5 The Die Is Cast

 三日後、今日に戻ってきて“未来予知”をしろ、と言われて、マックスは二階の部屋に放り込まれた。簡易的なバスルームがついた、ホテルの一室のような部屋。壁には謎の絵が掛かっている。近付いてよく見ると、それはジグソーパズルだった。大きなパイプと謎の文字。これはフランス語だろうか。

「マグリットの、イメージの裏切り、っていう作品だよ」

 ウィンウッドがにやにやした声で言った。マックスが振り返ると、彼は声音どおりの表情でベッドの足下に立っていた。

「これはパイプではない、って書いてあるんだ」

「……へぇ。ずいぶんと詳し――」

「これから三日間、毎朝新聞を持ってくるから。それじゃあ」

 一方的に言い捨てて、ウィンウッドは部屋を出ていった。外から鍵を掛けられたのが音でわかった。内側に鍵穴はない。普通の部屋のように見えたが、どうやら人を閉じ込めるための特注品らしかった。

 マックスは大きく溜め息をついて、ベッドに腰掛けた。手錠はつけられたままだ。かしゃり、と冷たい音が鳴る。もう一度溜め息をついて、頭を両手の中に埋め込んだ。パニックは収まり、頭痛もほとんど消えていたが、“大事なパーツがない”という感覚は胸いっぱいにしつこくわだかまっていた。

(落ち着け、落ち着け……大丈夫、三日後には触れるんだ。触ってしまえばこっちのもんだ)

 触って過去に戻ってしまえばやり直せる。

 問題は、どこまで戻すべきか、ということだ。

(このことがレオから伝わったのは間違いない。とすると、あの実験をする前に戻るべきか?)

 どうしてレオは言ったのだろう。まさか父親が信じるとは思わなくて、雑談のつもりでしゃべったのか? それとも――レオのいかにもやりそうなことと言えば――アドルフ・ウィンウッドのことを問い詰めたのか? 問い詰めて、逆に問い返されて、脅されてすべてを話したのだとしたら、今ごろレオは。

 そこまで考えて、マックスは頭を振った。

(どうしようもないことを考えるな。どうせ、巻き戻せば元通りだ)

 ベッドに寝転がる。家のベッドよりもずっとふかふかしていて、かなり高価なのがわかる。が、どうにも冷たく思えた。寝心地が悪い。

(伝える前に戻る、か……)

 そうしようと決めきれない理由を、マックスはうっすら勘付いていた。あの経験を失うのが痛手に思えているのだ。せっかく理解してもらえたのに……唯一、すべてを話せる相手だったのに……それを失ってしまうなんて。

(――いや、やっぱ、それよりは伝えた後、あの瞬間にもう少し話すべきだったんじゃないか? この後の対応とか、そういうのについて。そうだ、そうしないと、どっちにしろ強盗に入ってくるあいつを止められない)

 悲鳴。血だまり。母さんの死体。思い出して、右手を握りしめる。そこにいつもの感触がなくていっそう不安をあおられる。

(……もしかして、この状況、悪くないのかもしれないな)

 ふとそう思った。ヘンマン氏の配下になったことで、母親の命は守られたことになる。それならば悪くない。もともと泥棒稼業で食っていた身だ、ギャング団に入ったところで大差なかろう。

(それならいっそ、先に俺が配下になる、か? 母さんは嫌がるだろうけど、でも最初からそうしていれば……この力と引き換えに、保護を願い出れば、もっと早くから、確実に――寒いな――保護を願い出れば母さん――が、殺され――先にヘンマン氏の――確実――もう一度――)

 いつの間にか眠りに落ちていたマックスは、顔の上に降ってきた新聞紙に起こされた。はっとして飛び起きると、ウィンウッドがサイドテーブルにスーパーの袋を置いたところだった。詰め方が下手くそだったのか、置き方が雑だったのか、袋が倒れてペットボトルが床に落ちた。しかし何も言わずに出ていってしまう。

 話しかけられたところで不快なだけだけど、と思いながら、マックスはもぞもぞと起き上がった。手錠を掛けられたまま、しかも変な体勢で寝落ちしたせいで、首の筋がつりそうになっていた。細心の注意を払いながら立ち上がり、カーテンを開ける。窓ははめ殺しで、割る以外に脱出方法はなさそうだったが、どう見ても割れそうにない分厚さをしていた。裏手に細い私道のような道が走っていて、古ぼけた外灯がぽつんと立っているのが下に見えた。あとはすべて森だ。窓に顔を近づけてみたが、隣家の存在もうかがえない。

 ベッドまで戻ってきて、ペットボトルと新聞を拾い上げた。新聞なんてこれまでまともに読んだこともない。あんまり文字が細かいものだから、ちらっと見ただけで嫌になる。

(待てよ、どうせもっと前に戻るんだから、読まなくたっていいじゃないか)

 何を真面目に読もうとしていたんだろう、と呆れ返り、新聞を放り出してもう一度ベッドに寝転がる。日差しに照らされた白い天井をぼうっと見上げる。それからしばらくして、マックスはのそのそと新聞を拾い直した。

(まぁ、暇つぶしにはなるか……)

 民主党がどうのこうの、象牙の乱獲がなんだかんだ、スペインで何かが起きているらしい――学がないせいでほとんどのことがよくわからなかった。知らない単語も多い。五十四歳で死んだ俳優。ヤンキースに復帰した有名な選手。タクシーの値上げ。それらどうでもいい記事が並ぶ端っこに、小さく隠れるようにして“不審火”の文字が見えた。

『不審火で集合住宅が一棟全焼。死者五名、行方不明者一名――』

 その住所がマックスの家でなかったら、彼はそれほど驚きはしなかっただろう。

『――警察は放火されたものと見て捜査を開始した。また、行方不明となった少年の捜索も続けている。少年の母親は逃げ遅れて死亡。生活環境や貧困状況から鑑みて、少年が犯人の可能性も視野に入れて、情報の提供を――』

 マックスは今度こそ新聞紙を放り出して、頭をベッドに叩きつけた。ふかふかすぎるベッドでは何の衝撃もない。だから二度、三度、四度、と繰り返し、繰り返し叩きつける。少年の口からうなり声が漏れ出た。言語としては意味を持たない、しかし感情の表出としては何よりも正しい言葉だった。

 喉も涙もかれ果てた後、少年の内に残っていたのは怒りだけだった。

「おい、ウィンウッド」

 夕方になって再びパンと水を置きに来たその男を、少年は呼び止めた。ウィンウッドは朝と同じように、置くだけ置いてさっさと出ていこうとする。その腕を掴んで引き止める。男は面倒くさそうにマックスを一瞥した。

「何かなぁ。僕は暇じゃないんだけど」

「火をつけたのはお前だろう。どうしてそんなことをした?」

「何の話?」

「俺の家の話だ!」

 ウィンウッドはきょとんとした顔で天井を仰ぎ、それから「ああ」と頷いた。そして、にんまりといやらしく微笑む。

「僕じゃなくって、行方不明になった少年・・・・・・・・・・の犯行でしょ。あれは」

「ふざけるな! お前以外に誰がいる! だいたいどうして、強盗にしろ何にしろ、俺らのボロアパートにあんなに執着してるんだ! お前らの目的はいったい何なんだよ! どうして俺の母さんが何度も何度も殺されなきゃならないっ? ふざけるのもたいがいに――」

 がんっ、と鼻の辺りを強く殴られて、マックスはたたらを踏んだ。壁に背を打ち付けて、そのままずるずると床にくずおれる。鼻血がしたたり落ちて、シャツの上に飛び散った。

「うるっさ。めんどくさいね、君」

 ウィンウッドの声音はあからさまに不機嫌だった。

「殺すな、ってボスの命令だからさ、殺せないんだけど、命令さえなければもうとっくに殺してるよ。――っていうか、ああ、そっか。気付かなかった。馬鹿だなぁ」

 マックスは胸ぐらを掴まれた。壁を背に無理矢理立ち上がらされる。目の前にウィンウッドの楽しそうな顔がある。平凡な、黙ってさえいれば普通の優しいおじさんに見える男の顔に、マックスは言い知れない恐怖を覚えて奥歯を噛みしめた。燃えさかっていたはずの怒りはいつの間にか縮こまっていた。

「殺しさえしなければ何してもいい、ってことだよね、この命令」

 ははっ、と軽い笑い声を上げて、ウィンウッドはマックスの腹を殴った。強烈な衝撃に胃の中のものがせり上がってきたが、吐き出すよりも放り投げられるほうが先だった。それほど軽いわけでないマックスの身体が軽々と宙を舞って、ベッドに叩きつけられる。いくらふかふかのベッドといえども、容赦なく放り落とされたら充分すぎるほど痛い。そのうえ手錠だ。手錠が手首や胸に突き刺さる。当然、受け身を取ることもできず、全身がまともに衝撃を受けて悲鳴を上げた。

 咳と嘔吐を同時に行うと息をする暇がなくなる。しかもウィンウッドはほんのわずかな休息も与えず、横からマックスを蹴飛ばした。ベッドを転がって床に落ちる。床はベッドよりも当然硬く、頭と肩と腰をしたたかに打ち付けた。

 鼻血と吐瀉物と唾液にまみれて、息も視界もおぼつかない。耳鳴りもする。痛みに耐えかねて、マックスはのろのろと身を丸めようとした。その喉元に爪先が差し込まれ、仰向けにされて鎖骨を踏まれる。

「えーと、これ以上やったら死ぬかな? まだいける?」

 マックスの視界は正常に機能していなかったが、ウィンウッドがこの上なく楽しそうな顔をしていることはわかった。何も言えず、吐瀉物混じりの咳をすると、ウィンウッドは「うわあ、きったな」と慌てて足をどけた。そしてそのまま踵を返し――扉が開け閉てされ、錠の落ちる音がした。

 ――静寂。マックスは自分の荒い呼吸を何度となく聞きながら、ようやく全身の力を抜いた。

 獣だ、と察した。ボスの命令だけはかろうじて聞く耳を持つけだもの。それがあいつの正体だ。気に食わなければ殴り、殺し、飽きたら捨てる。あれに話をしたところで意味は無いのだ。

(くそっ……)

 痛む全身をどうにか引きずり起こし、口の中のものを床に吐き捨てて、ベッドに横たわる。

(……くそ……)

 痛みと憎しみで気が狂いそうだった。何を憎んでいるのかもわからなかった。何もかもを憎んでいたし、恨んでいた。ウィンウッドも、ヘンマンも、レオナルドも、母さんも、みんな嫌いだ。もちろん、自分自身も。

(もう嫌だ、こんな……こんな、最悪の、人生……)

 マックスは力なくまぶたを閉じた。

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