第8話  猜疑

「成程。確かに摂津守殿は合戦場を往来し、その都度見事な武勲を立ててこられた。その苦労は並大抵ではございますまい。それに摂津守殿は猛々しい風貌と戦ぶりに似合わず何事にも細心に準備をせねばならぬ御方だとそれがしも承っておりまする。一度居城に戻り、英気を養おうとお考えになられたというのも頷けまする」

外交と財務に優れた利け者と名高い松井友閑が言った。村重の様子を見て、これならば謀反など起こす気力など到底あるまいと確信したのだろう。

「しばし御休息をとられよ。そして心身ともに充実出来たならば、また御忠勤に励まれるがよろしかろう。上様は慈悲深き御方故、摂津守殿の心身の疲れと、不覚を取らぬよう慎重を期している心構えを知れば、きっとお許しになられるでしょう。元々、荒木摂津が謀反を起こすなどあり得ぬ、何かの間違いだと申しておりましたからな」

「そうですな」

万見重元が美しい顔貌に興ざめを露わにして言った。彼もまた、村重は謀反を起こす気など無いと見切ったらしい。

「では、それがしらはこれにて……」

「いやいや」

明智光秀が場違いなほど弾んだ声で言った。

「確かに摂津殿が謀反を起こす気など毛頭ないのは確信致しました。だからといって、拙者らは子供の使いではござらぬ。ああそうですか、わかりましたと手ぶらで帰る訳には参りますまい」

「と、申しますと?」

松井友閑が訝し気に言った。お前は荒木の味方なのではないのかと言いたかったのだろう。

「起請文を差し出しまする」

村重もまた憤然として言った。

「起請文など何の意味もありますまい。拙者も貴殿も今まで散々上様の天下布武を阻む腐敗し驕った僧共の首を刎ね、仏閣にも火を放って参った身。神仏に誓い、約束を破った際は神仏の罰を受けるなどという文書如きに今さら縛られはすまい」

「……」

「ではいかがせよと?」

万見重元が形の良い眉をひそめながら言った。尊大な気性の若者であるが、彼も又光秀の得体の知れなさに心怯んでしまうらしい。

「摂津殿みずから安土に参られよ」

光秀は笑みを浮かべながら穏やかに言った。柔和そのものの表情であるはずだが、村重はそこに今まさに得物に牙を突き立てんとする餓虎のような剣呑さを感じた。

「上様に存分に釈明なさるとよい。その上で上様にあらぬ流言、讒言ざんげんを吹き込んだ曲者共と直接対決するが良いかも知れぬ」

「ふむ……」

万見重元と松井友閑は成程と頷いたが、荒木村重は凍り付いたように微動だにしない。

「これから先、おそらくこのようなことは繰り返されよう。特に摂津殿と似た立場のこの光秀のような者が狙われるのは容易に想像できる。いや、我が身のことはどうでもよいが、上様の天下統一事業に遅れや乱れが生じることは何としても阻止せねばならぬのだ」

「……」

「であるから、摂津殿に天下に示して欲しいのだ。例え本来は外様であっても、我らは私心なく上様の天下布武の悲願の為に全てを尽くしていると。真の忠義というものを解せぬ愚かな民草や佞臣共、それに邪な計略でもって上様に刃向かおうと企む敵勢力を黙らせるまたとない好機であると考えて欲しい」

「……」

「いや、御言葉ごもっとも」

松井友閑が膝を打ちながら言った。

「上様や世間の疑惑を完全に晴らすにはそれ以外にござるまい。それに確かに今後仕掛けられる調略を防ぐ効果も期待されよう。そうなされ、摂津守殿」

「そうですな、それがよろしいですな」

万見重元もまた艶然と微笑しながら言った。村重への反感を露わにしていたが、この表情から察するにノブナガに讒言を吹き込んでいたという訳ではないらしい。安土で村重と対決する場に立たせられることなく、事の行く末を興味深く見守ろうという魂胆なのだろう。

「……承知仕った」

村重は答えた。そう答える以外に選択肢が無いのは明白であった。


その夜、村重は眠れなかった。心身共に疲労の極みに達し、肉体は一刻も早い睡眠を欲しているのだが、昂った精神と神経がそれを許さないのである。

「光秀……」

村重の脳裏に明智光秀の日本人離れした彫りの深い顔立ち、精力的で艶やかでありながら、得体の知れない妖気が濃厚ににじみ出るような笑顔が鮮明に蘇り、消えようとしない。

「あ奴、わしを救うようなことを言っていたが、あの笑みの奥にわしの転落を、破滅を望む漆黒の悪意が秘められておった。わしは騙されぬぞ……」

村重にはノブナガに反旗を翻すつもりなど毛頭無かった。己を戦場から戦場へと休みなく駆り立て、容赦なく酷使するノブナガの峻厳な態度には怒りとやりきれなさを感じていたのも確かであるが、それ以上にそれ程までに見込まれ、高く評価されているのだという誇りと喜びが上回っていたのである。

であればこそ本願寺と毛利家から調略の手が伸び、執拗に内通を誘われても頑として跳ね除けていた。

三木城攻めを放棄し、己の居城に帰ったのもほんの一時の気の迷い、疲労の極みに達した故の混乱に過ぎなかった。

「上様ならば、きっとお許しになってくれる」

この時点では村重は楽観的に考えていた。本願寺からは仏敵、第六天の魔王の化身と憎悪され、根切り、撫で斬りも厭わぬ冷酷非情な殺戮者と恐れられるノブナガだが、実は身内やお気に入りの者には全く甘いというしかない面を持ち、また情理を尽くして説けば必ず聞き入れてくれる人物であることを村重は知っていた。

例えば今から二年前、羽柴秀吉は上杉家と戦う柴田勝家に救援を命じられながら作戦において勝家と決裂してしまったが故、無断で兵を撤収して帰還するという不祥事を起こした。

当然ノブナガは激怒し、羽柴に謹慎を命じたが、その後勝家が上杉に敗北することによって羽柴に理があったことを認めて許し、さらに羽柴が松永久秀討伐で手柄を立てると、中国攻めの司令官に抜擢さえしたのである。

「上様のわしへの信頼と寵愛は羽柴にも劣るものではない。誠心誠意謝罪し、手柄を立てて挽回すれば、きっと上様はわしを今以上に取り立ててくれるはずじゃ」

そのように考えていた村重の心に猜疑と恐怖という暗黒の水滴を注ぎ込んだのが光秀であった。

「上様の光秀に対する寵愛と信頼はただ事ではない。わしや羽柴へのそれとは比較にならぬ程だ」

確かに光秀の武将としての力量は卓越しており、その武勇、知略はノブナガその人にも匹敵するのではないかと思わせる程であった。

その上戦場から戦場へと休みなく飛び回りながら全く疲れを見せぬ異常と言うしかない頑健さ、精勤ぶり、ノブナガの意図を誰よりも早く正確に理解し、完璧に実現して見せるその精密な頭脳と器用さは尋常の物ではない。

ノブナガからすれば、己の分身のようにすら思え、家臣以上のかけがえのない存在なのかも知れない。だが……。

「あの男の本性は邪悪だ。残忍で狡猾極まりない。特に人を騙し、罠にかけることに無上の喜びを感じる天性の悪人だ。わしを救い、上様の天下布武を進める為と称して安土に呼び寄せ、そこで上様を欺いてわしを謀反人として始末させようと企んでいるのであろう。そうはいくか」

極度の疲労の為に消耗しきっていた村重の精神は、元々感じていた光秀の人柄への嫌悪と不信感、そして武将として己以上の力量を持ち、ノブナガから絶大な信頼を得ることへの嫉妬が極限まで膨張し、今にも破裂せんばかりであった。

そして遂にはそのような光秀を我が分身と頼むノブナガにも嫌悪と猜疑が向けられた。

「あのような男を信頼する上様はどうかしておる。何か人として欠けておるのではないか」

かつてはこの御仁こそ乱れに乱れた世を治める唯一の英主と見込み、この人が掲げる天下布武の為ならば身を粉にして働いても惜しくはないと誓った己が酷く愚かしく思えて来た。

「あの御方には所詮天下を統一する器量などありはせぬのではないか。松永久秀が背いたのもおそらくそう考えたからであろう。上様は必ず高転びにあお向けに転んで破滅すると。戦から戦へと休みなく働かされ、その上何も得ることなくただ上様の、信長の滅亡の道ずれになるだけなど、絶対にあってはならぬ」

村重の疲れ切り、光を失っていた双眸に再び熱が戻り始めた。それは生への、自由への渇望であった。

ただノブナガの意のままに働かねばならなかった昨日までの不甲斐なき己と決別し、真の自由を得、己の欲するままに戦い、そして生きたいという決意が勃然と湧き上がった。








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