第16話 広がる噂、集まる視線



「いらっしゃいませ」

朝一番の挨拶をする私の声が、いつもより緊張を帯びている。神様公認の店として迎える二日目の朝。昨日の貴族の来店以降、店の雰囲気が少しずつ変わり始めていた。


「美咲さん、パンの仕込みができました」

エマが厨房から報告する声に振り返ると、彼女の手には大きな粉の跡が付いていた。


「ありがとう。でも、その手は洗っておいた方がいいわね」

「あ、すみません」


エマが手を洗いに行く姿を見送りながら、私は昨日からの来客の変化を思い返していた。午後からは普段見かけない上品な服装のお客様が増え、中には料理を一口も食べずに店内の様子を観察するだけの人もいた。


そして今朝、開店前に届いたリリアーナからの二通目の手紙。

『今日は様子を見に行けません。王都からの使者と会談があるためです。気を付けて』


外の通りが賑やかになってきた。開店時間だ。


扉を開けると、すぐに客足が途切れることなく続いた。普段の常連さんたちに加えて、見慣れない顔ぶれが目立つ。特に目を引いたのは、上質な服を着た中年の女性だった。


「噂の神様公認の店、ここで間違いありませんね」

丁寧な言葉遣いの中に、どこか突き放したような冷たさがある。


「はい、ご来店ありがとうございます」

私が答えると、女性は品定めするような目つきで店内を見渡した。


「評判を聞いて参りました。神様の力が宿った特別な料理を」

「申し訳ありませんが、私たちの料理は一般的な料理と変わりません。ただ、心を込めて作らせていただいております」


その瞬間、女性の表情が曇った。

「そうですか。ではやはり、噂は誇張されていたようですね」


女性は踵を返し、店を出て行った。その背中には、明らかな失望の色が見える。


「美咲さん」

エマが心配そうに寄ってきた。

「あの方、何かおかしいです」


「ええ。でも、私たちは自分たちの料理を信じましょう」


昼過ぎ、さらに意外な来客があった。黒い外套に身を包んだ男性が、店の隅の席に座る。注文を取りに行くと、男性は小声で切り出した。


「特別なメニューがあると聞きました」

「特別なメニューとは?」

「神様の力を持つ料理です。いくらでも支払います」


私は一瞬言葉に詰まった。しかし、すぐに毅然とした態度で答えた。

「申し訳ありません。そのような料理はご用意できません。当店の通常メニューでよろしければ」


「そうか」

男性は立ち上がり、店を出て行った。外で何かを書き留めている姿が見えた。


その日の夕方、ヴィルヘルムが来店した。いつもの研究者然とした様子ではなく、深刻な表情を浮かべている。


「困ったことになりましたね」

席に着くなり、ヴィルヘルムは切り出した。

「貴族たちの間で、この店の噂が広がっています。そして、闇市場でも」


「闇市場で?」

エマが驚いた声を上げる。


「ええ。神様の力を持つ料理が売られているという噂です。もちろん、偽物ですがね」


ヴィルヘルムは一息つき、声を落として続けた。

「実は、王都では深刻な政争が始まっています。そして、その中であなたたちの店が注目を集めているのです」


「政争?私たちの小さな店が、どうして」

「それは...」


その時、店の外で物音がした。ヴィルヘルムはすぐに表情を変え、普段の調子に戻った。


「やはり、本日のスープは絶品ですな」

大きな声で言いながら、彼はさりげなく紙片を私に渡す。


夜、閉店後の掃除を終えた頃、その紙片を開いて読んだ。


『エマの素性を探る者たちが、王都の上層部にもいます。そして、彼女の出生と、50年前の疫病には何らかの関係があるようです』


私は思わず、厨房で後片付けをするエマを見た。彼女は何も知らずに、いつもの穏やかな笑顔を浮かべている。


その時、店の裏口から物音がした。急いで確認に行くと、路地に人影が見えた。追いかけようとした時、足元に一枚の紙が落ちていた。


それは古びた出生記録のような書類だった。エマの名前と、50年前の日付が記されている。しかし、肝心の部分は破り取られていた。


「美咲さん、何かありましたか?」

エマが心配そうに声をかけてきた。


「いいえ、なんでもないわ」

私は微笑みながら答えた。しかし、胸の内は複雑な思いで満ちていた。


エマを守りながら、この店を守っていく。それが今の私にできる唯一のことだ。


夜空を見上げると、月が雲に隠れていた。まるで、これから起こる出来事を暗示するかのように。


手元の書類を見つめ直す。50年前の日付。エマの名前。そして、かすかに残る「王立」の文字。これは、いったい何を意味しているのだろう。


明日からは、さらに油断のできない日々が始まる予感がした。しかし、料理人として、私たちにできることは決まっている。


ただ、真心を込めて料理を作り続けること。それだけが、私たちの進むべき道なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る