第3話 美少女餌付け共同戦線
天気のいい土曜日、ミモザの花束を買って、ふたりは今度は少女の祖父のもとを訪れた。
元ホテルだったというその施設は、全体がアールデコ調の仕様で、ホールの天井からはルネ・ラリックばりの照明が下がり、エレベーター横にはマッキントッシュ風の椅子が並んでおかれていた。
「すごいね、ここ」少年が感心したようにあたりを見回すと、少女は入口のノートに名前を書き入れながら、
「入れ物ばかり立派でも、寝ているだけの人には関係ないの。これはママからの受け売り」と分別臭く答え、ついでに
「ブランドに見えるのもすべてフェイク。廃業したホテルを安値で買い叩いてる物件が最近多いんだって、こっちはパパから」と小声で付け加えてペンを置いた。
天井まである大きな木製のドアをノックして中に入ると、白い顔をした細い老人が、窓際のベットで目を閉じていた。
鼻の高い細面の顔を見て、なんだか蝋人形みたいだと、少年は思った。
黄金色の遮光カーテンはつやつやとした房の付いたタッセルでまとめられ、窓の外には遠く蒼い街並みと、夕焼けを背にした富士山が見えた。
加湿器がしゅうしゅうと音を立て、作り付けの飾り棚には風景の写真集が並んでいる。
少女はサイドテーブルの上の、キューブ型のCDプレイヤーのスイッチをリモコンで入れた。オルゴールの音色が部屋に流れ始める。老人は起きない。
開いたドアをノックして、ふっくらしたヘルパーさんが入ってきた。
「きょうは午後の入浴のあと、ずっと寝ているんですよ。せっかくお孫さんとお友だちが来てくれたのに、残念ね」話しながら寝たままの老人の体温を測り、腕の脈をとる。
「花瓶に活けようと思ったのに、先客でいっぱい」少女は白薔薇で満たされた花瓶を見て、困ったように言った。
「いいお友達がいらっしゃるのよ」ヘルパーさんはにこやかに言った。
「なかなか美人さんの、同年代のご婦人。おじいちゃん、結構ハンサムさんだし、若いころはもてたんじゃないかしら」
「今ももてとるぞ」
背後からいきなり声がかかった。老人は、細い目を見開いていた。
「あら目が覚めたんですか。ちょうどよかったわ、今花瓶持ってきますね」
ヘルパーさんが出ていくと、少女は手に抱えたミモザの花束を祖父に見せた。
「きれいでしょ」
老人は銀縁の眼鏡をかけ、じっと見つめた。
「もう、そんな季節か。お母さんはどうしてる」
「疲れたとか言って、お昼はあまり起きてることがないの」
老人は黙って少年のほうを見た。
「こんにちは、初めまして」
ぺこりと頭を下げる少年に、老人は目を細めた。
「友だちか?」
「そうなの」少女はちょっと頬を編空前て答えた。
老人は目を細めて少年を見た。
「あんたはいい子だな」
「え?」突然の言葉に少年は戸惑った。
「子どもの心根は、目を見ればわかる」
少年はどぎまぎして下を向いた。少女は満足そうに笑いながら、話しかけた。
「おじいちゃんのガールフレンドの写真、ないの」
「誰のだ、たくさんあるぞ。もったいなくて見せられん」
そしてミモザの花を見やりながら、ぽつりと言った。
「お母さんを、責めるんじゃないぞ。……やさしくしてやりなさい」
施設を出ると、少年はほっとしたように言った。
「ああ、なんだか緊張した」
「でしょう」少女は笑った。
「何がきっかけで、おじいちゃんはあそこにはいったの」
少女はひばりの声のする空を見上げながら言った。
「一年前、お母さんが止めてるのに自転車で出かけてね。もともと腰が悪いのに。それで転んで骨を折って、それから寝たきりになったの。引っ越し前はお母さんがつきっきりで自宅で見てたんだけど、鬱になっちゃってね。引っ越しを機にあそこに入ってもらったの。
貯金の半分をはたいたとか愚痴ってたわ。おじいちゃん、おばあちゃんが生きてた頃から女遊びがひどくて、ろくに貯金が残らなかったんだって。
あそこは医療施設も兼ねてるから助かったのよ、高いけど」
「ほんとに、高そうだよね」
「だからお父さんは残業残業で働きづめだし、お母さんはネイリストとして働いてたんだけど、引っ越し続きでいちいちお客逃がすしでね。疲労とうっぷんがたまって今、お酒に逃避中」
「……人生一度きりなのにって、思うんだろうね」大人っぽい口調で、少年は言った。
「父に可愛がられたのは感謝してるけど、一人っ子で、誰とも苦労を分かち合えないのが一番辛いって、いってたわ。愚痴をこぼせるのはわたしだけだって」
河原では、少年野球の明るい掛け声が響いていた。
合唱祭は、町一番の規模の市民ホールで行われた。
合唱は点数制で順位が競われる。投票は保護者のほか、一般客も参加していいことになっている。
着飾った父兄が居並ぶ客席に、少女の母親の姿はなかった。
酒臭い息、赤い顔で参加されるぐらいなら来ないほうがいい。少女はそう胸につぶやいて自分を慰めた。仕事で多忙な父親も、もちろん来ていない。
「陽は沈む」の、少女の独唱は会場の空気をさらい、歌い終わった後の静寂に続けて、万雷の拍手が会場を包んだ。
少年はわがことのようにそれが誇らしく、何か目もとに熱いものがせりあがってくるのをぐっとこらえた。
少女の歌声の向こうに、天空を朱に染める雄大な夕日が見えていた。そしてそれが自分だけではないという確信が、確かにあった。
少女の美しい声を生かして、短いわらべ歌の輪唱が追加されていた。
少女はおかっぱを揺らし、体を左右に振って、鈴のような声でリードしながら歌った。
いーも
いもにーんじん
いもにんじんさーんしょ
いもにんじんさんしょしーそ
いもにんじんさんしょしそごーぼう
いもにんじんさんしょしそごぼむーぎ
いもにんじんさんしょしそごぼむぎなーす
いもにんじんさんしょしそごぼむぎなすはーす
いもにんじんさんしょしそごぼむぎなすはすくーり
いもにんじんさんしょしそごぼむぎなすはすくりとーなす
いっちょでにーちょでさんちょでほい!
会場の誰もが、自然に体を揺らし、そして笑顔になっていた。もちろん、少年も含めて。
Aクラスは女子パートの得点は飛びぬけていたが、男子のグルジア聖歌は難易度が高すぎて揃わず、優勝は成らなかった。
だが、少女は四年間該当者の出ていなかった個人賞を受賞した。少女は頬を染めて、赤いリボンのついたトロフィーを受け取った。
楽屋に戻ったとき、少年は少女に声をかけようとしたが、級友や教師にわっと囲まれて華やぐ少女のばら色の頬を見て、そっと男子の群れに戻った。
もうおいそれと近くに寄れない、そんな寂しい予感が少年の胸を占めた。
遅い昼食は、広い休憩室で各自とることになっていた。
グレーのシルクのドレスを着て、胸に大きな風呂敷包みを抱えた老女が、入り口できょろきょろとあたりを見回していた。男子の群れの中に少年を見つけると、いそいそとやってきて、背後から話しかけた。
「ごめんね、遅れちゃって」
少年は振り向いて驚いた。さすがに今日は、ハハオヤ―康子さんの作った弁当があったのだ。
「ばあちゃん、ここ生徒専用だから。それに、ぼくの弁当ならもうあるよ」
「少しぐらい余計に食べられるでしょ。あのきれいな声のお嬢さんはどこかしら」
周りが笑いながら目配せをした。少年は赤くなって立ち上がった。
「女子は女子で食べるよ。もういいよ、それは」
「よくないわよ、あのかわいらしいお嬢さん、いつもまずそうなパンばっかりでかわいそうだってあなた言ってたじゃない。特性のちらしずしこさえてきたのよ、お嬢さんのぶんも」
「ばあちゃん!」
祖母の声を遮るように、少年は声を上げた。もう遅かった。巡らせた視線の先に、いつになくにぎやかに友人に囲まれていた少女の、こわばった顔があった。地声の大きな祖母のそのひと言は、確実に少女の耳に届いていた。
背後でささやき声が聞こえた。
「美少女餌付け共同戦線」
祖母はテーブルの上で勝手に包みをほどいていた。塗の箱に入った豪華なちらしずしが、カラフルなお菓子のように男子生徒たちの目を引いた。ふき、はす、にんじん、いくら、まぐろにたまご、さんしょの葉が散った春のお寿司。
「うおー、すげえ!」周囲から歓声が上がる。
「どうぞみなさんで、よかったら」
少年は乱暴に祖母の肩をつかむと、低い声で言った。
「ちょっとこっち来て」
祖母はもう一つの包みを抱えたまま、孫の手でホールの外に強引に連れだされる格好になった。
自動販売機の裏側に来ると、少年は声を荒げた。
「なんでこんなことするの。頼んでないよ」
孫のとがった目つきは、今までに見たことがないものだった
「だってあなた、どうせ誰も来ないって言ってたから、いつも康子さん何もつくらないっていってたから、だから……」祖母はおろおろと包みを抱えこんだ。
「おやじたちは昼にイタリアンを予約してあるって言ってたから、外食ついでに顔出してったよ。弁当だって今朝は持たせてくれてたよ。なんで勝手におせっかいをしに来るんだよ。学校には顔出さないって言ってたじゃないか」
「だってここ、学校じゃ……」
祖母は言葉を切ると、急に頭を下げた。
「ごめんね、そうだね。ごめんなさいね、ばあちゃんが悪かった。本当にごめんね」
「あの」
二人の背後から急に細い声がかかった。
振り向くと、真後ろに少女が立っていた。
「わたし、それ、いただいていいですか」
さらさらしたおかっぱの髪に囲まれた頬が、こころもち上気していた。少年は絶句した。
「あんな歌うたったから、なんだかお腹がすいちゃって」
少女は、目元にうっすら涙をにじませて曖昧な笑顔を浮かべている、痛々しい老女を正面から見て、にっこりと微笑んだ。
「蕗のお味噌漬けもおいしかったです。ああいうしみじみした味、久しぶりでした」
そしてすっと手を差し伸べて、老女の手からちりめんの包みを受け取った。
少年は黙ったまま、妙に丁寧なお辞儀を繰り返すふたりを見ていた。やがて突然くるりと背を向けると、人の波をよけながらその場を走り去った。
いくつか階段をでたらめに下りまた上がり、適当な出口から出ると、細長いパティオに出た。デザイナーの作品を兼ねた白いざらざらした石の椅子が、まるで溶解したひとのような形であちこちに置かれ、ソテツや芭蕉がぽんぽんと配置されている。ひと気のない、無機質な空間の、寝そべった人のような椅子に腰かけて、少年は膝に両肘をつき、両手で口元を覆った。
駐輪場からパティオに降りる白い階段の上から、少女は少年を見下ろした。まるい頭がうなだれて、白い麦飯石の床にうすむらさきいろの影を落としている。
少女は静かにゆっくりゆっくりと階段を下りた。俯いている少年をしばらく眺めたあと、少し間を開けて少年の脇に腰掛けて、包みを膝に置いた。
そして、独り言のようにつぶやいた。
「走ったから、中身少しぐちゃぐちゃになっちゃったかも」
少年は口元から手を離し、床に映る二人分の影を見ているようだった。
「妹さん、きてたよね。ロビーでお花持って待ってたの、そうでしょ? すごくかわいいじゃない。お母さんもにこやかでとっても若い感じだし、お父さんも……」
「もういいよ」
怒ったように少年は少女の言葉を遮った。
「もうそばにこなくていいよ。もう大丈夫だろ」
「大丈夫? って、何が…… 誰が?」
少年は小さくため息をつくと、先を続けた。
「きみはきれいで性格もいいから、ちゃんと友だちだってできるし、人気者になれる。引っ込み思案をやめて、その気にさえなれば。その気にならなくても、今日からはアイドルで、スターだ。ぼくのそばに寄る必要はもう、ないよ。誰もが君の隣を占めたがってる」
「そんなこと……」
「自分でもわかってるだろ。ぼくといつもくっついてるから、みんな遠慮して近づいてこなかっただけだよ。きみなら僕と違ってすぐ友達だって作れる。恋人だって」
最後の言葉に少女は気色ばんだ。
「何それ。恋人って台詞がどうしてそこで出てくるの?
わたし、誰に何と言われようと関係ないの。いたい人のそばにしかいたくない。歌を歌ったからって、なにもかわらない」
「こっちが迷惑なんだ」
「うそ!」
少年は怒りのこもった少女の声音に驚いたように顔を上げた。
「迷惑なんて思ってないくせに。勝手に逃げないで」
光に満ちた、断固とした少女の瞳がそこにあった。
少女の迫力に気おされて黙ったのち、少年は唇を震わせて言った。
「……ぼくのことがわかってるなら、そばにいたいなんて思わないはずだ」
「わかるって、なに。ひとのことを全部わかる必要があるの?」
「ぼくが知ってて、きみが知らないことがいくつもある」
「そんなの当り前じゃない。そんなの誰だってそうよ」
会話が途絶え、少年は唇を噛んだ。
「たとえば、ぼくには秘密があるって、言ったよね」
「うん」
「ほんとは、あれだけじゃなくて」
少年は両手を膝の上で組むと、顔を伏せた。何かを懸命に吐き出そうとしている気配が見て取れて、少女は息を詰めるようにしてその努力に水を差すまいとした。少年は下を向いたまま、抑揚のない声で続けた。
「カナリヤが猫に食われたって言っただろ」
「うん」
「ぼくがやったんだ」
突然空のむこうから、チョットコイ、チョットコイという甲高い鳴き声が聞こえた。それは六、七回続いたのち、ゆっくりとフェイドアウトして消えた。
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