第一章 十話
そんな折、
飛び交う怒声。何かが壊れる音。
実のところ藤黄家ではそれほど珍しい出来事という訳でもない。
「お前なんぞが務まるかバカ者!」
「バカって言った方がバカなんだぞバカ兄!」
「ああもう、兄上方落ち着いてよ!邸が壊れる!」
どすんばたんと取っ組み合いの末、
「伊達に右大将してる訳じゃ、ないからな!」
ふっと南天の姿が掻き消えた、と思った次の瞬間、橘の身はきれいに宙を舞っていた。
物凄い音がして
藤黄家は開け放している部屋が多い。理由はお察しあれ。
「力で俺に敵うと思うなよ、兄上」
烏帽子が吹っ飛んだ南天が
「南天兄上、はしたない」
「気にすんな」
ひらひらと手を振る南天に、几帳の残骸を払って橘が怒鳴った。
「気にしろ!みっともない」
烏帽子を外し、頭髪を
「気にしてる内に大怪我するぜ?」
一気に距離を詰めた南天に、橘はまた吹っ飛ばされた。
「南天兄上、そこまで。橘兄上死んじゃう」
「死ぬか、これくらいで」
茅花を見、次いで満身創痍の橘を見、南天は両手を挙げた。
「前言撤回。死ぬわ。止めた。茅花、
「
ぼたぼたと鼻血を垂らす兄に、若干、ほんの少しだけ、すまなそうに南天が謝罪する。
「悪ィ。手加減し損ねた」
余計頭に血が上るような台詞を吐かれ、橘は案の定激昂しかけたが南天相手にバカらしくなって笑ってしまった。
残っている方の袖で鼻を押さえ、橘は行儀悪く庭に座り込んだ。
南天も何となく向かいに座る。
「持って来たよ~」
角盥を抱えた茅花の後ろに女房達が付き従い、彼女たちなりの精一杯の速度でついて来ていた。
カルガモ親子、と南天は思う。
手当は自分たちでする、と道具一式庭に置かせ、女房達を下がらせる。
藤黄ではそう珍しくも無い光景で、それでは、と去って行った。
たまには少しくらい心配してもいいと思う。
橘はそう思ったが口には出さなかった。言っても無駄であるからだ。
漸く止まった鼻血を濡れた布で拭い、橘は顔を顰める。口元も切れているらしい。
明日、腫れた顔で参内するのは気が引ける。
「休めば?」
兄の思考を読んだように茅花が言った。
「休めるか、バカ」
「オニイサマは真面目で融通が利かぬ性分だからな。ずる休みなんてできるかよ」
無傷の弟を腹立たしく思いながらも橘は、喧嘩の発端となった話を再開する。
「とにかく、辞退申し上げろ」
「えー、俺女東宮の婿がねやりたいし、南天兄上だって北の方居ないじゃん。問題ないと思うよ」
「問題大有りだ。お前も南天も、女東宮の婿がねの欄に入れるのすら憚られる。
南天は頬杖をつき、唇を尖らせた。
「そこまで言われると立ちたくなるだろ」
「なるな」
ぞんざいな橘。
「だって、兄上。女東宮が生まれた時の、俺への陰陽師の予言。覚えてるだろ?」
南天の台詞に橘は顔を歪めた。
「お前が女東宮を、ひいてはこの国を守る、だったか。妄言だ」
「ひでえ」
言い切る兄に弟は笑う。本人も本気で信じている訳ではない。
だが、時折胸を
「大体お前、年も考えろ。女東宮は十四だぞ」
「十違うくらい誤差だろ。父上と母上は十五違うんじゃなかったか」
「うちを基準に考えるな!それでなくとも色々評判がアレなんだぞ藤黄は!」
はいはい、と手を上げる茅花。
「じゃあいいじゃん、俺で。俺十九だし!それに女東宮、可愛いんでしょ?」
「可愛いぞ」
「お前は軽過ぎるの!」
南天と橘の声が被った。
「橘兄上が真面目過ぎるんだと思う~」
「んなわけあるかバカ!俺は普通だ。お前たちが規格外なんだ!」
茅花が肩を竦める。
「だって、女東宮って頭いいし可愛いし、それって最高じゃん。守ってあげたら何でも自分でできちゃうんでしょ?近くで守ってあげるお姫様の相手なら、確かに南天兄上向きだと思うんだよね」
ぐっと言葉に詰まる橘だが、茅花の言い分も理解できないわけではなくて。
「まあ、ちょっと触ったら壊れそうで怖いけどな、女東宮」
ぼそっと零した南天の呟きに、また橘が激昂した。
「だから!南天!お前は不敬に過ぎると何度!言ったら!」
ぽた、と先程止まったはずの鼻血が膝に落ちた。
「橘兄上、また鼻血出るから。興奮しないで」
「お前たちが!興奮させてるんだ!!」
「え~、とばっちり~」
どこまでも喧しい藤黄家の三兄弟であった。
話し合いはどこまでも平行線。
力で遣り合えば、勝つのは南天に決まっている。
結局、三すくみ拳で決めたという。
月白家と黒鳶家では
月白は四人もいる息子の中から候補を絞るために籤を行い、黒鳶は生贄を出すために籤を引いた。無位無官の十歳ではあるが一応月白の末子、六花も籤を引いたらしい。
もしも当たっていたらどうするつもりだったのだろう。
年齢的にも家柄的にも、これを機に
つまるところ、女東宮の婿としては除外されるべき存在だ。
一方の、榠樝の従兄弟でもある黒鳶の若君たちは皆揃って榠樝に頭が上がらず、また苦手に思っているので、可能な限り近付きたくない。
夫になるなどとんでもない。王配たる地位に魅力はあれど、榠樝の夫。
絶対に尻に敷かれる。
生涯頭が上がらないこと間違いなしであって。
となれば互いに押し付け合うしかないだろう。
分家筋の者ならば、と思ったりもしたが、直系男子が三人も居る状態で、分家を推すわけにもいくまい。
そんなこんなで
蘇芳家より紅雨、従五位上、
菖蒲家より紫雲英、従五位下、
縹家より笹百合、正五位下、
藤黄家より茅花、従五位下、
月白家より
黒鳶家より
果たしてどう転ぶことやら。
それぞれの思惑を
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