ティル・ナ・ノーグ 〜カブトムシを捕まえにいったら何故か妖精を捕まえたんだけど、気が付いたら住んでた町が滅びそうになっていたんだが〜

坂条 伸

前編

 霧が立ち込める鬱蒼とした森の中、いくつもの成熟した木が絡み合うようにして伸びる、天を衝くような大木が存在していた。


 その木のふもとには、大木には不釣り合いな小さな小さなうろがある。そのうろには、これまた不釣り合いな薄い赤色の半透明な蓋がしてあり、うろの小ささに反して非常に目立っていた。


 半透明の蓋越しにうろの中を覗き見ると、そこには妖精としか喩えようのない羽の生えた小さな女の子が、横向きに胎児のような姿勢で収まっていた。


 普通ならば人形か何かだと思うところだが、横になっている少女の顔が、気持ち良さそうにだらし無く緩んでいて、とても人形には見えない。よく見るともごもごと口元が動いていて、時折り満面の笑みを浮かべている。まるで食べ物の夢でも見ているようだった。


 あり得ない大きさの大木と、小さな小さな眠り姫。


 いつ迄も幻想的な世界は、ある日一人の少年が訪れたことで突如終わりを迎える。


 それは、世界が新たなステージへと移り変わる、始まりの時でもあった……。



    ◇◆◇◆



「やべー、迷った!!」


 高校生になり、始めて迎えた夏休みの初日。


 思い返せば終業式が終わった昨日の帰宅中、友人たちとの会話の中で、夏の定番でもあるカブトムシの話題となり、童心に返って盛り上がってしまったのが始まりだった。

 夏休み特有のテンションとでもいうものか。昨日の盛り上がった気分のまま、朝からカブトムシを捕まえに、一人ですぐそばの山へと入ってしまったのだ。


 ……もう分かったとは思うが、現在絶賛遭難中だ。


 正直な話、幼い頃から度々入っている近所の小さな山なのだ。迷うことなど一切考えていなかった。


 今日も、最初の一時間ほどはいつも通り、迷うそぶりは全くなかったのだ。

 一向に見つからないカブトムシを探すのに夢中になっているうちに、気がついたら辺りが霧に囲まれていて、あっという間に自分が何処にいるのか分からなくなってしまった。


 しばらく立ち止まって考えてみたのだが、取り敢えずは真っ直ぐ歩いてみることにした。というのも、俺が入ったのは二時間もすれば簡単に越えられるぐらいの小さな山で、起伏も少なく霧が立ち込めていても大して危険だとは思えなかったからだ。


 そんな甘い考えも、しばらく歩いた結果、驚愕と共に消え失せてしまうこととなったのだが……。


「なんだ、あれ……」


 辺り一面を霧が覆っている中、ふと見上げた先に不自然に霧が薄い場所が見える。

 思わず凝視したその先には、現実にはあり得ないほどに巨大な、雲に届くかのような大木が聳え立っていたのだ。


 俺は思いもしない物を見てしまったため、しばらくの間、口を開けたまま立ち尽くしていた。



 少なくない時間が経ちようやく我にかえった俺は、薄ら寒いものを感じて自分自身と周りを何度も確認したあと、もう一度大木を見上げた。


 信じられないことだが夢や幻ではないようだ。


 俺は少しだけ迷ったが、立ち止まり続けるのも、引き返すのも意味がない気がして、取り敢えず大木を目指すことにした。

 

 歩き始めてから気が付いたのだが、周りの森の植生も俺が入ったはずの山とは明らかに違っていた。見たことがない草木やキノコがあり、あり得ない造形や色のものがいくつもあるのだ。


 改めてこれが夢であることを疑ったが、歩く感触や深い森特有の匂い。何より、焦りから生じた身体中の不快な汗の感覚が、これが現実であることを突き付けてくる。


 混乱してぐちゃぐちゃになった思考のまま大木へと歩き続けていると、やがて大木の枝葉が傘になっている開けた場所へとたどり着いた。


 不思議なことに降り注ぐ真夏の日差しは、大木から広範囲へと広がる枝葉が一切の陽の光を遮ることなくその根本を照らしていた。


「何なんだよ、この木は……というか本当に木なのか? ……ん? 何だ、あれ……、こんな場所に赤い、パネル?」


 大木の根元に近い場所には、赤い半透明の下敷きに似たパネルのようなものが嵌め込まれていて、異常過ぎて非常に目立っていた。


 吸い寄せられるように、そのパネルの元へと歩いていく。パネルのすぐそばまでたどり着くと、半透明のそれは意外にも透き通っていて、その奥にある小さな妖精のような人形がはっきりと見える。その人型の余りの精巧さに驚き跪いて凝視していると、人形の表情が時折変わっていることに気付いた。


「何でこんな……は? え?! なにコレ、まさか……生きてる!?」


 驚きのあまりその場へとしゃがみ込むと、その赤い半透明なパネルへと無意識に手を伸ばし触れてしまった。


 すると赤いパネルは途端に輝きだし、様々な色の光を辺りへと撒き散らしだした。


「く、ぅあ、ああぁぁ……!」


 その光は段々と強くなり、やがて俺の視界は虹色の光で塗りつぶされる。

 光に侵されるような感覚の中で俺は、


 その直後、魂に直接響くような声が俺に届く。



『全ての条件トリガーの達成を確認しました。只今より、世界改編プログラム【Worldワールド Embryoエンブリオ】を開始します』



『妖精郷に隔離されている八柱の世界樹を、現界へと顕現します』



『条件を満たしている生物に対して、固有の性質を魔法化する可能性三種子の祝福を付与します』



『条件を満たしている動植物に対して、魔力エネルギーを付与して進化を促します』



『条件を満たしている鉱物に対して、魔力エネルギーを付与して変化を促します』



『世界は一定領域への妖精郷の侵食により、新たなるステージ【Tir na nogティル・ナ・ノーグ】へと到達しました』



 魂に直接響くような、男性とも女性とも捉えづらいその声を聞きながら、俺の意識はゆっくりと落ちていった……。



『おめでとうございます。あなたは——』

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