第5章「沈黙」④

 生活感のない街、という当初抱いた印象に、同調から数日が経った今日も変化はなかった。金貨を常備した財布を懐に、人々は街路を歩き軽やかに挨拶を交わす。

 今日は二月八日、時間は起きるにはまだ早い……。

 夢うつつの頭を抱えて、ユウリはわずかに唇を動かして寝返りを打った。

 家に厄介になるようになった翌日、シリルがどこからか借りてきてくれたパジャマは小柄なユウリには少し大きい。逆に、そのおかげでゆったりとくつろぐことができるのも確かで、今度新しくパジャマを買う時はひとつサイズを大きくしよう、などということをユウリは考えていた。

 それもこれも、思考のすべては夢の、さらにそのまた夢の中だ。考えることのすべてが散漫としていて、記憶の表層に残るものは、さて、その中にどれほどあるだろう。

 そうこうするうちに夢の中に夢から覚めてしまいつつあることを自覚して、ユウリはいやいや目を開けた。とは言っても実際のところは薄く開けただけで、すぐに瞼を伏せてしまう。

 もう一度寝返りを打ち、体を横に向けるとユウリは手近にあったシーツをかき集めて抱きしめた。

 誰がどのようにして洗い、誰がどのようにして干しているのか分からないシーツだったけれど、触り心地は柔らかくていい匂いがする。

 それは、母親とともに暮らしていた頃の遠い記憶の中にもある匂いだった。

 気持ちがいい。ほんの少しの間遠ざかっていた眠気が、広げた指先で意識をそっと包み込もうとしているようだ。眠りの手は音もなくやってきては、優しく意識を受け止めた。

 ……そうしていつしか、ユウリは夢の中の夢に引き込まれていたようだ。ふと気がつくと、ユウリは住み慣れたコンパートメント型の個室にいた。

 夢に同調した状態で、現実世界を夢に見るのは珍しい。夢にいる間はその世界こそがユウリにとっての現実であって、現実世界に思いを馳せることなどほとんどないからだ。

 ──ユウリ? どうしたの、ぼうっとして。

 声をかけられて反射的に視線を上げると、テーブルを挟んだ向かい側の席にリイの姿があった。テーブルの上では、赤いスープが湯気を立てている。

 情景に違和感を覚えたが、その正体はすぐに知れた。ふふ、さすがは夢の中。個室とダグラスの住居とが、なんの抵抗もなく混在している。

 ──それにしても……。断るも断らないも本人の自由だとは言うけれど、前例がないものを実行するには勇気がいるよね。今の段階じゃ結局、言質をとるためのただの呪文だ。

 スープをすくいかけたスプーンの動きを止めて、ユウリは口を開いた。

「言質をとるって、つまり、自分は自分の意志で依頼を受けたんだ、ってわたしたち本人に自覚させるってこと?……そうかな、そればっかりだとは思わないけどな。拒否権って、そもそもそういう性格のものじゃないの」

 スープを口に運びながら言うリイに、ユウリはやんわりと反論する。

 ──好意的な解釈をするなら、そうなるけどね。僕なら、手に負えないと判断した時には断るよ。

 スプーンを置く、かちゃ、という音が耳についた。

「そう? まぁ、でも、そういうのもありなんじゃない? いつ何時も保身を図ることは大切だ、捨て身になるな、って、コリンが言ってたでしょ」

 ──コリンが? そうだったっけ。

「言ってたよ、くどいくらいに。忘れちゃった? なんだかんだ言って、コリンは「ちゃんと」先輩だから──あーあ、リイ、またそんな顔して。コリンの言うこと、少し意識しすぎてるんじゃないの? そんな分かりやすい反応するから、余計にからかわれるんだよ」

 リイの渋い顔を見、ユウリは笑いをこらえきれずに言った。こんなに子どもみたいにふてくされたリイの顔、センターでは誰も見たことがないんじゃないかな、とふと考える。

 ──はいはいはい……うるさいなぁ。多少の不仲は大目に見てよ──あの人、いちいち言うことが癇に障るんだって。だいたいユウリは女の子だから、僕ら男のことは──あ、いや……。

 突然リイは口をつぐみ、無言で再びスプーンを手にとった。

 あ、気を遣わせたかな。ふとそんなことを思い、状況を取り繕うようにユウリは顔の前でひらひらと手を振って見せる。

「あー、でも、そうじゃなくて……ほら、あれかな。わたし、アルダンから帰った後にも言われたから、そう思っちゃってるだけかな」

 そう……男とか、女とか。性差を意識せざるを得ない環境に自分たちがいることは確かだけれど、理屈の上での意識と、気持ちの上での意識とでは明らかに質が違う。

 気にしない、とは思っているつもりでも、なかなかうまくはいかないものだね。こぼしかけたため息を殺して、胸の奥にユウリはつぶやいた。

「そう言えば……コリンって言えば、この間は久しぶりに怒られたよ。ほら、件のアルダンの件で」

 ──……コリンに怒られた? それは、いつ。センターには、確か顔を出していなかったと聞いているけど。

 夢の中に、再びリイの声が戻ってきた。

「アルダンから起きてすぐだよ。って言っても、さすがに気持ちは少しは落ち着いていて……二回目に引き継ぎをした時かな。……いったいどうして、ひとりで行動したんだって。もっと、監視者を信頼しろって」

 ──内容は、もっともではあるね。でも、時期が時期だけに手厳しいね。

「……まぁね。でも、その時を逃したら言う機会がなかったのも事実だろうし」

 茶目っ気を出すようにペロリと舌を出し、ユウリは肩をすくめた。ふ、とリイが笑ったような気がしてリイの顔を注視するが、視線が固定された頃にはリイの顔に笑みの色はない。

 ──監視者、……監視者を信頼、か。ところで、ウォルター・カッツとは親しいの。

 考え込むような表情から、ちらりとリイの視線が動いた。

「親しいかどうか? うーん、どうだろう。そう言われてみれば、仕事中以外には話をしたことがないな。いろいろ話は聞いたけどね、出身がどこだとか、中央の中将のお墨つきを得てここに来たとか」

 ──そう。近くも、遠くもないんだね。

 リイの声が終わるか終わらないかといったところで、不意に雑音が耳に飛び込んできた。

 なんの音だろう? 音の出所を振り返ると、何故か掃除機が走り回っているのが目に入る。

 自分の目には映らない、小さなゴミが散乱してでもいるのだろうか。食事中くらいは静かな方がいいよね、と掃除機を止めるために席を立ちかけたところで、ユウリは目の前の情景が一変していることに気がついた。

 向き直った正面にテーブルはなく、その上に乗っていたはずのスープやパンも当然のように消えている。

 テーブルの向こうに座っていたはずのリイの姿もまた、いつの間にか消失していた。

 ……あ、そうか。ここは夢の中だった。不意に、実感が体を訪れる。

 そうだ、ここは夢の中。現実には起こりえないどんな事象も、思いひとつで起こりうる場所。事象の根幹を成すのは人の心そのものに他ならず、そうであればこそ、思いは諸刃の剣になる。

 ベッドに腰を下ろし、ぼんやりとユウリは目の前の情景を眺めていた。

 共通する夢の世界全体に比べ、個人レベルの夢はより変幻自在だ。夢の中の夢にいると分かっているから、ユウリはさほど混乱はしなかった。ある一定の安堵を得るためには、その種の自覚はとても大切なものだと思う。

 いつの間にか意識の外へと飛んでいた掃除機の音が、再び戻ってきていた。その音を意識したのとほとんど同時に、通信機が呼び出し音を発していることに気づく。

 なんとなくベッドを立ち、なんとなく通信機の前に立つと、ユウリは左手で通信機の受話器をとっていた。スピーカーが有効になっていないのだろうか、と脳裏の片隅に考えたが、それについての対応は何も思い浮かばなかった。

 左の頬と肩の間に、受話器を挟む。いつもは感じない冷ややかさが心地よい。

 と、灰色に沈んでいた画面に光が宿り、中央に男に姿が宿った。あ、少尉? 違う、この髪の色はリイ──胸の中に、複数の情報が去来した。

 ──やあ、ユウリ。調子はどうです?

 違和感が、胸をわずかに躍らせる。

 ──調子はどうです? いい街でしょう、ずっと暮らしていたくなるような。

 画面の向こうにいたのは、アンディ・マルコフだった。

「アンディ? どうしたの、こんなところにまで」

 反射的に返したユウリの声には、苦笑いのようなものが混じっていた。馬鹿だな、わたし、いったいどうしちゃったんだろう。とっさのこととは言え、あのふたりとアンディを見間違うなんて。

 自分の声色を後から追うようにして、ユウリはそこにある感覚を確かめる。

 「少尉」ことダグラス・リウィウスの褐色の髪、あるいはその弟の、一見する限り血を分けた兄弟とは思いがたい薄い金色の髪。そのいずれとも、アンディの髪の質は違うように見えるのに。

 画面のこちら側、ユウリの逡巡を反映したものなのかどうか。アンディの姿を象った形なき形の頬に、ふ、と笑みが浮かんだのが分かった。

 ──さあ? どうしたんでしょう、僕いったい……どうしたんだろう。

 笑みの影はアンディの頬に色濃く残り、その笑みの意味するところが理解できなくて、ユウリの胸中はざわざわと揺れる。

 いったいどうして、アンディはそんなにも笑っているのだろう。

 理解したいと望んだことのすべてを理解することができる、などとはユウリは思わなかった。だが、そんなことはとうに承知していても、時に感覚が何かを訴えてくることもある。

 ユウリは耳をすまし、音なき音を聞こうとした。そうする間中、画面の向こうのアンディの唇はずっと動き続け、絶えず何かをしゃべっているように見える。

 声は、途切れ途切れにしか聞こえてこなかった。

 ──どうしたんでしょう、僕いったい……どうしたんだろう。

「何? よく聞こえないよ、アンディ。もう一度言って」

 ──どうしたんでしょう、僕いったい……どうしたんだろう。そんなことよりユウリ、僕、今度……。

 ユウリの要求に沿ったものなのかどうか、何度となく、アンディの声は同じフレーズを繰り返しているように聞こえる。そして声は、次第に遠く薄くなっていくようだった。

「アンディ? アンディ、今どこにいるの。よく聞こえないよ、もう一度……」

 問いと要求を繰り返す間に、自分の声さえも遠ざかりつつあるような気がする。

 ……ああ、そうか。次に目覚めたら、わたし、セトアの夢の中にいるんだ。

 声が遠ざかっていくのを感じているのと同じ部分から、独白するような声が飛来する。どうやらその声は、自分のもののように思われた。

 ──あ。誰かが来た……。

 不意に、ぼんやりとした夢の中からユウリは己の声に引き戻される。

 いつの間にか通信機の画面は灰色に戻っていて、ユウリは、コンパートメント型の個室の中から玄関ホールに向かって歩を踏み出していた。


 あたりは、硝煙の匂いに包まれていた。匂いの正体がなんであるのかを把握するまでにいくらかの時間を必要としたものの、分かってしまえば確信が脳裏から離れることはない。

 夢の世界にたたずんで、ボウはぐるりと周囲を見回した。時は、おそらくは早朝。場所は広場のようにいくらか開けたところだが、もともと広い場所だったのか、なんらかの原因によって広い場所に変わったものかの判別はつかない。

 周囲を見渡す限り、人の姿らしきものはなかった。

 何気なく下方を見やると、左手に焼けた跡と思われる木柱と壁が目に入る。柱は途中で折れていたのか、高さは腿のあたりまでしかなかった。

 壁の下方はモルタルだろうか、その上に煉瓦状に積まれていたと思われる上辺は吹き飛んでしまったかに見える。全体像はと言うと、二間ほどの小さな家を想像することができた。

 周囲のある建物の、あるものは崩れ、あるものは焼けている。無数の弾跡を残したまま、倒れた壁もあった。

 ……いったい、ここはどこなのか? 声には出さず、ボウはつぶやく。

 誰もいない、何もない。都市セトアの夢において、ドームの外が何もない荒野であることは耳にしていた。だから自身もそこへたどり着くだろうと考えていたのだが、ここが荒野であるとは考えにくい。

 印象から素直に答えを導くならは、ここは崩壊した街。

 ……だとすれば、ここは火事が起こった後の堤防裏か? 眉間に皺を寄せ、ボウは警戒を強めるように腕を組んだ。

 表情が険しくなり、視線だけがあちらこちらの形をなぞる。この空間の音のなさは、生命の力の停滞を連想させた。

 夢の世界における堤防裏がどういった状態にあるのかは、アンディからの報告を得られなかった以上、想像に頼る他はない。同調によって自分がこうした場所にたどり着いたということは、少なくともセトアの人々の意識の中には崩壊した堤防裏が存在しているということだ。

 ──街の人々が堤防裏という場所に対して、その少年が言うような認識を持っていたとは思えません。

 耳の奥に、アンディの声がよみがえる。

 記憶にある彼のせりふに、この状況に対する説明を求めることは難しそうだった。

 もちろん可能性としては、この状況がボウ個人の夢に過ぎないということも考えられる。誰も足を踏み入れたことのない夢に初めて同調する場合、予定とは異なった情景に出くわした場合、あるいは明らかに同調が失敗したと判断される場合には、最初に何を試みるべきか──。

 自らが教育者の立場に立って教えてきたことを、ボウは脳裏に思い描く。イメージはあくまで散漫な思考にとどめ、それ自体が固有の場を獲得してしまうことがないよう、その合間を足早にすり抜けていく必要があった。記憶巣の間の綱渡りは自己暗示にも似て、絶妙のバランス感覚を要するこの技術を、ああ、なんと多くの者たちが獲得できないままにここに至る道を閉ざされたことか……。

 最初に、この情景がボウ個人の夢の所産なのか、それとも夢の街セトアの一端であるのかをボウは確かめる必要があった。前者だとすれば、このままの状態がそれほど長い時間続くとは考えにくい。同調を前提とした入眠である以上、操作室はボウの状態を逐次把握し、必要と判断した際にはなんらかの処置を施すはずだからだ。

 では、解決は時間の問題に任せることにして、周囲の観察でもしてみるか。

 感覚を信じるならば、ここがセトアの夢の一端であるような気はしていた。ただし、この堤防裏がユウリやウォルターがいるはずの町とつながっているかどうかは定かではない。

 ……視覚される情景が崩壊している以上、動き回ったところで人に出会えるとは思わないが、ただ突っ立っているだけよりは前向きか。

 ややあって、ボウは軽いとは言えない足どりで夢に最初の一歩を刻んだ。足もとの土が、ざり、と音を立てる。

 五感は、どんなささいな変化も逃すまいと張り詰めていた。

 そうしてしばらく行くうちに、気づいたことがある。歩いてきた場所は振り返れば確かに存在しているが、意識を強く向けぬ限りはひどくぼんやりとしているように思われることだ。

 そのことに気づくが早いか、これはまいったな、とボウは思った。仮にここがセトアの夢の一端であるとしても、この様子から判断するに、この場所は共通する夢の中心世界を構築するほどの強いイメージから作られた場所ではない。

 こうなった以上、同調は成功したという判断を得ることはできまいな。脳裏の片隅に、ボウは確信をもってつぶやいた。

 原因が自分にあるのか、操作室にあるのか、それともセトアの夢にあるのかすら、今の時点では判断することができない。幸いにして自我は確立できているように思われるから、今は情景に逆らうことなく、似たようなケースが過去に見られなかったかを記憶の中に尋ねてみることにしよう。

 たとえば、現実世界における生活水準の違いが影響した結果、そもそもブロックの夢自体が複数の層に展開していた、という事例があった。当該の夢に関しては長い時間をかけて修復したという記録が残っており、監視は現在も継続されている。

 またあるいは、夢の世界に強いストレスを感じた監視者が、逃避のために同調訓練の途上で新たな場を作ってしまうという事例は多々あった。訓練を始めたばかりの者にはありがちなことで、それが重大な事故につながったケースは少ない。

 そう言えば、アンディ・マルコフにも同種の訓練結果が報告されたことがあったのではないか……? 記憶の底に何か引っかかるものを感じて、ボウはふと、ひたすらに伸ばし続けていた思考の手を止めた。

 ……そうだ。あれはいつのことだったか──マルコフの赴任は、確か二年ほど前のことだった。非常に優秀な青年だと話を聞いていたから、こちらもそのつもりで調整を進めて……そうだ。あの時にマルコフを担当したのは、リイだった。

 それにしても、二年というのは早いものだな。あの後、瞬く間に彼は階段を上りつめ、──その階段が途中で消失しているなどと、いったい誰が想像しただろう。

 不意に目頭が熱くなるのを感じて、ボウは瞼を開いた。いつの間に視界を閉ざしていたのか、意識の中に答えはない。

 明るい視界の中、遠くの方に、誰のものとも知れぬ人影があった。ボウはいつの間にか自分が立ち止まっていたことに気づき、なんとなく足もとを見回した後で歩みを再開する。

 人影は、どうやら少年のもののようだった。髪は黒く、伸ばしてはいない。

 歩み寄ることを決して拒否しないその姿には、確かに見覚えがあった。

 気配を殺すよう気を配っていたわけではなかったから、相手には人が近づいていることは分かっているはずだった。だが少年は、振り返らない。拒否をしない代わりに、己から接触を図ることもしない。

 逡巡の後、いくらかの距離を置いて立ち止まり、ボウは声を発した。

「コウ、コウ・アローか? 君が何故、ここにいる……?」

 問いかけられても、少年はなんの反応もしなかった。向こうを向いたまま、ただその場に立っている。

 背後からは表情すらうかがうことのできない、その鎧のなんと強固なことよ……。

 ままよ。状況の把握ができていないことは自覚していたが、問いを投げかけなければならないような気がして、ボウは口を開いた。

「……コウ・アロー。君の正体は、いったい誰なんだ? 姿かたちを変え、人々に錯覚を抱かせて、いったいなんの利が君にある……?」

 問いに使うことばは、どう選んでも彼が見たままの存在であることを否定するものにしかならなかった。このことばの是非は、一定の解決を経てなお物事の善悪が逆転することがあるように、きっと永遠に定まるまい。

 ぴくり、と少年の肩が動いたような気がした。反応があったか、と黙して見守るボウの視界で、やがて少年は片足を引き、左回りにゆっくりと体の向きを変える。

 いつの間にかボウの視線は少年の足もとに落ちていて、少年の体の向きが変わるのに合わせ、苦く笑いながらボウは視線を上げた。現実世界で見たままの、十六歳で健康そのものの少年の姿を想像しながら。

 だが視線を上げた先では、劇的な変化が少年を訪れていた。

「君は……?」

 問いを投げかけた、その先にある姿は先ほどの後ろ姿に比べてあまりにも弱々しい。そこにあるのは少年の形ではなく、おとなびた容貌の、だが体つきを見る限り、おとなとは言いがたい少女の姿。

 目が合うと、どこからか風が吹いて少女の長い髪をすくった。後方に向かって風に泳ぐ髪にそっと手を当て、少女は弱々しく笑う。

「気づいてくれて、ありがとう……」

 声は、ようやく聞きとれる程度のささやきだった。


 共通する夢の世界にせよ個人の夢の世界にせよ、指標のある現実世界とは異なり、夢の世界における時間の流れというものは実に主観的なものだった。夢の中で数分を過ごすうちにその数倍数十倍の時間が現実世界を流れていることはままあり、その逆もまた起こりうる。

 夢の中に自分以外の人間の姿を認めてからというもの、ボウはひしひしと時間が流れていくのを感じていた。ああ、それでも事象に対する主観──意識空間における時間の流れというものは、なんと曖昧なものだろう。

 これがあくまでも自分個人の夢に過ぎないのならば、夢はいずれ覚めるはず。確信は常に、人が次なる段階へ進むための布石となるはずだった。あるいは、セトアの夢の一端に意識が引っかかっているのであれば、事態はなんらかの進展を見せるだろう。

 同調は、失敗か。

 それとも、成功か。

 あるいは、そのいずれでもないか……。

 操作室と自分自身の試みに対する結果はどうあれ、ボウは目の前に展開する情景に対応する必要があった。同調の成否を己に問う声を脳裏にとらえつつ、ここにある情景にボウは五感を傾ける。

 都市セトアの夢に生きる、おとなとは言えない年齢の少女を、ボウはひとりだけ知っていた。仮にここがセトアの一端であるとするなら、報告にあった街を徘徊する幻の一体ととらえることもできようが、情景とこの容貌から考えるに、その可能性は低いだろう。

「……君は、レーテ嬢か? サウス・エヴィル氏の養女の」

 問いは、己と目の前の少女の両方に向かって投げかけられた。少女はほほえみを浮かべたままで、何も応えない。

「ここは、どこなんだ。「堤防裏」か? セトアの街に、訪ねるべき相手がいる。私が目指していたのとは別の意識空間か……?」

 努めて淡々と、ボウは問いを放った。そのかたわらで、自分が発する仮定に自らが呑み込まれてしまわないように注意を払う。そう、今の段階では、あらゆる問いはあくまでも仮定に基づくものだ。

 ここがセトアの夢の一端であり、彼女が真にレーテという名を持った少女の精神体であるのなら、必要外に言語による情報を与えるべきではなかった。今言った程度のことならばとうに承知している相手かもしれないが、だとすればなおさら、情報は言語化するべきではない。

 後ろになびく髪を抑えたまま、少女は弱くほほえんでいた。

 なんの応えも得られないことにボウはわずかな苛立ちを感じ、それから努めてそうした感情を打ち消そうとする。苛立ちや焦りといった感情は、いつでも視界に薄い膜を張るものだった。ここがどこであるのかも把握できていないのに、自ら視界を曇らせるような感情を抱くべきではない。

 ややあって、少女はボウからふっと視線をそらした。それは対象に興味をなくした子どもが見せるしぐさに似て、戸惑いがボウを訪れる。

 髪を流す風の向きが変わり、少女が髪から放した手を下ろす頃には、風は収まったようだった。

「……さあ。どうしたのかしら、彼ら……」

 初めて耳に捕らえた少女の声は、まるで独り言を言っているかのようだ。

 「彼ら」という代名詞に、ボウは反応しないわけにはいかなかった。訪ねるべき相手がいるとボウが言った、その相手というのが誰であるのかを──少なくとも複数の相手がいることを、この少女は知っている。

 ──ならば、ここはやはりセトアの夢の一端。

「いいのよ。だって、待っている人なんていないもの」

 視線を落とし、わずかにうつむくような姿勢を作って少女は言った。

「わたしがそうであるように、この街に住む人たち皆がそう。だから、……いいの」

 言いながら顔を上げた少女は、緩く緩く首を振る。

 ボウは唇を閉じて、感情の読めない少女の声を聞いていた。

「……あなたは? あなたは、どっち。この世界を出て、どこへ帰るの」

 その時になってようやくボウの存在を認めたかのように、少女はボウに視線を向ける。急激に、その瞳が近くに迫る──ふたりの間にあった果てのない距離が、一気に近づいたように感じられた瞬間だった。

 ……いや、この世界が私の意識あるいは無意識の産物ではない、と言いきるにはまだ早い。気を引き締めるようにすっと息を吸い、ボウは唇を固く結んだ。

 同調の成否を確認するためにもっとも確実な方法は、信頼のおける相手と出会い、互いの状態を直観的に認識し合うことだ。あるいは、それによってもたらされた結果を疑わないことだ。現実世界において、あるいは共通する夢の世界において、己をいかに認識するか。共通する夢の世界が集合的無意識あるいは集団幻覚の所産であるとするならば、自己の存在を確かなものと認めるためには、ただ直観を信じる他なかった。

 直観──か。客観性、すなわち普遍性を備えたあらゆる指標のすべてを時に凌駕し、時になんの足跡も残さずに消え去る、不確かでひどく主観的なこの感覚。あらゆる種の内側にあるこの不文律は、素裸の、なんと攻撃に弱い指標であることか。

「……この世界を出てどこへ帰るのか、か。謎問答はいい。そこを通すんだ、さもなくば、セトアという街の入り口を教えなさい。会うべき相手に会い、伝えるべきことを伝えなくてはならないから」

「連れていくの?」

 少女と、目が合った。その目は無垢な赤子のようにも、成熟した女のようにも、老獪な支配者のようにも思われた。

「……どうする気だ?」

 いくらかの困惑といくらかの警戒、それにいくらかの非難を混ぜた表情と声音で、ボウは尋ねる。

 困惑と警戒は、己の内側にも向かっていた。世界の成り立ちは、いまだ確立できてはいない。

 少女は変わらず、意図の読めない薄い色の瞳でボウを見つめているだけだった。

「どうする気だ。絡めとって、離さない気か? 言っておくが、利になるようなことはないぞ。いざとなれば君を覚醒させ、なんらかの罪に問うこともできる」

 少女はそっと瞼を伏せ、ややあって、首を振る。無言のまま顔を上げると、ひきずるほどに長い裾をひらめかせ、少女はボウに歩み寄った。

 歩調はひどくゆっくりとしたもののようにも思われたが、少女を避けるかどうかはその速度とはまったく無縁の問題だった。近づいてくるものは世界の一端に他ならず、その胸の内に、あるいはどこかに世界の根本へと踏み入る隙があるはずだ。

 ボウの目の前まで迫ると、薄い笑みを唇に張りつけたまま、少女はすうっと視線を上げた。背はボウの胸のあたりまでしかなく、絡み合う視線にかすかに質量が宿ったような気がする。

 吸い込まれそうなほどに印象的な瞳だ、とボウは思った。薄い水色の、これはなんとはかなげな瞳だろう。

 瞳の力に背くように、ボウは無言で視線を上げた。上空には、青い青い空が広がっている。

 空はどこまでも青く、穏やかに腕を広げて世界を包んでいた。唐突に、ボウは自身がとうに世界の内側にとらわれていることを知る。

 ふと、頬に冷たい手が触れたような気がした。人肌と思うには、あまりにも冷たい手。あらゆる温度を拒否し、あらゆる感覚を奪い去る──。

「なんらかの罪に、問うことができる……。でも、それは「最悪の場合」ね……」

 肌のその冷たさに、自ずと意識が集中した。だがよくよく感じてみれば、その肌の奥には熱がある。どんな手段によっても、どんな力をもってしても決して奪うことはできない熱。己のものか、少女のものか、それともこれは、世界のものか。

「……予定外の覚醒を図ったところで、心が帰ってこないこともある……」

 声が、聞こえる。

 ボウは動くことができなかった。ただ空の青さを見上げて、声を聞いていた。

「……そうでしょう、ボウ・グリフィス? かつて、あなたの友人がそうだったように」

 呑まれた。意識のどこかから、声が聞こえる。

 呑まれた。瞳の強さに、空の青さに。

 空を凝視することで、ボウは抵抗を試みていたはずだった。それが無駄な抵抗であると理解するまでに、たいした時間はかからなかった。

 この空こそが彼女自身、あるいは、世界を構成する礎か。マルコフが憧れていたという、どこまでも美しいこの空こそが。

 体の隅から、熱が失われていくのが分かった。最初は足先、それに指先。感覚が遠ざかっていき、いしつか、己が空を見上げた姿勢のまま固まっていることすら認識することができなくなる。

「……そう、彼、亡くなったの。……約束を守ってくれたのね……」

 感情らしい感情のなかった声が、ここに至ってわずかに揺れた。

 そう、彼、亡くなったの。約束を守ってくれたのね……。

 彼の死、約束。彼とは誰のことだろう。どこからか、つぶやくような声が聞こえる。人の姿を保った意識が、空気に解けて四散していく。

 彼は、空に憧れていた。彼は空に憧れ、彼、マルコフ。マルコフ──マルコフ? マルコフはどこへ行った。

 意識がほどけるその直前、己の内面にあるつぶやきが、声となって大気を揺らした、ような気がした。

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