飛翔物体アノイくん!
瀬名那奈世
第1話 ベランダでしっぽりやってたら、美形が飛んできた件について
人が男に生まれる確率、五一パーセント。
人が先進国で暮らしている確率、一五パーセント。
人が日本に生まれる確率、一・五パーセント。
東京郊外で一人暮らしをする僕のアパートのベランダに、月の使者が降り立つ確率――??? パーセント……?
*
その日、
四月の満月は朧げで、はっきりしろよと文句をつけたいような気もしたけれど、その柔らかさが裏庭の桜の風情を一層ひきたてているのも事実だった。このアパートは一階が大家さんの部屋になっていて、二階の設楽の部屋まで伸びた桜の大木は、大家さんが生まれるずっと前からここにある、大切な大切な木なのだそうだ。
設楽は手に持った缶チューハイをくるくる回し、口元に運ぶ。アルコール度数は三パーセント。ほんの、子ども騙しの度数でも、酒に慣れない設楽の頬は赤くなる。
去年の六月に二十歳になって初めて、設楽は自分が酒に弱い性質だと知った。それ以来、アルコールはほとんど飲まないけれど、それでも時々、無性に手を伸ばしたくなる日がある。それはだいたい、一人の夜の寂しさに耐えかねた時で、だからその夜も、設楽は自分の胸に吹き荒ぶ風の音を、聞くともなしに聞いていた。
友人の鳥羽の襟元から覗いた、少し焼けた肌が脳裏にぼんやりと浮かんだ。今日の夕方、「なんかもう暑いな」と笑ってスポーツ飲料を飲み干した彼の、豪快に上下する喉元を、設楽はじっと見つめていた。飲み物など飲んでいないのに、自分の喉仏も大きく動くのがわかった。
ああ、と思う間もなく、下腹部がわずかにうずく。プルトップを見つめながら、大きな大きなため息をつく。酒のせいで抑えられているとはいえ、その衝動の意味は明白だった。まだ肌寒い朧月夜、設楽がわざわざベランダで酒を飲んでいるのも、結局はそのどうしようもない欲望のせいなのであった。
風が吹くたびに、肩が寒い。肩というのはひどく温めづらい。だってそもそも、肩を温めるための掌が冷たい。
この寒さは一生続くのだろうな、と再びため息をついた設楽の視界の端で、なにかがちらりと煌めいた。反射的に顔を上げた設楽は、アルコールによる眠気で半分ほどしか開かない目に、夜空を横切る銀色の筋を認めた。
それは、流れ星に似ていた。でも、流れ星よりもずっと、長く長く尾をひいて、漆黒の闇を彩った。
設楽は一度、強く目をつむり、そして開いた。いささか霞の取れた世界にはなお、銀色の筋が残っている。右から左へ、左から右へ、ジグザグと夜空を忙しなく横断しながら――こちらに近づいてくるように、見える。
大きく身が震えた。寒さでではなく、恐怖で、だ。先ほどまで月と変わらぬ座標にいた飛翔物体は、今はもう、位置関係を立体的に捉えられるまでに近づいている。アパートの屋根と隣家に切り取られた四角い夜空を切り裂いて、音もなく静かに、だがしかし尋常ではないスピードで、設楽のたたずむベランダに向かってくる。
目が合った、と思った。そしてそれは実際、間違ってはいなかったのだろう。一度設楽の視線の先でぴたりと静止した飛翔物体は、闇雲なジグザグをやめて、今度は唐突に、鮮やかな直滑降を披露した。
迫りくる生命の危機を前に、設楽は息を止め、目を見開くことしかできなかった。自分の死因を見逃すまいと、視神経は今世紀最大の頑張りを見せ、アルコールにやられた脳みそも、混乱をものともしない精度で、送られてきた視覚情報を見事に処理してみせた。
つるりと滑らかな額が見える。なにを言っているのか、わからないだろうが、設楽に今ものすごいスピードで迫ってくるのは、間違いなく人間の顔面であった。なびいたプラチナブロンドが眩い輝きを放っている。キリッとした、同じ色の眉の下で、美しい緑色の瞳が爛々と光を放っている。
「見つけたっ」
人型をした謎の飛翔物体は、設楽の鼻先でそう叫び、唐突に勢いを止めた。これが電車の中だったら、その場にいる全員が進行方向とは反対側の壁にぶち当たってお陀仏になるほどの、見事な急停止っぷりだった。
「お前、設楽透だろ。探したんだぞ。なんだか地味なやつだな? もっと光れよ、俺みたいに」
「気をつけ」を九十度回転させた姿勢から長い足を伸ばし、煌めく謎の飛翔物体は静かにベランダに降り立った。その光景を呆然と見つめながら、設楽は必死で状況を整理する。
自分の部屋のベランダに、謎の美形が着陸した。そいつは空からやってきた。羽もなければパラグライダーもつけていない、正真正銘の生身で夜空を駆け、プラチナブロンドをなびかせながら、「もっと光れよ、俺みたいに」などと文句をつけてきた。
なにもかもが理解の範疇を超えていて、一周回ってこれは己の幻覚なんじゃないかという気がしてきた。夢ではない、というところがミソだ。設楽はいたって正気で、この幻を見ている。長年の片想いに一向に実る気配がなさすぎて、「いつか王子様が」的な、おとぎ話のような妄想を、ついに具現化してしまったのかもしれない。
とはいえ、これが自分が創り出した幻だとしたら、おかしな点は多々あった。例えば、目の前のこの男は、設楽の片想い相手・
他にも、小中高の美術の成績が万年二だった自分にしては、男の顔面の造形が完璧すぎるとか、そもそも空の飛び方が全くロマンチックではないとか、よくよく考えればツッコミどころばかりで、あれやっぱり、これって現実なのかな、いやでも、人間は空飛ばないしな、と設楽の思考が混乱しはじめたところで、「おーい」という呑気な声が鼓膜をひっかいた。
「あのさ、なんかこう、リアクションとかないの?」
ぷち、と、設楽の中でなにかが焼き切れる音がした。それは、必死に状況を飲み込もうとしていた理性が根を上げた音だったのかもしれないし、会って早々、人を「地味なやつ」などと評した彼に対する、抗議の念が噴出した音だったのかもしれない。
「……あのさ、」
「うん?」
「人間ってのは普通、光らないんだよ」
じゃあ今目の前で光ってるこいつはなんなんだ、という疑問が即座に浮かんで、設楽は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。こめかみがズキズキと痛むのはきっと、酒だけのせいではなかった。
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