*Bicycle Permute
少女は顎を高く上げて――その仕草は泣くのをこらえているように見えた――沈黙したスマートフォンを俺に突き出した。
そして、決然と言った。
「西側から出て北へ行って。絶対に、ヘンマン氏側の人間に見つかっちゃいけないわ」
「真っ直ぐ北じゃなく、西側から?」
「そうよ」
少女はきっぱりと頷いた。
「それが、未来のあなたからの伝言よ。お願い、急いで」
何やら鬼気迫るものを感じて、俺は何もわからないなりに「わかった」と頷いた。止めていた足を再び動かす。方向は変えず、言われたとおり、そのまま西へ。少女が俺の後ろをのろのろとついてくる。足音はまったく揃わないで、てんてんと転がっていく。
共同墓地の西側の出入り口には、何の人影もなかった。切れかけの外灯がぷつぷつと小さな音を立てながら、歩道をランダムに照らし出している。蛾のような虫がその光にぶつかっては跳ね返されていた。
「きゃっ」
突然、少女がよろめいた。俺は反射的に少女の腕を掴んだ。小さな段差につまずいたらしい。
「ごめんなさい、ありがとう」
「いや」
白い光の中で見たせいか、少女の顔はいやに青ざめていた。この年齢の少女が夜通し歩き続ければ、当然のことかもしれないが、それにしてもひどく疲れているように見えた。
「大丈夫か」
「ええ、平気よ。それより、急ぎましょう」
少女は唾を飲み込んで、俺の先に立って歩き出そうとした。無理をしていることが明白だったから、俺は――少し躊躇いはしたが――少女を抱え上げた。小柄な見た目から想像していたよりもさらに軽くて驚く。突然持ち上げられて少女のほうも驚いたらしく、小さな悲鳴が耳に届いた。
「急ぐんだったらこのほうが効率がいいだろ」
言い訳のようにそう言って、俺は早足になった。
「……そうね。ありがとう」
少女はやはり疲れていたらしい。俺の胸元をぎゅっと掴んで、額を肩に押しつけた。
俺は、未来の俺がいったいどうして西から北へ行くように指示したのか気になっていたが、あまりしゃべってはいけないような気もして黙っていた。とにかく言われたとおりにするほかない。未来の俺が言ったのか、少女自身の判断なのか、その辺りの真偽のほどもどうでもよかった。言われたとおりに動く。意思のない俺にはそれしかできない。
ヘンマン氏側の人間に見つかってはいけない、という指示を思い出して、俺は共同墓地から一本離れた通りに入って北へ向かった。真っ直ぐ北へ行くことを避けた、ということは、そちら側で見つかったのだと考えるのが妥当だろう。共同墓地沿いに進めば、同じように見つかる可能性がある。少し遠回りになるのが吉と出るか凶と出るか、まぁ、凶と出たならば少女に戻ってもらえばいいか、と他人事のように考えながら、それでもなるべく早足で進んでいく。少女を、少しでも早く、ゆっくりと休める場所へ運んでやりたかった。俺なんかの腕の中ではなく、もっと清潔で、温かな、ソファやベッドの中へ。少女はずっと黙ったままだった。本当に疲れ切っているのだろう。
しばらく北へ行って、それから少し東へ戻った。クラウディー氏は共同墓地から北へ、と言っていた。だからそちら側へ戻る必要があると思ったのだ。
ちょうど、共同墓地の北へ真っ直ぐ伸びていた通りへと出ようとしたときだった。一台の車がそちらから曲がってきて、俺たちの少し前で停まった。数メートル先。あと十歩といった程度。止めていないエンジンの音がここまで聞こえている。
怪しんだ俺が足を止めると、少女が顔を上げて、車のほうを振り返った。そして即座にささやきかけてきた。
「平気よ、おじさま。あの車で合ってるわ」
「そうなのか」
「ええ、大丈夫よ」
俺は半信半疑で、車にそっと近寄っていった。あと三歩、といったところで、運転席のガラスが下がり、男が顔を出した。
「お前らが悪魔と泥棒か」
「あんたは」
「俺はデニス・レディントンだ」
俺は息を呑むのを抑え込んだ。少女の言ったとおり、これがクラウディー氏の遣わした男だったのだ。
ごつごつとした顔の男は、無愛想に顎を振った。
「ほら、乗れよ。ボスがお待ちかねだ」
俺が少女を抱えたまま後部座席に乗り込むと、レディントンは扉が閉まるのとほとんど同時にアクセルを踏み込んだ。背もたれに押しつけられるような格好になって、少女を膝の上に抱えたままになる。しかし少女は歯牙にもかけず、
「周りに気を付けてね、ミスター・レディントン。つけられているかもしれないから」
と言った。
レディントンはバックミラー越しに眉を歪めてみせて、それを返答の代わりにした。いかにも意地の悪そうな、白目がちの小さな目。格闘技をやっていましたと喧伝するような、潰れた耳。歪んだ薄い唇は、口角がぐっと下がっていて、開けば大量の悪口雑言があふれ出てきそうだ。しかし、そういう自覚があるからかどうかは定かでないが、レディントンは以後一切口を開くことなく、真面目な顔でハンドルを握り続けた。
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