第29話 傷跡

 戻ろう、そう言って微笑む彼女と共に、オルリアは東の塔へ戻って来た。


 風の精霊による迅速な移動のおかげで、塔に着くまでの間、誰かに見られることはなかったものの、エルナの魔力はそこで限界値を迎えたらしい。

 地下にある寝室に辿り着いた途端、彼女は床にへたり込み、大きく息を吐いてしまった。

 流血、魔力消耗、寒さ、すべてが影響して顔色が悪くなる一方だ。


「大丈夫か、エルナ。すまない、私のせいで……」


 そんなエルナに近付いたオルリアは、傷に触れないよう気を付けながら彼女の様子を窺った。

 既に暖炉には火をくれてやったが、それだけでは心許ない。

 早く対処をしなければと、焦りが滲んでいた。


「少し休めば問題ないよ。精製室に回復薬もあるし、傷薬も揃っている。それよりきみは着替えをして、友人たちに説明してくるといい。まだ親睦会の最中だろう。あとは外で警備をしていた騎士たちに騒動の収束を告げ、コーウェル殿は捕縛、叔父上を黙らせて、シャドラたちを回収してきて欲しい。ああ、怪我があれば先に治療するぞ」


 一方、彼の心配に薄く笑みを浮かべたエルナは、何でもないことのように首を振ると、彼に優先すべき事項を提示した。


 確かに突然現れたレオッカと狼化のせいで、親睦会は中断を余儀なくされたことだろう。

 狼になった後の記憶はないが、あの状況で続けられるとは思えない。

 すると仮にも王に対し淡々と指示を出すエルナは、今の状況を大まかに説明してくれた。



「なるほど……」


 語られたのは、狼化の直後からエルナが魔女と明かして狼を引き取るところまでだった。

 外に飛び出し、近衛兵たちと交戦したこと、コーウェルが現れて自身が首謀者だと明かしたこと。そして、オルリアの叔父が狼退治をやたら煽っていたこと。


 この二人にシャドラが対峙してくれているというから、今赴けば直接話すことも捕縛することも可能だろう。

 自身の正体を正確に友人や近衛兵に話すかどうかはさておき、確かに場の収束は必要だ。

 話を聞いたオルリアは、そんなことよりエルナを優先したいと言いかけて口をつぐむ。

 こればかりは王として、当事者として、自分がどうにかしなければならない事案だった。


「分かった。最速で事態を収拾し戻って来る。お前を一人にさせるのは不安だが、行かねば怒るであろう?」

「当然。きみの服はほら、そこに。おそらく気を利かせてシャドラたちがきみの私室からでも引っ張ってきたのだろう。毛だらけで打ち捨てられた感満載だがな」


 オルリアの首肯に肩を撫で下ろし、エルナはソファにぐしゃりと置かれたものを指差した。

 近寄って持ち上げてみると、白のイブニングシャツに三つ揃いのスーツ、アスコットタイなど、見事に一式揃っている。

 いずれも黒や茶色の毛がつき、テキトーに置かれたせいでシワだらけだが、女性ものの外套を羽織っただけの姿で王宮内をうろつくのは流石によろしくないだろう。


 シャドラの優秀さに驚嘆しつつ、オルリアはもう一度エルナを振り返った。


「確かに。では私は行く。すぐに戻って来る。そのときなにか欲しいものはあるか?」

「大丈夫だ、が……あ、そうだ。オルリア、ちょっと待ってくれ」

「……?」


 と、着替え一式を手にこちらを向くオルリアを見上げ、エルナは少し躊躇った後で声掛けた。

 なんだかもじもじした彼女は、床にへたり込んだまま黙り、ついに目を逸らす。

 照れた様子もかわいいと思いながら待っていると、彼女は意を決したように呟いた。


「その、私も治療と着替えをする。だが、その、アーリャ嬢に縛られたコルセットの紐が、固くて、と、取れないんだ。結び目だけでいいからほどいてくれないか……?」

「……!」

「魔力的にも少々、精霊に頼るのは辛くて……。い、嫌なら自力で頑張る」


 最後の言葉を消え入るように付け足し、エルナは目を背けたまま羞恥した。

 エルナの格好は狼の攻撃によりボロボロで、スカートの隙間から長い脚が覗いているし、肩紐のリボンもなくなってしまった。引っ掻き傷に合わせて肌が見えて恥ずかしい上、恐らく背中にも傷があるだろう。


 月明かりから室内に戻って来たことで一層目立つ姿を何とかしたいと思っていたのに、背中で結ばれたコルセットの紐だけが取れなくて、エルナは秘かに苦戦中だったのだ。


 赤くなった顔に、オルリアもつられて頬を染める。


「ごほん、そうか。嫌なわけあるまい。後ろに回るぞ、エルナ」

「う、うむ……」


 だが、急ぎの案件が控えている以上、ここでもだもだするわけにはいかないと思ったのか、ひとつ咳払いしたオルリアは、そっと彼女の背後に回り込んだ。


 上品に肩甲骨の上部を覗かせる夜会用の礼装ローブ・デコルテは、背中部分に幾つかボタンがあり、その下に問題のコルセットの紐が覗えた。

 狼が引っ掻いたせいで一番上のボタンは飛んでしまったらしく、既にコルセットの紐は見えている。


 いかにアーリャが気合を入れていたのかを示すように、結び目はリボン結びかと思えばその下に固結びが控えている二段階仕様だった。

 確かにこれでは自力で外すのは一苦労だろう。無防備な姿に抱きしめたい衝動を我慢しつつ、オルリアは紐に手を触れた。


「……っ」


 まずはリボン結びになっている方を解き、続いて頑固な結び目に手を掛ける。


「すまぬ、傷に当たったか?」


 途端ピクリと震えるエルナに問うと、彼女は気恥ずかしそうに首を振った。


「いいや、指が触れて、少々くすぐったかっただけだ」

「む……あまり煽らないで欲しいものだが……。……よし、取れたぞ。では私は一旦事態を収束してくる。すぐに戻って来るから安心してくれ」

「うむ……」


 背を向けていてなお分かるほど耳まで真っ赤にした彼女の弱々しい返事に、オルリアはしかと気を引き締め立ち上がった。


 状況が状況でなければ傍で手当てをしてやりたいところだが、そればかりは叶わない。

 オルリアには説明と捕縛と収束と、やるべきことが山済みだ。

 もちろん、説明の時間は最低限にとどめ、正式なものは明日にして、手早く戻って来る心積もりはある。


 頭の中で様々に思案しながら、彼は寝室を出て行った。





「さて……」


 寝室に一人残されたエルナは、精製室の扉を閉める音、そして石段に響く足音が消えたのを確認すると、近くのベッドを支えに立ち上がった。

 特に右足を痛めたらしく、力が入らない。

 それでも手当てに必要な薬を採りに行かなければと、彼女は痛みに耐えながら隣の精製室に向かう。


(こんなときのために薬を作っておいてよかった。まずは美味しくない回復薬。うぅ。どうして青臭さが消えないのだ、この薬……。あとは消毒薬と、傷薬と、一応鉄分もっておこう。これも美味しくないから嫌いだが。うーむ、あとは着替え……)


 寝室を出た方から見て右手にそびえる薬棚に近付き、エルナは中身をごそごそと漁った。

 用途別にまとめられた棚を開け、必要なものを手にしていく。

 これ以上魔力と体力が擦り減らないよう小瓶に入れていた回復薬はその場で服用し、雑草のような味に耐えつつ、他の薬を持つ。


 保存管理と持ち出しがしやすいよう、小瓶や小袋に入ったそれらを集め終わったエルナは、身の内の魔力エレメントが徐々に回復していくのを感じながら、またゆっくりと寝室へ戻って行った。


「うぅ……」


 そして、汚さないようベッドにタオルを布き、その上に腰かけたエルナは、一先ず足首に傷薬を塗って痛みを緩和することにした。

 薄いオレンジ色の魔法薬はクリームとジェルの中間のような感触で、傷口に塗った途端、成分が傷に浸み込んでいく。自己治癒力を高め回復を促す薬だけあって、数分で痛みが引いていった。


 まっすぐに立てるだけでも違うと思いながら、今度は体の傷を確かめようとドレスに手を掛ける。


(……むぅ、せっかく贈ってもらったドレス、本当にボロボロだな。こんなところまで破れている。あとで改めて謝ろう)


 背中のボタンと腰のリボンを外し、するりとドレスを床に落としたエルナは、改めてそれを持ち上げると残念そうに肩を竦めた。

 既にオペラグローブはどこかへ行き、ホワイトパールのヒールには血が浸み込んでいる。


 さらに贈ってもらったネックレスも一部が欠け、血がついてしまった。

 そろいのイヤリングとヘッドドレスを慎重に外し、それらを近くのドレッサーに置くと、エルナは落ち込むのを後にしてコルセットも外す。

 ようやく苦しさから解放され、しっかりと息ができたような気がした。


(はぁ。コルセットはもう二度と着けん。それにしても予想以上に引っ掻き傷だらけだ。誰もいないし、一度脱いでしまおう。その前に替えの服……)


 思わず深呼吸を繰り返したエルナは心の中でひとりごちると、ガサゴソ箪笥から替えの服を用意し始めた。

 今日はもう外を出歩くこともないだろうし、室内着でいいだろうか。

 オレンジ色をベースに袖口や裾、首回りにクリーム色をあしらった室内着を取り出して、エルナはそれもベッドに置き、シュミーズに手を掛ける。


 とはいえこのまま治療は恥ずかしいので、テキトーにシーツを被り、肌の露出は最低限にしたあと、足から上に、順を追って消毒と薬を塗っていった。


 自身の魔力エレメントを混ぜた傷薬は良く効くので、傷跡はほとんど残らないだろうと思いながら腿を治療し、次は脇腹へ。

 途端、左鎖骨から右足の付け根まで伸びる古傷が目に入って、エルナは一瞬動きを止めた。

 普段は気にしないようにしている傷が、なぜかとても嫌になった。


(この傷跡はえて残しているとお祖母様が言っていたな。私が生れた途端ハルクスという叔父に殺されかけた、プレアス王の娘である証拠。……だったな。不要な証拠だ)





 そんな感傷に顔を顰め、数十分ほどが経っただろうか。

 思案を共にのんびり治療を行い、おおよその傷を塞いだエルナは、宣言通り早急に済ませて来たらしいオルリアの足音に顔を上げた。


 足早に階段を降りる音が響き、精製室の扉が開かれる。


 もしかしなくても、このまま戻って来られるのはまずいかもしれない。

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