隣の席の先輩は、不憫可愛い。

ひっちゃん

青画面に直面した隣の席の先輩は、不憫可愛い。

「ひゅっ」


 隣の席からひきつったような声が聞こえて、私こと斎藤さいとう 明里あかりはついそちらに目を向けた。つい数分前に終業の鐘が鳴り、一年目の子たちが元気な挨拶とともに退社していったところだ。


 隣に座る蔵前くらまえ 瑞穂みずほ先輩は、猫みたいな瞳を大きく見開いて目の前のモニターを凝視している。そこに映るのは一面の青に白い文字。このコントラストが窓の外に広がっていたならさぞ爽快だったことだろうけれど、残念ながらそれは先輩のパソコンという狭い世界でその終焉を告げていた。


「……あっちゃん」


 ギギギッ、と錆びついたドアみたいにぎこちない動きで私の方を見た先輩がかすれた声を漏らす。


 私はそんな先輩にニッコリと微笑んで口を開く。


「お先に失礼します、先輩」


「待ってええええ! 置いてかないでええええええええ!! リカバリ手伝ってえええええええええええええええええええ!!!」


 夕暮れ時のオフィスに悲痛な叫びが響き渡り、先輩はキャスターを転がして私に椅子ごとタックルをぶちかましたのだった。







「もう、なんでこんな時に……」


 キーボードをたたきながら、先輩がため息交じりに愚痴をこぼす。


「いつものことですよね」


「うぐっ……そうだけどぉ……」


 私の容赦ないツッコミにダメージを受けたのか、先輩はぐでんと机に突っ伏してしまった。


 先輩と私は今、同じプロジェクトで一緒にシステム開発を行っている。こんな時にというのは、ちょうど週明けの月曜日が開発した機能を連動させて行う『結合テスト』の開始日だからだ。


 先輩が担当していた機能は今回の開発の中の中枢の機能であり、これが完成しないことにはテストが進められない。よってスケジュールを遅延させないためにも、今日中の解決がマストなのだ。……まぁ、もちろんスケジュールにバッファは積んであるんだけど、さすがにテストが完全停止となると他のメンバーの手が空いてしまって影響が大きすぎるからやむを得ない。


「突っ伏してる暇があったら手を動かしてください手を」


「むー、わかってますよーだ」


 先輩から巻き取った一部のプログラムの実装を進めながら私が片手間に促すと、先輩は子供のように拗ねた口調でぶーたれつつも体を起こしてモニターに向き直った。その様はさながら二十八歳児といったところだろうか。


 こういうところがいちいち可愛いから、私は先輩に対してだけはこんな感じのいい方になってしまう。……まぁ先輩も嫌がってないし、たぶん大丈夫だろう。


「……ん? あれ?」


 と、そんな幼児先輩が作業に戻った直後、何やら疑問形のつぶやきが聞こえてきた。見れば、キーボードのあるキーをたたきながら首をかしげている。……あーなるほど。


「……ねぇあっちゃん」


「はい、替えのキーボードです」


「対応はやっ!?」


「こんなの先輩検定十一級の問題ですから」


「何その検定!? 私いつの間に検定対象になってたの!? てか級多すぎない!?」


 ノリが良くて助かる先輩である。


 ……まぁ実際、この程度の事故は良くある話だ。


 蔵前 瑞穂という女性は非常に優れたシステムエンジニアだ。最新の技術に明るく、システムを構成するあらゆる要素に造詣が深い。設計にもプログラミングにも無駄がなくてわかりやすく、テストにおける考察やレポートだって的確だ。おまけに人当たりも良くてお客さんからの信頼も厚い、およそ欠点らしい欠点が見当たらないエンジニアである。


 だがそんな先輩にも、唯一にして最大の欠点がある。それこそが――とにかく運がない、不憫体質であるということだ。


 今回のような『定時間際ブルースクリーン』や『突然壊れるキーボード』なんて序の口。何故か急に車内の無線LANがつながらなくなる、テレワーク中に自宅が停電して急遽出社せざるを得なくなる、書類がコーヒーでぐちゃぐちゃになるなど、その不憫エピソードを数え上げれば枚挙に暇がない。


 ……最後のは先輩の不注意だと思った? ところがどっこい、これも完全な事故なのである。せっかくだから先輩に説明してもらおう。


「そういえば先輩、こないだの『コーヒー事件』は大変でしたね」


「どしたの急に? ……いやホント、あれは流石にびっくりしたなぁ」


 話題の急転換に先輩は首をかしげてるけど、それでも話しだしてくれるあたりがこの人の優しさだ。


「コーヒーシャワーなんて浴びたの初めてだったよ……もう、あんな綺麗にコーヒー入りの紙コップが私のとこに飛んで来ることなんてある? 熱いし痛いし服も書類もびしょびしょだし大変だったんだから」


「そのせいで蓋ができないカップが持ち込み禁止になったんですよね。ホント先輩、いくつ伝説作れば気が済むんですか」


「いや作るつもりないから! コーヒー事件だって私ただの被害者だから!」


 必死に首を振る先輩はちょっと可愛いけど、とりあえず貸したキーボードの動作確認は早く済ませてほしい。


 そんな先輩に、私は入社当時から大変お世話になっていた。というのも先輩は一年目のころの私の教育担当で、いろいろと至らなかった私をシステムエンジニアの端くれまで育て上げてくれたのだ。私にとってはもちろん、尊敬すべき先輩である。


 では何故私が割と先輩に強く当たっているのかというと……これはもう、慣れとしか言いようがない。教育担当をしてもらっていたころからあんな感じの不憫体質が剥きだしだったものだから、フォローしているうちにこうなってしまった。まぁ、それはそれで楽しく仕事ができるからいいんだけど。


 そんなわけで、私はいつの間にか『蔵前 瑞穂の不憫案件フォロー係』みたいな立ち位置に収まっており、必然的に先輩の自己に対する対策が染みついているというわけだ。


「で、大丈夫ですか? ちゃんと動きます?」


「えーっと……うん、大丈夫そう。ありがとねあっちゃんっ!」


 たかだかキーボードを貸したくらいでこんなにも眩い笑顔を向けてくるものだからちょっとドキッとしてしまう。こういうところが他人から愛される要因なのだろうか。いつも眠そうとか言われる私とは正反対である。


「直ったなら早く片付けましょう。私だって徹夜は嫌ですからね」


「わかってるってー! 大丈夫、あっちゃんの愛のキーボードパワーで爆速モードの私に敵はない!」


「こもってるのは哀れみの方の『哀』ですけどね」


「ひどっ!? 私はあっちゃんのこと愛してるのに!」


「はいはい」


 軽口をたたき合いながら行う作業は、何故だかいつも心地良い。……まぁ、先輩には絶対に言わないけど。


 そんな感じで時折雑談を交えつつ作業すること、数時間。


「――終わったあああああああああああ!」


 解放感に満ちた叫びとともに先輩が両手を頭上へと掲げ、背もたれに思いっきりもたれかかった。


「お疲れ様です、先輩」


「あっちゃんこそお疲れ! いやホントあっちゃんがいてくれて助かったよー!」


「大したことはしてないですよ。結局本体は全部先輩が作り直したじゃないですか、やっぱり先輩はすごいです」


 今回私がやったことと言えば、先輩が作るプログラム用のテストコードを書いたくらいだ。それはそれで大変だしテストコードがないと開発完了とは言えない以上大事ではあるのだけれど、機能自体の開発と比べればその労力は雲泥の差である。


 それも、前述のとおり先輩が開発していたのは今回の案件の中枢機能。それをほぼほぼデータが飛んだあの状態からここまでリカバリしたのは流石としか言いようがない。だから、こんなときくらいはと素直に褒めたわけだけれど。


「……えへへっ」


 ……ん?


「私のことそうやって褒めてくれるの、あっちゃんくらいだよっ」


 先輩は何故か照れたみたいに笑ってる。……あれ、想ってたリアクションと違うんだけど? てっきり「ふっふーん、そりゃあ私だからね!」みたいにおどけてくるものとばかり思ってたんだけど? そんな急に、恋するお停めみたいな笑い方サレテも反応に困るんだけど?


 ……いやいや、何を考えてるんだ私。これはアレだ、後輩から褒められるってシチュエーションが単純にレアだから先輩もバグってるだけだきっと。私だって急に後輩から褒められたら驚くだろう、それだけの話じゃないか。


「はいはい偉い偉い。それじゃあ終わったんですしさっさと帰りましょう」


「え、あ、ま、待って! せっかくだしお礼に一杯どう? 私おごっちゃうよ!」


「え? いや別にこれくらい、いつものことですし」


「いいから! ね? いいお店見つけたの! 付き合いだと思って、ね?」


 先輩はそういって私の腕をくいくいと引っ張ってくる。いやホント、なんでこの人いちいち仕草が可愛いんだ。ついでに胸も大変おっきい。腕に合わせてバインバイン揺れてる。ナニコレ、私への当てつけ? どうせ私はぺったんこですよーだ。……いけないいけない、ついコンプレックスが出てしまった。


「……まぁ、呑みに行くのは別に、全然いいですけど」


「やったー! じゃあ電話してくるから変える準備しといてね!」


 いうなり、先輩はスキップでもしそうな勢いでスマホ片手にフロアを出ていってしまった。……なんだろう、いつにもましてテンション高いな。


『私のことそうやって褒めてくれるの、あっちゃんくらいだよっ』


 そんな先輩の声が、表情が、脳裏に焼き付いてる。……なんだろう、似たようなことは今迄にだって言われたことがあったのに、なんでこれだけ、こんなに気になるんだろう。


「……考えても仕方ないか」


 声に出して無理やり意識を切り替える。経緯はともあれ、先輩が見つけたという良いお店に連れていってもらえるのだ、楽しまないとね。


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