第5話 サウダージ
上り坂が終わり、少し平坦な道が来て私は再びサドルにまたがった。坂がキツくなると、再び降りて自転車を押す。
空虚な思いを抱えて進んでいくと、坂をのぼりきった先に、ベンチが置かれているのに気付いた。丁度よかった。そろそろひと息つきたかった。
気が緩んだその時、ベンチに先客がいることに気付いた。
通り過ぎようかと一瞬思ったが、溜まった疲労がその考えを打ち消した。
よく見ると、先客はサイクリストのようだ。ブルーのウェアを着て、ロードレーサーを傍らに停めていた。何となく親近感が湧いた。
「こんにちは」
「ああ、こんちわ」
ヘルメットとサングラスでよく分からなかったが、よく見るとサイクリストは思ったより年配のようだ。ヘルメットの所々からはみ出した髪は白かった。
「お隣、よろしいですか?」
「えっ、ああ。どうぞ」言いながら、横に置いた小さいバックを自分の方に寄せてくれた。
失礼します、と言って私は腰を下ろした。そうすると、より疲れを実感する。ヘルメットと眼鏡を外し、また手でうちわを作った。
すると、男性はハッとした。私が横を向くと、彼は思い出したようにヘルメットとサングラスを外しはじめた。
どうやら、本当に外すのを忘れていたらしい。それほどサイクルに夢中だったのかもしれない。
よく見ると、男性は荒く息をついていた。当然かもしれない。ここに座っているということは、山道を走ってきたのだから。
「キツいですね、ここの坂は」
「いや、本当にね」男性はしみじみとした口調で答えた。
「年寄りには堪えますわ」
私は笑った。彼の年齢が気になるところだが、聞くのは憚られた。
「でもね、本当ににキツいのはこの先かもしれません」
「そうなんですか?」
私はいぶかしんだ。男性は何度もこの山道を走っているのだろうか。私が聞くと、彼は首をふった。
「私は貴方とは反対に走ってきたんですよ。さっきの坂はのぼりはキツかったけど、下りはもっと凄かったの」
「へえぇ」
心底嫌そうな声が出てしまい、私は咳払いした。
「そんなこと言われちゃうと、立てなくなります」
冗談めかして言うと男性は笑ってくれたが、言葉は本心に近かった。おそらく、まだ山道全体の五分の二ほどしか来ていないだろう。それなのに、体力は底をついているようだった。山道を抜けたとしても、そこからさらに十八キロは走るのだ。考えが甘かった、と私は今になって後悔していた。
「貴方もサイクリング?」
落ち込んでいると、今更ながらそんなことを聞かれた。
「そんなところです」
「でも、こんな道、誰も走ってないでしょ」
「ええ」
遠回りだとしても、平坦な道を進むべきだろう。
「変わってるね、貴方」
物言いに少し驚いたが、言葉に棘は感じない。
「単に不案内なだけですよ。そういう貴方はどうなんです?」
「私?」
自身に話題が移ると思っていなかったのか、男性は大げさに声をあげる。少し考えるような間があった。
「私はこの道をずっと避けてたからね。避けないで行ったらどうなるんだろう、と思ってね」
「それだけですか?」
「うん。歳だからね」
聞いてみると、男性はもう六十代だと言う。こういったサイクリング自体はやり始めて十五年ほど経つらしい。
「あと五年十年と経ったら、こんなことは出来ないかもって考えたら、やっとこうかなって思ったの」
そんな思いで行動できるのは凄いと思った。よく考えたら、私と同じような考えだった。
お互いに疲労のせいか、腰が上がらなかった。山道を走ってきた者同士、通じるものがあったのか会話に花が咲いた。
男性は田辺と名乗った。全国を旅しつつ、フリーライターのようなことをやっているらしい。
「昔はサラリーマンだったんだけどね」
ある日、自分はただの社会の歯車にすぎないと感じ、衝動的に勤めを辞めたという。私も日々生きていて、似たようなことは感じるが、とても同じことは出来ないと思った。「勇気がありますね」と言うと、田辺は苦笑した。
「違うよ。逆だよ。サラリーマン続ける勇気がないから辞めたの」
当然稼ぎは減り、女房には愛想を尽かされ、友人たちには呆れられたという。淡々と語る言葉の中に、悲壮感はまるでなかった。笑顔が柔らかい。彼と同じような選択をしても、私がこんな顔になれるのかと考えた。
私も身の上話を語った。彼と比べたら、平凡でつまらない人生だと我ながら思ってしまった。だから、田辺の言葉に驚いた。
「立派だよ、あんた」
「どこがです?」
彼は何を言ってるんだ、というように私を見返した。
「あんたは人生捨ててないじゃない」それは暗に、自分は捨てていると言っているようなものだ。
「捨てる勇気なんかないだけですよ」
私はかぶりを振った。そして、ため息をつく。田辺に、小百合さんとのこと、両親を亡くしたことも話した。こんなことを会ったばかりの他人に話す自分を意外に思った。
「もう、親に孫の顔を見せることも出来ない」
そもそも、嫁の顔も見せられなかったが。
「そっかあ」田辺は感慨深げに言った。
「やっぱり、あんたはまともだよ。私はね、その辺りに縛られるのが嫌になって逃げたからね」
彼はフリーとなった後、妻と離婚し、一人娘も持っていかれたという。どちらとも随分会っていないらしい。
私はそのことに嫉妬を覚え、つい彼を強く見つめてしまったが、田辺は首を振った。
「薄情に聞こえると思うけど、私は逃げ出せてホッとしてるんだ。家庭を持つ、なんて向いてなかったんだな」
これは奇妙な邂逅かもしれない。家庭を持てなかった私と、家庭を捨てた彼との。
「私はそこまでも行けなかった」
「彼女とそうなりたかったのかい?」
田辺に問われて、自分の中で初めて疑問が生まれた。私は小百合さんとの家庭を持ちたかったのか、それとも──。
「一緒にいたかった、だけかもしれませんね」
田辺は息を吐いた。「そう思えるあんたは強いよ」
私は首をふった。仮に家庭を持てたとしても、自分がうまくやれる保証はない。
「でも、結局は無駄でした」
「本当に、そう思ってるのかい?」
田辺はおや、という顔で私を見た。私にとって小百合さんとの付き合いが、という意味に捉えたのだろう。私は苦笑した。
「私にとってではなく、私が彼女にとって無駄だった、ということです」
「そんなことはないよ」
老サイクリストは強い口調で否定した。
「その人にとって、何があったかは分からないよ。でも、あんたとの時間が無駄だったとは思えないよ」
「結局、違う相手を見つけたのに?」
私が言うと、彼は苦笑した。
「そうかもしれないが、あんたとの時間がそれを決意させたのかもしれない」
「……」
よく分からない。小百合さんの立場で考えたことはなかった。
「小百合さん、だっけ? 彼女はあんたのことをなんて言ってた?」
「何というか……、『安心できる人』だって」
言葉にすると、彼女からそれを聞いた時のことが蘇り、胸にこみ上げるものがあった。
「いいじゃない、それ。あたしゃね、そんなこと、別れた奥さんにも、娘にも言われたことないよ」
田辺が笑う。私は小百合さんを思った。『安心できる場所』から、彼女は巣立っていったんだろうか。
「確かにあんたとは結ばれなかった。でも、あんたとの時間が彼女には必要だったんだと思うよ。じゃなきゃ三年も付き合ったりしないだろう」
だから無駄なんて言うもんじゃないよ、と言うと、田辺は立ち上がって体操をし始めた。
彼の言葉は慰めのようにしか今の私には思えなかったが、それを指摘するのも無粋だと考えた。
「そう思っておきます」と言うと、私も彼にならって、体操をし始める。
「難しいもんだね、幸せって。何が幸せか、人によって随分違う」
「ええ」
私はこれから幸せになれるだろうか、とぼんやり考えた。
「あんた、今はどうだい?」
唐突な問いに私は言葉を返せない。
「今、幸せなのかい?」
「わかりません」私は目を閉じた。
「でも、幸せだった時の記憶を辿りに来たんです」
「ほお」田辺は感心したように言った。
「そりゃ、いいね」
お互いの旅の目的を話して、私たちは別れた。
田辺は自転車で全国一周をすでに果たしたという。ただ、その過程で見落としてきた土地もある。今はそのあたりをつぶさに周っているという。
大きな目的を達しても、また新たな目標を見つけられるのは羨ましかった。
彼に対しては複雑な思いを抱いた。憧れのようなものもあり、こうはなりたくないという気持ちもあった。もしかしたら、彼はもう一つの私の可能性なのではないかとも思った。
たっぷり休憩したはずだが、筋肉が硬くなっただけで山道は少しも楽にならなかった。私はのぼれそうな坂は立ち漕ぎをし、無理そうな時は自転車を押して歩いた。それでも、休憩前より自分をみじめとは思わなかった。みじめなのは間違いないが、田辺と出会ったせいか、さほど卑屈な気持ちにならずに済んだ。
とはいえ、山道の走破は並大抵のことではなかった。途中で限界を感じ、小休憩することも二度、三度とあった。でも、それでいいと思った。私がこの道を行こうと決めたのだ。どんな形であれ、それを達成できれば良い。
田辺からこの道はサイクリストに避けられがちとも聞いた。それなら、私のような素人が苦労しても無理はない。そう考えると、心が軽くなった。
精神的な負担が減った理由はもう一つある。それは今までは日帰りのつもりでいたことだ。
目的を達して帰るとしたら、同じ道か、これを避けて遠回りしなければならない。想像するだけで目眩がしそうだった。
が、田辺のサイクリングでは行けるところまで行って、ホテルに泊まったり、テントを張って野宿したりすることもあるという。
私も同じことをすればいい。帰り道のことを忘れることが出来れば、少しは気軽になった。
田辺が色々な福音を授けてくれたものの、彼の予告した通り、険しい坂は私の肉体を痛めつけた。のぼってものぼっても終わらない傾斜は私から何もかも奪うようだった。
私は「ここまで来たら引き返せない」という気持ちだけで進んだ。
やっとの思いで坂をのぼり切り、平坦な道に出る。だが、長い間山道を進んだせいか、「どうせ、この後坂が来る」と身構えている自分に気付く。
道を進むうちに違和感に気付く。ただ、それが何なのか自分でもよく分からなかった。何故か心が安堵している。
「あっ」
私はようやく気付いた。先に見える風景が遠いのだ。つまり、下り坂が近い。しかも、この下りは長いようだ。もしかしたら、山道とおさらば出来るかもしれない。
予想通りだった。平坦な道の先はずっと下り坂が続いていたし、先にのぼり坂は見えなかった。胸が躍るような思いだったが、下り坂は急なので危険だ。ブレーキを要所で使いながら、慎重に下りていく。
下り坂が終わると、私は振り返った。私をさんざん苦しめた山がそこにはあった。
どうだ、見たか。
自分でも馬鹿だと思いながら、私は妙な達成感を味わっていた。
時計を見ると、十三時半を過ぎていた。休憩も入れたとはいえ、山道に結局二時間以上かかったことになる。昼食を何処かで摂るべきだったが、山道を走破した高揚感から離れたくなくて、私はそのまま一時間ほど平坦な道を進んだ。
昼食の時間はすっかり遅くなり、十五時を過ぎた。ファミレスにでも入ろうかと考えたが、汗だくになった自分の臭いが気になり、コンビニ飯にすることにした。
おにぎりに、菓子パンに、チョコバーなど、後先を考えず好きなものを買った。それらを地図アプリで調べた近くの公園で食べた。
思ったよりも大きな公園で、遊具も少しあった。昨今は安全性が尊ばれているのか、私の小さい時にあったような大きな遊具はない。
天気が良いせいか、親子連れが目立った。その中に派手なジャージ姿で入っていくのは引け目があった。私は隅のベンチに腰掛ける。背もたれがあるのがありがたい。
地図アプリでさらに調べると、もうこの辺りは昔私が住んでいた街の近くだと分かった。もしかしたら、昔来たことがあるかもしれない。だが、この公園には見覚えがなかった。私が街を離れた後に出来たのかもしれない。単に記憶から消えているだけかもしれないが。
記憶とは薄情なものだ。いつも見かける建物も、無くなってしまえば記憶からも消えてしまう。そんなことを思いながら、私は遅い昼飯を食べた。
午後の陽気と、疲労と、満腹感と、ベンチの座り心地が良かったのだろう。私は気付いたら、座ったまま寝入ってしまったらしい。足元に何かが当たって、目覚めた。
ハッとすると、ボールが目の前に転がっていた。少し離れたところに四、五歳らしい男の子が母親と一緒にいた。二人とも不安そうな顔をしている。見慣れぬオジサンにボールをぶつけてしまって、どうしようかと思っているのだろう。
私は親子に笑いかけると、ボールを取り、ボウリングのようにそっと転がした。男の子はそれを受け取り、私に手を振ってくれた。母親の方も苦笑しながら、頭を下げてくれた。私もうなずき、手を振り返す。
一瞬、女性の顔が小百合さんになった。そうなれば、男の子は私の子だろう。私が家庭を持っている、あり得たかもしれない可能性。そんな光景を幻視した。
気付けば、親子は去っていた。何とも妙な目覚めだった。ただ、これまでは小百合さんのことを思い出す度に心のどこかが疼いていたが、その感覚がなかった。傷が癒えたのだろうか。思い当たることはあった。
田辺の顔が思い浮かんだ。彼には妻子があったという。しかも、家庭を捨てて楽になった、とまで言った。
彼には、本当に未練がなかったのだろうか、と考えた。
舟を漕いでいたのは三十分ぐらいのようだ。スマホを見ると、もう四時近かった。私は片付けをして、再び自転車に乗った。
見知ったところに向かうとはいえ、暗くなると土地勘は通じない。それにもう二十年近く通っていないのだ。両親が亡くなるまで、正月などに実家には帰ってきていたが、自転車で街を走るのはご無沙汰だった。
下校の時間だからか、学生服が目についた。友人たちと連れ立っていたり、自転車で駆け抜けていく姿もあった。私が自転車と一番過ごしたのも、このぐらいの年代だった。否応なく、年月の経過を感じた。
そのまま走り続けていると、西の空が赤く染まり始めた。夕焼けだ。
私は後悔し始めた。来たことへの後悔ではなく、もっと早く出発すれば良かった、という後悔だ。
出来ればスピナッチ跡地を訪れるだけでなく、そこまでの行程も味わっておきたかった。
夜の街というのも悪くはないが、闇は街から本来の姿を覆い隠してしまう。それが嫌で早めに家を出たつもりだったが、考えが甘かった。
自己嫌悪しながらペダルを漕いでいると、先に橋が見えた。それには既視感があった。
斜張橋というのだろうか。中心に長い塔が立ち、そこから斜めに伸びたケーブルが橋を支えているという構造だ。
田舎なのに随分立派な橋があるな、と昔から印象に残っていた橋だった。
そこから先は既視感の連続だった。
土手沿いの公園でサッカーを楽しむ子供たち。
林道が延々続き、途切れたかと思うと現れる墓地。
罰ゲームか何かと疑うほど、ガードレールと歩道のあいだが異様に狭い通り。
駅前にだけポンポンと点在するスナック。
どれも見知った光景だった。
私は知らず知らずのうちに安堵していた。出発してからずっと、自分の知らない道を進んできたのだから、それも無理はない。
ただ、私の心は安心以上のものを感じているようだった。なんだか胸にこみ上げてくる。これが郷愁というものなのだろうか。
もちろん、何もかもが昔のままではなかった。色んなものが姿を消していた。私が変化に気付けないものもあるだろう。
一番の変化は、通っていた高校までの通学路の風景だった。実家から十五分ほどの距離にある高校は田んぼの中に孤島のようにそびえ立っていたが、今では他にも背の高い建物が林立していた。
物流会社のロゴの入った建物だ。それがのどかな景観を破壊していた。ただ、これは時流だから仕方ないのだろう。
高校を過ぎると、スピナッチまでは田んぼ畑がずっと続く。こちらは、あまり変わりがないようだった。夕暮れの空を進むのは気持ちが良かった。時折、役に立っているのかどうか分からない案山子の姿も見えた。
昔もこの風景を見ながら、「どんなビデオを借りようか」と、胸をときめかせて走っていたように思う。そして、帰り道では借りたものに対して思いを馳せた。
みじめな思いで通った時もあった。レンタル期間中に借りたものを見れないまま返却したり、延滞して余計な料金を払ったり、店に長居した挙句何も借りずに家路についたこともあった。
ふと、頬が濡れていることに気付いた。慌てて腕で拭うが、心はごまかせない。
私は嬉しかった。この道を再び走ることが出来て。
同時に悲しかった。あの頃と同じことはもう出来ない。スピナッチへ行き、ビデオを借りて帰ることは。
当たり前のことだが、それがどうにも出来ないのがもどかしかった。
走り続けるうち、空は薄暗くなっていった。もう目的地が近い。
身構えている自分に気付いた。心のどこかでは、この先にある光景を見たくないと思っている自分がいるようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます