第20話「……私と友達でいてくださるのは、貴方くらいでしてよ」
洗い終えたマグカップとケトルを片付け、アシャとルネは各々のベッドに横たわる。
柔らかい敷布団に身体が沈み込み、重力の実感と共に強い眠気がまぶたを襲った。
枕元に持ってきたキャンドルランプの灯りを消そうと腕を伸ばしかけた時、ルネの声が耳に届く。
「アシャ。言い訳に思えるかもしれませんが、このお店は迷える女性たちの駆け込み寺なのです」
辛うじて聞き取れる程度の声量で、相槌や返答を期待したものではなさそうだった。
しかし、心残りを晴らしたい思いが切々とした響きになって表れている。
「望まぬ形で大切なものを奪われた。他者からの愛され方を知りたい。一度でも美しい思い出がほしい。様々な想いを受け止め、秘密を守ってくれる場所はそう多くありません。ですから、どうか……」
客の実情を知る者ならではの真に迫った例えを出しつつ、最後まで言い切りはしない。
嫌わないで。拒まないで。理解して。
そんな、心の機微を強いる言葉を使いたがらないルネにアシャは改めて好感を持った。
「心配しないで、ルネ」
薄暗がりの中、隣のベッドの方へ顔と身体を向ける。実際に相手が見えるかどうかはさておき、そうすべきだと判断した。
「ちゃんと分かってるよ。あたしが間違ってた。いい歳なのに、視野が狭くて嫌になる」
自嘲の苦笑いをこぼす。
偏見や思い込みで自分を定義づけられる不快を知っていながら、無意識に負の連鎖を続けようとしていた。
他者に改善を求めるのではなく、自分から断ち切っていかなければならない。
さして歳も変わらないのに、柔軟かつ公平な物の見方が出来るルネを羨ましく思う。
「あたし、ルネみたいな頼り甲斐のある人になりたいな……」
成人をとうに過ぎた大人らしくない意見でも、言わずにはいられなかった。
単に年齢を重ねるだけでは不十分な、人としての経験値の不足はどこで補えばいいのだろう。
心の中に生まれた問いは、睡魔によって瞬く間に霧散した。
目を閉じて間もなく思考がほどけ、アシャは気を失うように眠り落ちた。
規則正しい寝息を聞きながら、ルネは身を起こしてランプの火を吹き消しにかかる。
「……私と友達でいてくださるのは、貴方くらいでしてよ」
ほのかな喜色を帯びた困り顔は暗転によってすぐに見えなくなった。
日の出と共にルネはいち早く目覚め、寝乱れたアシャを揺り起こした。
冷水で顔を洗い、朝食のチーズを混ぜたパンと硬いビスケットを胃に収めて何とか意識を覚醒させた。
朝一番の船に乗り込む必要があり、酸味のきいたオレンジジュースが口に合っても二杯目を頼む暇はなかった。
船着場では島との別れを惜しみ、涙を流す旅行客の姿がまま見られた。
アシャたちはとんぼ返りの日程で動いているせいか、彼らほど感傷に浸らず早々と船内に入った。おかげで、比較的揺れの少ない場所に座れた。
船旅では前回の反省を踏まえ、酔い止めの薬を飲んで早々に寝入ることで嘔吐をせずに済んだ。
入港寸前に甲板へ出て、真昼の空と海を眺めていられるほど、波は終始穏やかだった。
大陸に着き、来た道を引き返すのも、連れ立つ相手がいれば別の味わいがあった。
借りた馬は夜までに厩舎へ届ければ良い。脇道に逸れて、しばし散策を楽しんだ。
王都に到着したのは陽が傾く頃だった。
所属する教会へ用のあるルネと別れ、アシャはギルド管理の宿へ向かった。
「うわぁ……」
自室同然の部屋のドアを開いた瞬間、ため息が出た。
魔術道具や生活用品が床に雑然と散らかっている。
泥棒に入られたわけではなく、旅行前に慌てて出て行った状態のままなのだ。
この惨状を放置して困るのは自分であるし、旅の間の洗濯物も早めに洗っておきたい。
アシャは着古したシャツに着替えて、部屋の掃除にかかった。
部屋自体がそう広くないからだろうか。
棚や机から落下した物を所定の位置に戻す程度にするつもりが、やり始めると徹底的に綺麗にしたくなる。
毛ばたきと箒、雑巾を駆使して部屋を磨き、手洗いした洗濯物をロープに吊り下げて滑車でベランダに回す。下着類は部屋干しだ。
全ての作業を終えると、窓の外は黄昏時を迎えていた。集中している間は意識の外にあったが、急激に空腹を感じる。
昼まで着ていた外出着に袖を通し、アシャは宿を出た。
時間帯的に空いている飲食店を探すよりも、酒場でつまみを食事代わりにした方が早そうだ。
どの店も長期保存の効くハムとチーズが定番だが、そればかりでは胃に悪い。
野菜の煮込み料理などがメニューにあればいいが。身の丈に合った小さな願望を胸に、飲み屋街へ足を踏み入れた。
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