第二章 六話
本日
当然のようにそれぞれの家の色の水干である。布地も選び抜いたものだろう。一目で良いものだとわかる色艶だ。
「榠樝さま、そろそろご準備を」
「もうちょっと素の様子を見たかったんだけどな」
「既に若君たちは戦場にいらっしゃるようなもの。素の様子など見られますまい」
「まあ、そうね」
少し残念そうに榠樝は唇を尖らせると肩を竦めた。
「あまり待たせるのも酷ね。行きましょうか」
「女東宮のお出ましでございます」
それぞれに畏まり
若草のかさねをゆるりと翻し、榠樝は言う。
「よい。楽にせよ」
高く澄んだ榠樝の声に、固まっていた場が、皆がゆっくりと動き出す。
ちらりとこちらを窺う者の多いことに苦笑し、榠樝は小首を傾げた。
「まるで珍獣」
こっそりと囁けば堅香子に窘められる。
「榠樝さま」
それでも笑みは顔に貼り付けたまま。
榠樝は殊更ゆっくりと六家の婿がねの姿を眺めていく。
笹百合と目が合って。彼は柔らかく微笑んで会釈する。
榠樝は目を細めて頷く。見知った顔は心安い。緊張が解けていく。
鮮やかな縹の水干、生成りの袴を身につけて、背筋を伸ばし。笹百合は
話がしたい。他愛のない話。
庭木の花が咲いたとか、小雨が霧のように曇っていたとか、昨日の甘葛煮が美味しかったとか。そういうなんでもない話がしたい。
けれど。
目に見える距離なのに。こんなにも遠い。
そっと吐息を零して、榠樝は深い蘇芳の衣に目を遣った。
こちらを見向きもせず、紫紺の袴の裾を整えて。紅雨は凛と立っていた。
紅雨の射抜くような視線の先には菖蒲の水干の紫雲英。
我関せずと身体を温めているのが藤黄の水干の茅花。菜の花の様な、或いは
目が合って、にこりと笑って手を振って見せる茅花に堅香子が目を覆った。
「なんてみっともない」
兄であり当主である
「いや、元気でいい」
手を振り返せば場が
「榠樝さま。過剰な
「ちょっとなら」
「婿がねにとってそのちょっとが一喜一憂のもとですよ」
わかってはいるけれど。
榠樝は月白と黒鳶の水干を探した。
気配を消している訳でもないだろうに。目立たない二人の若君。
いや、花時は本当に気配を消そうと頑張っているのかもしれないが、虎杖は何とも普通の、本当に凡庸な印象である。
「緊張しているようだね」
ひとしきり眺めた頃、
親たちが、また六家の長たちが見守る中である。
まだ緊張しているのだろう。ぎこちない。
そんな中でも紅雨の動きは軽快で目を惹いた。
「ほう」
そして、
軽やかな掛け声と心地よい鞠の音。
序盤こそ堅くなっていた若君たちだが、回を重ねるごとに楽しそうに笑みを深くしていく。
「いいな。楽しそう」
榠樝の呟きが聞こえたわけでも無いだろうが、紅雨がふとこちらを見た。
目が合って。
一瞬紅雨の動きが止まった。
眼を見開いたまま固まってしまった紅雨に、不審そうに紫雲英が鞠を渡した。
「アリヤ」
落ちるか、と誰もが思ったが、紅雨は鞠を綺麗に受け、高く蹴り上げた。
「オウ!」
「見事」
流れるような見事な動作に、榠樝は思わず口に出していた。
場が
躑躅は息子の晴れ姿に泣きそうになっていた。
儀式の蹴鞠の場は声を発していいのは掛け声だけで厳かなのだが、今回はお目見えの蹴鞠会。雑談程度なら許容されている。
だが、と榠樝は思う。
皆が魅了され始めている。
楽し気に、軽やかに、踊るような鞠足。高く低く、強く弱く。鞠が飛び交う。
優雅な紫雲英の動きも素晴らしいが、やはり紅雨が頭一つ抜きん出ている。
どんな鞠も受け、返す。
機敏だが少しばかり雑な茅花。隙の無い笹百合。平凡な虎杖。目立ちたくない花時。
それぞれがそれぞれに、楽しみ始めている。
皆が心を一つにしていく感覚。なるほど、こういうものか、と榠樝は独り
亡き父王がよく言っていた。
皆が心を一つにする時の空気が、とても心地よいのだと。
呼吸が合っていくとでも表現したらよいのだろうか。
鞠を蹴っているわけでも無いのに、榠樝もまた懸の中にいるような感覚さえして。
「堅香子」
「はい」
「楽しいな」
堅香子は榠樝を見た。
久方振りの、心からの笑顔。堅香子は目を潤ませて頷く。
「はい。……はい、榠樝さま」
ぽーんと鞠が高く上がり、太陽と重なる。
榠樝は目を細めた。
吸い込まれるように紅雨の足に納まり、そして。
「ヤア」
高く舞い上がる。
声が響く。
「見事、見事」
ぱちぱちと手を叩いて榠樝は楽しそうに笑った。
ちらりと視線を寄越した笹百合がそれを見、ほっとしたように表情を綻ばせる。
ずっと心配していたけれど、笑えるようになったのだと。
よかった、と唇だけで呟いて。
笹百合は鞠を受ける。
「アリ」
とん、と短く飛ぶ鞠を紫雲英がまた高く上げた。
普段澄ました顔の多い紫雲英が、珍しく唇を綻ばせている。
紫苑はそれだけで感慨深く涙ぐみそうだ。
茅花が
「皆、見事であったぞ。楽しかった」
榠樝が柔らかな笑みで皆を称えた。
「蘇芳紅雨。そなたに特に褒美を取らせる。近う寄れ」
「は」
途端にぎこちなくなった紅雨。
榠樝は衣を一枚脱ぐと畏まる紅雨の肩に掛けた。
「期待以上であった。見事ぞ」
紅雨が弾かれたように顔を上げ、榠樝と目が合う。
榠樝が何度か目を瞬いた。
一気に紅雨の頬が紅潮し、震えだす。
「あ、あの、その!勿体なきことにございますれば!」
勢いよく頭を下げ、転びそうになりながら戻って行った。
「……うん?」
小首を傾げる榠樝に、堅香子がそっと囁いた。
「榠樝さま、流石でございますわ」
榠樝はわかっていないが、一目瞭然であった。
ときめきどころか心臓が早鐘のような蘇芳紅雨。
いわゆる一目惚れというやつである。
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