*Ah, Empty
少女が俺の袖口をつまんだ。引っ張られて足を止める。さらに引っ張られてその場に膝をつくと、少女は俺に顔を寄せて言った。
「おじさま、クラウディー氏にもう一度電話をしてちょうだい」
「もう一度?」
この墓地を過ぎれば、指定されたバーはすぐそこだ。なのにどうして、と思った俺の言葉を奪うほどに、少女の目は真剣だった。そしてなぜか、怒りに燃えているようだった。
「お願い。もう一度電話をかけて」
「……わかった」
抵抗する理由はなかった。ポケットからスマートフォンを引き出して、番号を押す。クラウディー氏はさっきよりも早く電話に出た。
『なんだ』
「悪魔がもう一度かけろ、と言うから――」
「代わって」
決然とした態度で言われて、俺は大人しくスマートフォンを差し出した。少女は受け取るが先か、電話口に向かって鋭い口調で言う。
「どうしてあたしたちをはめたの」
何だって、とクラウディー氏。
「あなたの指定したバー、あそこはヘンマン氏の縄張りだったわ」
何だって、と今度は俺が思った。とすると、俺たちはクラウディー氏に騙されて、ヘンマン氏の縄張りにのこのこ踏み入るところだったのか。
「あたしたちはあなたを信用しているの。あなたが最後の頼みの綱なの。お願いだからこんなことやめてちょうだい。さもないと――」
ああ、もう大丈夫だ。クラウディー氏は涙声の少女を遮ってそう言った。信じたよ。お前が過去に戻れるということも、お前
少女は顎を高く上げて――その仕草は泣くのをこらえているように見えないこともなかった――沈黙したスマートフォンを俺に突き出した。
「聞こえてらした? 北ですって」
「ああ、聞こえてた。行こう。こっちだ」
「ええ」
俺たちは方向を変えた。北へ爪先を向けて、連れ立って歩き出す。少女が俺の少し後をついてくる。俺はわずかに歩調を緩める。
少女がちらりとこちらを振り仰いだような気がして、目をやると、俺からは少女のつむじしか見えないのだった。
「あたし、言ったかしら」
「何を」
「過去に戻ってしまうとね、進行状況が失われるの。なんて言ったらいいのかしら、ええと……たとえばよ。十二時五分のところから、十二時にまで戻るとするでしょう。そうしたら、その五分の間に起きたことは、すべてなかったことになってしまうの。それで、二度目の五分間を過ごすのだけれど、その五分間は、一度目とまったく同じ五分間になるとは限らないのよ。一度目の十二時三分にはOKだったものが、二度目の十二時三分にはNOになっちゃったり、そんなこと普通にあるの。……だからあたし、本当はあんまり戻りたくないの。だって、いろんなバリエーションの“嫌なこと”を何度も見聞きしたり……反対に、せっかくの素敵な経験が、あたしだけの記憶になっちゃったりするんだもの」
俺はどうして少女が突然語り始めたのかわからず、ただぼんやりとその声を聞いていた。少女の声の切なげな響きが雨上がりの湿気た深夜と合わさって、そこに発生した哀愁にはどうにも抗いがたかった。理由なくしみじみと同情してしまう。過去に戻れる少女の嘆きになど、共感しようがないというのに。
「あたし、確か、両親を人質に取られた、って話したわよね」
「ああ、そう言ってたな」
「本当は少しだけ違うの。本当は、父親があたしを売ったのよ。組織の中での出世のために。それで、母親が人質になっていたの。――最終的に、どっちも殺されたのは変わらないのだけど」
「そうか」
「母は何度もあたしを逃がそうとしてくれたわ。そのたびに何度も、何度も、殴られたり、殺されかけたりしていた。……未来を愚直に信じる人だったわ。失敗するって何度伝えたって、今度こそ大丈夫って聞かなかったのよ」
本当に本当のさいごまで、と少女は呟いた。
俺に言ってやれる言葉はなかった。こちらの嘆きには本来共感するべきだったというのに。家族愛とか、その反対とか、そういうものについてであれば、誰にだって一言や二言、言えることがあるだろう。けれど俺には何も言えなかった。
それきり少女も口をつぐんだので、墓地には静寂が戻ってきた。不揃いな足音がてんてんと鳴り続ける。
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