神様が泣いた日

村上 雅

第1話 退屈な神様、岸谷登場

            



  午前十一時を少しまわりかけた静寂につつまれたオフィス。時はとても穏やかで静かに流れている。

 もう三月に入ったというのに、窓から見る景色は空が曇っているせいか、まだ冬のままの色合いだ。

 しかし、この部屋には空調がしっかりとほどこされていて暖かい。

 此処ここには、十三人の女の子たちがいるが、全員がミニのスカートで、仕事をする訳でもなくただ退屈そうに足を組みマニキュアの手入れをする、携帯電話でのメールのやり取りに、パソコンでネットサーフィンに余念がない娘と、それぞれ好き勝手に時間をつぶしている。

 ミニスカートにも目を疑うが、女の子たちの着ている服はみな同じようなデザインでそれが制服だと思うが、一人ひとり色が違う。落ち着いたシックな色もあれば、明るい色やショッキングピンクもあって様々だ。それに、この部屋の壁の色といったら、目にも多少きつい赤みの強い青紫で、とても職場とは思えない異様な空気をかもし出している。

 そのうえ社員の数の割にこの部屋は余りにも広く、デスクのレイアウトにしても贅沢な配置となっていて、部署の看板を見ると、ここが営業課というから更に首をかしげてしまう。

 その中にあって、ただ独り、この課の課長の今年五十九才になるたにという男だけが、目をほそめ懸命に書類の文字に指をはわせ、彼ひとりが仕事をしているようだ。

 しかし、この部屋にはもう一人の男がいて、その男はというと、中央のデスクに顔をうつせてよだれを垂らし、只今睡眠中のようだ。この会社の中では名を岸谷きしたにと呼ばれているが、年齢は不詳ふしょう、周りには三十歳だといっている。この男には年齢だけでなく、全てが謎に包まれている。彼のことを深く詮索せんさくしようとしても無駄である。何故なら彼、岸谷は、神……神様なのだから。

 彼のことを知りたいからと、どんな好奇な目で見ようとしても、岸谷は周りからの自分への思考に対してはシールドと称し霧のようなものを施し正体を決して明かさない。たとえそのプロテクトがなかったとしても、彼を深く詮索するのはまず無理であろう。それは、本来彼はこの世には無のような存在だからだ。

 (プルルー……プルルー……)

 課長の谷が声を押し殺して、近くの席でマニキュアを塗っている女の子に声を掛けた。

「オイ、電話だ。誰か早く取れよ。岸谷君が、寝ているんだから……」

 近くの席にいた女子社員は、課長の谷をにらみながら嫌々受話器を取り、そして何やら会話の後、谷と同じように声を抑えて取り次いだ。

「課長、社長から電話です」

「アアーそうか、分かった。ありがとう」

 谷は自分のデスクの受話器を取り、岸谷に気を使いながら、小声で社長からの電話に応対をした。しかし、岸谷は電話の呼び出し音で目が覚めたらしく、むっくりと身を起こし、薄く眼を開き、何処を見るでもなく、ただぼんやりと天井に目をやって見ている。

 周りは、岸谷が目を覚ましたことに気付きながらも、知らない振りをしている。というのも、岸谷の寝起きが悪いことを知っているからだ。まさに、〝さわらぬ神に……〟ってことなのだろう。だが一人、岸谷が起きるのを待ち兼ねていたかのように、にんまりとヴィビッドな赤のルージュを片頬でつり上げほくそ笑み、部屋を出て行く女子社員がいた。

 岸谷は、相変わらずボーと焦点の合わない目でいたが、そのまま視点を下ろして向こう側に視線を移した。そこには、水野みずの真沙美まさみが座っていたが、岸谷と視線が合うと、急にふくれつらになり、プイッと横を向き知らん顔をした。

そこへ、先程この部屋を出て行った女子社員が戻ってきて、岸谷の方に近づいて来た。野中のなかあいという娘だ。手には、珈琲の入ったカップを持っている。

 愛は、昨年短大を卒業して、その年入社し、この課に配属されてきたのだが、「私は秘書課を希望して、この会社に入ったの。だから、別に仕事がなければ、私は岸谷さんの秘書としてお世話をさせて貰います」と、配属早々、宣言した。その言葉は、それ以来、彼女がいつも口にする口癖となっていた。

 愛に限らず、この会社では新人社員は、みな営業課へとまわされる。それは、岸谷がいるからで、そもそも、この会社が何を生業なりわいとしているかといえば、岸谷が神としての力を使い、株価の動向を見きわめながら、株を売買することである。それで得た利益を資本に、未だ世に出ていない新案の特許等を買い集め、その特許を必要としている企業に提供して、さらに利益を得ている。

 岸谷の仕事の他に、この会社のすることといえば、取得した特許を無断で使用されないか、コンピュータシステムを使って見張っているだけだ。この会社の本業において、諸事業等と自社ビルの管理、運営に至るまでいくつもの下請け会社に任せっきりである。特別これといって仕事らしい仕事はなく、ただ社員の頭数を揃えているというだけなのだ。

 それをまえていえば、愛を含めそこにいる女性たちは、岸谷をいつまでも引き止めておくだけの役割の女子社員たちなのである。おのずと知能より容姿のほう優先の入社資格となるのは当然なのだ。試験はなく面接だけだが、その面接にしても、水着審査があって、いかに女性としてのアピールが出来るかにかかっている。

 そこで、女子社員たちを統制すべき役割を負うのが課長の谷であるが、日頃から彼は、いつも言うことを聞いてくれない女の子たちに手を焼いている。なかでも特に愛を、谷は一番の苦手としている。

 この会社は十年程前までは、古ぼけた五階建てのビルの一室を借り、社長の原口はらぐちに、奥さんと今の課長の谷、それに今ではゴルフ三昧の接待漬けで、会社には殆んど顔も出さなくなった専務の石橋いしばしに、常務の木梨きなしの五名で細々と印刷業を営んでいたが、事業は一向に軌道に乗らず、常に自転車操業状態だった。

 会社と岸谷との出会いは、たまたま街をぶらついていた岸谷に、ネオンの明かりも射さない暗い路地でヤクザな借金取りにひどくボコボコにされ、泣いていた原口と遇ったのが切っ掛けである。

 あの時、原口は殴られ蹴られながらも、その痛みに耐えていた。堪えきれず出てくる涙は、幾ら頑張っても事業を軌道に乗せられず、借金ばかり膨らませている社長である自分の不甲斐なさに出てくるものであったのだろう。その涙に触れた時、岸谷はいつわりのない涙にすべてをさとり、共感し、原口に力を貸したからこそ、原口の会社は今この二十階建ての自社ビルを持つまでになったのである。

 その過去を見ても、岸谷という男は情というものにも厚いことはうかがい知れるが、岸谷は特許の売り込みに来る人たちの心、その人の境遇を先ずる。その時、その人たちが生活にひんしているのが見えれば、どんなにくだらないものでもその身に見合った幾許いくばくかの金を渡し帰ってもらう。それが、周りには理解が出来ず『どうしてあんなモノを……』というような顔をするのだが、岸谷にすれば『たまには、俺にも神というものの真似事をさせろ』なのである。

 岸谷は寝起きのぼんやりした頭で十年前を思い出していた。

『涙か……そう言えば、人はよく涙を流すよな。子供を見ているとよく分かる。子供の頃は転んだり、どこか打ったりしただけで泣き、欲しいものがあれば泣き、淋しくても泣く、ちょっとしたことでも涙をながすよなぁ。しかし、大人になっちゃうとあまり泣かない。よく街で見かける涙はたいてい女の人が相手の男に、何か下心があっての時だし。そうそう、大人が泣く時がある。それも大の男が、誰か大切な人のために泣いているよなあ。例えば結婚式場で、花嫁の親父なんか泣くなぁ。ああいう涙はいいなあ。心の中をのぞいて見ると『幸せ一杯で、もう何も要らない、このまま死んじゃってもいい』と言っているんだから、まったく……もし、本人の希望通りに死んじゃったら、我が子の結婚記念日が親父の命日になっちゃって、残された奴らが可哀そうになるよ。泣く時って、涙を流す感じって、どんなんだろうなぁ……』

 更に岸谷の思いは深まる。

『俺は、気がついた時には、もう大人だったもんなあ。子供にだって、化けることは出来るけど、一度子供になった時は、本当に嫌な思いをしたよなぁ。笑うのはよかったんだけど、俺は涙が出ないから上手く泣けなくて、周囲に気味悪がられたし。今の俺の存在って、いつ頃からなんだろう。この国の連中が、かみ、神、神様って念ずるもんだから、最初ぼんやりと意識だけあった俺が実体を持つまでになった。あの頃はよかった。俺のパワーも最高潮で、ちょっとした山なら動かせた」

 岸谷の思考は、遠く懐かしい追憶へとなってゆく。

『その頃に会ったんだっけかな? あの泣きべそで負けず嫌いの女の子……幼い頃は泣き虫だったけど、もの心つく頃には意思が強くなっていた。俺はその子の弟として傍にいたが、いつしかその女の子は小さな国を動かすまでになっていた。しかし、それは表向きで、本当は裏で、俺にこうしたい、ああしたい、と常に我がままなことを言っているだけで、自分では何も出来ない、といつも泣いていた。仕方ないから、俺は彼女に分からないように本人の意向に添って願いを叶えてやってはいたけど、彼女の願いが次第にエスカレートしていき、俺も仕舞いには彼女の我儘わがままについていくのが嫌になって逃げ出した。その後どうしただろうな? あの頃は、今と比べてテレビや新聞とか情報が全然なかったから分からないけど、今となってはまた会いたいな。あの泣き虫の姉ちゃんに……あの頃に比べると、今のこの世は何だ。人々の生活が全て便利になり、困った時の神頼みって、まるで困った時にはキャッシングカードって感じで……俺は、かみ、神であって、紙じゃあないって言ってるんだ。今じゃあ、カードあつかいかよ。最近の俺の影も、本当に薄っぺらになっちまったもんだよ……』

 神である最近の岸谷は、尽々つくづく思う。独り、遠い過去の想いに浸っている岸谷に、野中愛が近づいてきた。

「はい岸谷さん、珈琲よ。気をつけてね。とても熱くて、とっても濃ゆいわよ。それを飲んだら、私が岸谷さんのことを誰よりも熱く、そして誰よりも深~く愛していることがわかるわ……きっと」

 愛が岸谷の机に、湯気の立つ珈琲の入ったカップを置いて言った。そして、岸谷の耳元に顔を近づけ、岸谷の胸元のネクタイをいじりながら、囁くような小声で語りかける。

「あのね、昨夜の岸谷さん、とってもよかった。ウウン、いつもいいの……いいんだけどぉ、でも、昨夜は特別……何て言えばいいのかしら、上手く言えないんだけど、愛っていうのかしら。ウン! 愛よ。岸谷さんの愛を、私、感じちゃった」

 岸谷は、まだ起ききらないでいる頭を目覚めさせようと、熱そうな珈琲にふうふうと息を吹きかけながら、愛から視線を外し向かいに目をやった。

 すると、真沙美が岸谷と愛の方を睨んでいて、またも視線が合ったのに気づき、今度はいきなり席を立ち、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 岸谷は、呆然ぼうぜんと真沙美を見送り、昨夜のことを思い返した。

 昨夜は、この課の毎月恒例の営業成績達成の慰労会という名目で、高級クラブに行き、会を開いた。岸谷の予定なら、その後、真沙美とホテルへゆき、リザーブしていたバーラウンジで二人だけで時間を過ごすことになっていた。だが、今傍にいる愛が、その日の昼間のうちに、この課の女子社員全員に、二次会はいつも行くカラオケ・バーだからと、出鱈目でたらめなことを云えていたらしく、真沙美も知らずに、そこでみんなと待っていたのだった。

 岸谷は岸谷で、神様のくせに女の艶香いろかと酒には滅法めっぽう弱く、他の女子社員を出し抜いて、岸谷をショットバーへ連れ出した愛のペースにはまって、飲まされてしまった。彼は十時を回る頃にはもう既に呂律ろれつがまわらない程に酔っていて、後は愛の思惑通りにことは運んでいった。彼は酔った勢いで、これまた愛のリードのままに、近くのホテルで燃え尽きてしまったのだった。

 岸谷は、今更のようなことを考える。

『昨夜飲んだ酒に、愛は薬か何かを仕込んだのではないだろうか? 何故に、あれ程あんなにも燃えたのだろうか?』

 彼自身あんなふうにわれを忘れ燃え尽きたのは久々で、今日の彼は、もうまるで残り火さえ見えない燃えカスのようである。真沙美の出て行ったドアを眺めながら、岸谷は珈琲のカップを口元に運んだ。その時、彼は嫌味なほど愛の、愛の熱さを唇に思い知らされ、思わず珈琲を机の上にこぼしてしまった。

 それを見ていた愛が、すかさず側にあったティッシュペーパーで机の上にこぼれた珈琲を拭き取りながら、誰に言う訳でもなく独り愚痴ぐちった。

「アーアー、もう、高かったのよ、これ……岸谷さんにって、折角買った絶倫XXX(ぜつりんトリプル・X)なのに……もう、もったいない。ああ、もう、もったいないじゃあない?……アッ!?」

 愛は、思わず洩らした愚痴に気づき、口を両手で押さえた。しかし、岸谷は寝起きの悪さと、愛の今の愚痴に昨夜の出来事の疑いが全て確信へとつながり、遂に堪忍袋の緒が切れた。

「愛、俺はお前を、もう許さねえぞ。昨日の晩も、オメーは、この俺に一服盛りやがっただろう」

 愛は、ヤバイと一歩引いたのだが、もう弁解は出来ない、と覚悟を決めたのか、見るみるうちに色を失くし、今にも泣き出しそうに目をうるませた。

「だって、岸谷さんだって、昨日はとってもよかったでしょう? なんせ、昨夜はあんなに何度も悦んでくれたもん」

「ば、馬鹿野郎、俺が言っているのは、それだけじゃあないぞ。お前は、ここのみんなにデタラメな二次会の場所を教えやがっただろう。どうして、いつもいつもオメーはそういうことをすんだよ。エー、オイ」

 愛の方は、もうそろそろ押さえが効かないらしく、唇が小刻みに震え出してきた。

 その次に、左の目から涙が一滴零れる……このパターンだと久々に一気に大泣きモードにスイッチが入るはずだ。しかし、それにも構わず、岸谷は怒りに任せ、遂に愛に引導いんどうを渡すべくいつものセリフを吐いた。

「お前は、もう今日で、この営業部を卒業だ。明日から、お前の念願の社長秘書をさせてやる。愛、嬉しいだろ。明日から、いつも社長の傍にいて、あのくだらねえ駄洒落を聞き逃さないように一つひとつノートに書き留めるんだぞ。いいな」

 もし、愛が秘書として社長の傍に行くとなれば、社長秘書は、これで愛を含め丁度十人となる。

この社長というのが、かつて岸谷によって借金地獄から救われた原口大二郎だいじろうであり、起きている時は、バイタリティに溢れ、とにかく大声の持ち主だ。駄洒落をバズーカ砲の如く辺り構わず撃ちまくる男で、病的なほどそううつの落差の振り幅が大きく、人の何十倍もの喜怒哀楽の持ち主なのだろうと思われる。

 多分、彼に立ち向かう奴は、この社にはいないだろう。たとえ、岸谷がいくら神であろうと彼のバズーカをまともに喰らってしまえば、見るみる内うちにL・G(ライフ・ゲージ)が減っていき、再起不能におちいってしまうだろう。それほど、恐ろしい男で、神をも震え上がらせるやからなのだ。しかしその半面、岸谷には憎めない存在なのも確かである。

 岸谷に最後の宣言を言い渡され、とうとう愛の左の目から大粒の涙がゆっくり頬を伝い落ちた。

 遂に愛は、大泣きモードに入ったのだ。ウッウッウッと小刻みに肩を震わせ、息を吸い込み始めた。

 周りにいたみんなは構えた。これから起こるであろう台風より恐ろしいことに対して。それをたとえるとしたら、全長が百メートルのジェット戦闘機で、時速十キロという超低速のスピードで、眼の前を通り過ぎるかのような、愛の泣き声なのはずであった……筈だった。

 だが、しかし一人、愛と岸谷との間にヌーっと入り込み、立っている者がいた。それは課長の谷であった。

 岸谷も来るのを構えて、耳を両手で塞ぎ、目を閉じていたのだが、来るべきものが来ないので、そおっと薄めに目を開けてみた。すると、目の前には谷がニコニコと微笑んで、こちらを向いて立っている。それも、大きく口を開け大声を出そうとしている愛の口を、後ろ手に塞いでいるのだ。そして谷は、愛の方にきびすを返し、こちらにも微笑みながらさとすように語りかけた。

「何があったのかは知らんが、駄目じゃあないか。好きな人の前で、泣いた顔を見せるなんて。第一に、野中君。君は、どうして未来の旦那様の前で、泣いて困らせようとするんだね。ンー? その涙は将来の花婿さんの為に、岸谷君との結婚式の時まで大切に仕舞っておきなさい。ねえ、分かったね」

 すると、愛は、泣くタイミングを谷にそがれ、感情のモードとしては、誰が何と言ようと泣くつもりでいたが、谷の言った〝将来〟〝結婚式〟のふたつの言葉が、更に愛の感情を複雑なものにしているようだ。目には涙をたたえ、何処から見ても泣いているように見えるが、谷の手に隠された唇は笑っているのか、頬がピクピクと痙攣けいれんをしている。愛の思考は、完全にフリーズしているようだ。

 谷は、もう泣かないはずだから大丈夫だろうと気を許し、岸谷の方に顔を向け『もう大丈夫だよね』と笑いかけていたのだが、愛の口から手を離そうともう一度振り返った時に、愛の顔を見て一瞬ビクッとし、凍りついた。

 岸谷は、谷の肩ごしに見える愛の摩訶不思議な表情に、思わずボソッと呟いた。

「好きな人の前で泣くなって言っても、その顔じゃあなぁー」

 もう、怒る気も失せたようだ。

 谷は、いつまでもこうしてはいられないと、恐るおそる手を離したが、またもビクッとして後退あとずさりした。なぜなら、愛の表情が予想通りに引きった異様な微笑みが、そこにあったからだ。

 谷は気を取り直し、岸谷の方を向き直りニッと笑い、何かを言いかけた時に、営業課の外の廊下が、まるで戦時下の地を思わせるかのように騒がしくなった。

 誰かが、ミサイルやバズーカ砲を撃ちまくってでもいるようだ。その恐怖が身近に近づいて来る。正体は社長の原口大二郎であった。その脇に九人の秘書を引き連れての登場だ。

「いやー皆さん、ごくろー様。今日も一日頑張ってるねー。いやー、結構ーけっこー。やっぱり営業課は、いつ来てもいいねー。パワーを感じるよ……春はお花見、夏は海水浴に冬はスキーだ」

 原口は、そう言うとちらり谷に視線を送り、何か反応をしろと催促をした。

「エッ! なに? 谷君、何だい? ウンウン、秋を忘れている? 谷君、なかなかいいつっこみだよ。エッ! 馬鹿言っちゃいけないよ。営業課に、秋があっちゃよくないよ。商売の原点である、営業課には秋がないのは当たり前だろ。だっていうだろ、商売のことを秋がない、あきない、あきない……って、いうだろう。だから、みんなも飽きずにお仕事を頑張ろうね。エッ、アーハッハハハー……」

 毎度のことだが、いつも突然の奇襲攻撃に、営業課全員が心の準備をする余裕もなく、唖然あぜんとした。

 原口は、呆然としている岸谷の方に近づいて来て、彼の前に立った。

「今日のは、どうだった? これでも気を使っているんだよ。みんなを笑わせようと。なんせね、笑う角には福が来るっていうだろう……アーハッハハ」

 原口は、豪快に笑っているが、福どころか岸谷という神様がすぐ近くにいるのに、その神をも吹き飛ばするような勢いだ。本当に神をも恐れぬ輩だ。

「ところで、岸谷君、ありがとう。先週、買った株がもう上がっちゃったよ。私も少し個人的に買わせて貰ったがね。それで、いつ売ればいいのだろうかね」

 岸谷は眼の焦点が合わず、顔を左右に振り、やっと二重に見えていた社長の原口の顔がひとつになった。

「アッ! 社長、株ですか?……あの株でしたら。あの企業は近々新製品が出るということで、今日から上がり始めていると思いますが、二ヶ月後に新製品が出たら、一週間後にすぐ売り抜いて下さい」

「オーオー、ありがとう。ウンウン、ありがとう。岸谷君、いつも本当に有難う。あのね、岸谷君。私はね。いつも思っているんだ」

 周囲の冷たい視線もどこ吹く風で、原口は尚もしゃべり続ける。

「君も、三国志は知っているよね。私と君との仲は、まるで三国志の劉備玄徳りゅうびげんとく諸葛しょかつ孔明こうめいのようだとね。勿論、私が玄徳で君が孔明だよ。そうだ。あれで、玄徳が上手いことを言っているね。二人の仲は〝水魚のまじわり〟だとね。君が孔明だから魚だよ。そして私が水、ンッ! みず?……水だよね。えっ、逆だったかな。確か……えーっと……。ンー、まあ、まあいいか。そういうことなんだよ」

 なにが何だか、どういうことなのか。原口はまるで自分勝手に、独り納得している。

「アッ、そうそう、谷君にも言っていなかったね。ニューヨークに行っているウチの娘から、頼まれていたことなんだけど。近々向こうから三人の金髪ブロンドの娘さんたちが来るんだよ。これで我社もグローバル・スタンダードと胸を張っていえるよ。岸谷君、たまには君も金髪の女性とお仕事をするのもいいよね。つい夢中になって、仕事もアメリカンになっちゃあいかんぞ……なんてね」

「社長、仕事がアメリカンって、何のことですか?」

 谷が不思議そうにたずねると、原口はニンマリと得意そうな笑みを作り、答えた。

「ンー、谷君、またまた、よい突込みだね……ありがとう。アメリカンとはねー。アメリカンとはホラ、ブランデーとかに水を入れて薄くしたり、また薄い珈琲のことをアメリカンコーヒーっていうだろう。だから、岸谷君も金髪のアメリカンのナイスバディもいいが、それに見惚みとれて仕事の内容も薄くなっちゃあいかんぞ、という意味だよ。分かったかな? ンー、ちょっとハイブローだったかな?」

「イヤー、なるほど流石さすがは社長。今日は一段とえていますねー」

 すかさず谷が原口にすり寄り持ち上げた。今まで放心状態でいた筈の愛が、両手で机を思い切り叩き、文句を言い出した。顔は般若はんにゃ形相ぎょうそうに変わり、眼は吊り上がっている。

「なによー。何なのよー。金髪、金髪って、岸谷さんと私はもうすぐ結婚するのよ。何さ、私の岸谷さんに……元々岸谷さんは私のようなジャパニーズなとても奥ゆかしいしとやかな女性じゃないと駄目なのよ。ねー、岸谷さん?」

 愛は、岸谷の胸元に肩を当て、勝手に同意を求めてきて、原口と谷に睨みを効かせながら更に喋りまくった。

「あんなハンバーガーの臭いがプンプンする女なんか、絶対駄目よ。ねー、やっぱり岸谷さんは、私のようにサラッとした醤油の香りじゃないと駄目なのよねー。ねえ岸谷さん、岸谷さんもこの二人に何か言ってよ、ねえ……? って、まさか、もしかして岸谷さん、ハンバーガーが好きなの? まさかハンバーガー食べながらナニしたいワケ。それとも、まさかパンに岸谷さんのナニを挟んでケチャップとかマスタードをかけまくって……って、そういうプレイがしたいワケ? ねえ岸谷さん、何か言ってよ。ねえ、ちゃんと答えて。ねえ、ねえってばー」

 何を言っているのかまったく意味不明になってきた。

 怒りの矛先ほこさきをどこに向けていいのか判らず混乱して、仕舞いには岸谷の胸元にすがりつく有様だ。しかし本人としては真剣なようで目に涙を溜めて必死に訴えている。健気けなげである。見るからに痛々しい、乙女の純真ここに極まるってとこだろうか。



 岸谷は独り、自動販売機から紙コップに温かい珈琲が注がれるのを待って、手に取った。

 珈琲からゆっくりとたちのぼるやさしい香りに包まれる、ほっとするひと時であった。

 このビルは原口の自社ビルなのだが、営業部のある十七階と社長室の十八階、それにこの十七階と十八階を除き、十七階までは貸しビルとなっていて、この十八階のフロアーは多目的ホールが大小八室あって、主に会議室として使われている。更には二十階には和洋中のレストランが三つほどある建物だ。

 岸谷は、エレベーターのある所とは反対側の眺めのよい喫煙場に向かった。眼下に街の景色を見下ろせるガラス張りのスペースに喫煙所が設けられているところへ、岸谷は窓際に置かれた長椅子にゆったりと腰を下ろした。二日酔いの頭でどうにか、やっとこの場へと一時戦場と化した営業課から逃げてきたのである。

 珈琲以外何も入っていない、ブラックの珈琲の香りに安堵し、苦味の奥に微かにある甘味を楽しんだ。二日酔いと人々の喧騒けんそうに疲れた身体には、素直にみいる。

 岸谷は度々この場所に来る。そして、この椅子に腰掛け下界を覗く。目の前に広がる視界は大パノラマとまではいかないまでも、少し離れた処に公園があり、ぽつぽつと淡いピンクの色がやがて咲き乱れる桜の花の香りを感じさせてくれる。季節を忘れたうつつのこの世にも「もう春が近くまで来ているんだ」と岸谷は深いため息ともに呟いた。

 眺望に目をやっていたはずの岸谷の目は、いつしか一点に留まっていた。

「ああ、アイツまた叱られているよ。何でアイツ、いつもあんなに叱られているんだ。叱っているハゲの上司も、毎回まいかい大変だな」

 岸谷の視線は、向かいのビルの三階の中程にある小さなオフィスの、窓際のデスクを挟んで向かい合っている二人の男に注がれている。上司らしきハゲの年配の男が一方的に怒鳴っているように見える。

 岸谷がいるこのビルが建って三年の時が経つ。岸谷は建ったその頃から、この二人のこの光景をずっと見ていた。最初は何処にでもあるシーンだと思ってはいたが、今では気になって、いつしか岸谷は見るようになっていた。特に叱られている方の三十歳前後の男に興味が出てきているようだ。

 一言、岸谷は「もうそろそろ、この会社も俺がいなくてもいい頃なんだろうな……」と心にく。岸谷は冷め切った珈琲を一気に飲干し、紙コップを握り潰して、少し間をおき立ち上がった。そして、エレベーターへと向かった。

 十七階でエレベーターを降りると、向かいは営業課でガラスの自動ドアになっている。岸谷が前に立つとドアが開いた。なかではまだ騒ぎは収まっていなかったようだったが、岸谷の存在に連中の気がいっせいにドアの方へと向けられた。

 そして、時が止まったかのように沈黙が流れた。その間、岸谷は一人ひとりみんなを見渡し、一人ひとりの視線と衝突し合った。

 岸谷は、瞑想めいそうするようにゆっくりと目を閉じた。呼吸を深くし、それから、彼はくるりと背を向け、両手を胸元まで持ってきてパンッと軽く叩き音をて、目の前のエレベーターへと歩き出した。

 これで、今、この時まで付き合ってきた人々の記憶からは、もう岸谷の存在は永遠に消え去っただろう。

 そして、岸谷を乗せたエレベーターは、後ろ手にドアが閉まった。



       第2話 純真無垢な男、中井登場! に続く

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