていたのだった。
スタッフの人員は、マネージャーが十二名、次長が五名、そして店長と総勢十八名だった。その他の課員やパートは島民の人を採用する予定であった。
健一はウキウキして、奄美大島に着任したのである。事前に予約していた住宅は、新築の四階建てのビルで、二階以上をアパ-トにするための工事を行っていた。それが出来上がるまでは、入居予定の社員たちは全員、会社の費用でホテル住まいの許可が出ていたのだった。該当者は健一を含めて七名居た。
奄美での生活に慣れてきた健一は、休みの日は島内を観光して廻った。研修中は土日が休みだったのである。彼は離島暮らしなんて初めての経験だった。結婚してからの独り暮らしも、なかなか愉快であった。島民の友人もたくさん出来た。毎月二回、サンエーの福岡事務所で会議が開催されたので、月に二回は自宅に帰って来ることが出来た。単身赴任手当も月に六万円貰えたのだった。
奄美大島での初めての正月を迎えることになった。年末の三十日から、妻の育美と三人の娘たちが来ることになった。元旦では、近くの、いつも夕食を食べている食堂を貸し切って家族での正月を祝った。食堂の主人とは、友人付き合いをしているので、いろいろと便宜を図って呉れたのだった。何処にいても人付き合いは大切だと改めて感じていた。本当に感謝している。
娘たちは、島の観光を二日間楽しんで四日に帰って行った。
奄美大島在任期間は、原則二年間で、二年間を経過したら、『内地』・・・島の人たちはそのように呼んでいる。に帰すとの取り決めが一応、人事課と組合との間で取り決められていたのだった。それに基づいてマネージャーたちは順次、異動命令が出て、内地に帰って行ったのである。
健一は特別に帰りたいとは思っていなかったが、子供たちの進学の事もあり、、育美一人に押し付けることは出来なかった。皆と同じように帰ることに要望を出していたのである。でも、彼の場合は、管理薬剤師の業務も兼任していたので、後任の薬剤師が決まらないとの理由で、延び延びになっていた。地元の薬剤師が何人か応募に来て、面接を受けたが、使えるスキルでは無かったとの理由で人事課が断っていたのだった。でも、その後、人事課の努力で、若い男性の薬剤師の社員が転勤を了承したとのことだった。福岡の久留米店の二十代の若い独身の薬剤師だった。
予定よりも半年の遅れで、健一は内地?に帰ることが出来たのである。ところが次の赴任先が大分店と云うことで、またまた単身赴任を
健一は苦渋の選択で、止む無くサンエーを退社することにしたのだった。
足掛け二十三年間勤めたサンエーに別れを告げたのである。
健一は妻の育美に連絡して、ハローワークで適当な仕事を探しておく様にたのんだのである。健一、四十九歳の、今後の生活を賭けた三度目の転職活動であった。
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