3日目 第5話 私のシャンプー、君の髪
寮の夜は静かで、窓の外には夏の名残を感じさせる涼やかな風が吹いていた。寮の門限を過ぎると、廊下を歩く人の気配も少なくなり、部屋の中では、ページをめくる音や筆記用具が紙をなぞる音がかすかに響く程度だった。
綾香と花音は、机に並んで腰掛け、それぞれの勉強に集中していた。
綾香の部屋のデスクには、教科書やノートが広げられていた。花音は数学の問題集を開きながら、隣に座る綾香と一緒に勉強している。綾香はペンを持ち、花音のノートを覗き込みながら、解き方を説明していた。
「この問題、ここの公式を使えば簡単に解けるよ」
さらさらとノートに数式を書きながら、綾香が言う。花音は真剣な顔でそれを見つめ、何度か頷いた。
「あっ、なるほど……分かりました! 最初の計算ミスってました」
「でしょ? ここを間違えなければ、あとは楽勝だよ」
綾香は得意げに微笑んで、自分の問題集に目を戻した。ふたりはしばらくの間、勉強に集中する。部屋の中には、ページをめくる音と、ペンがノートを走る音だけが響いていた。
「綾香先輩って、やっぱりすごいですね。何でもできて……勉強も運動も得意だし、みんなに優しくて」
「そんなことないよ」綾香は苦笑した。「私も昔は苦手だったし、なお姉が教えてくれなかったら、こんなにできるようにならなかったと思う」
「奈央さん?」
「うん、そう」
花音は思い出すように頷く。昼間の奈央の落ち着いた笑顔を思い浮かべた。
「なお姉はね、昔からすごくしっかりしてて、何をやっても完璧なの。勉強もできるし、運動もそこそこできて、優しくて……いつも周りのことを考えてる人だったんだ」
綾香の声には、少し憧れを滲ませた響きがあった。
「だから、私も姉みたいになりたくて、いろいろ頑張ってきたんだけど……なかなか同じようにはなれなくてね」
「そんなこと……綾香先輩もすごく素敵だと思います」
花音がまっすぐにそう言うと、綾香は少し照れたように笑った。
「ありがと。でも、私からすると、なお姉はずっと憧れの存在なんだよね」
そう言いながら、綾香はふと明日の予定を思い出した。
「明日、モデルやるんだった……」
「そういえば、そんな話してましたね」
花音がペンを止め、興味深げに顔を上げた。
「モデルって……写真撮影するんですか?」
「うん。なお姉が勤めてる会社の企画なんだけど、なんか人手が足りなくて……それで、前に頼まれたのを、すっかり忘れてて」
綾香は困ったように肩をすくめた。
「でも、モデルなんて初めてだし……私で大丈夫なのかな」
「綾香先輩なら、きっとすごく綺麗に似合うと思いますよ」
花音の言葉に、綾香は照れくさそうに頬をかいた。
「それに……私も行くことになっちゃいましたし」
「そうだったね。花音が一緒なら、ちょっと心強いかも」
綾香は優しく微笑んだ。そして、ふと顔を寄せると、何かを確かめるように花音の髪の香りを嗅いだ。
「……あれ?」
綾香は目を丸くする。
「ん? どうしました?」
「……花音から、私のシャンプーの香りがする」
「えっ!」
花音は慌てて身を引こうとしたが、綾香はじっと花音を見つめている。
「もしかして、私のシャンプー使った?」
「……すみません。ちょっとだけ借りました……」
花音は申し訳なさそうに目を伏せた。
「お風呂場に持っていくの忘れちゃって…… 綾香先輩のがあったから、ちょっとだけ……」
綾香は一瞬驚いた表情を浮かべたが、次の瞬間、クスクスと笑い出した。
「もう、そんなことなら言ってくれればよかったのに」
「だ、だって、勝手に使うのはちょっと……」
花音がもじもじしていると、綾香はおかしそうに笑いながら、花音の髪に手を伸ばし、軽く指で梳いた。
「でも、勝手に使った罰として……」
綾香はいたずらっぽく笑うと、いきなり花音の髪をくしゃくしゃっと撫で回した。
「わ、ちょっ、綾香先輩、やめてください! 髪がぐしゃぐしゃに……!」
「いいじゃん、私のシャンプー使ったんだし、もう私のものみたいなもんでしょ?」
「そ、そんな理屈あります!?」
花音は慌ててウィッグを直そうとするが、綾香はお構いなしに、さらにくしゃくしゃと撫でる。
「うわーん!」
花音が半泣きになったところで、ようやく綾香は手を離した。
「ふふ、でも悪くないね。私の香りがする花音って」
「ちょ、ちょっと綾香先輩!?」
「冗談だってば」
綾香は笑いながら、花音の頭をぽんぽんと軽く叩きながらウィッグを整えてあげる。
「……はい」
花音は少し恥ずかしそうに頷いた。
時計を見ると、そろそろ寝る時間だった。綾香は軽く伸びをして、ノートを閉じる。
「さて、そろそろ寝ようか。明日は忙しいしね」
「そうですね」
二人は勉強道具を片付け、ベッドに入る準備を始める。
「……それにしても、本当に同じシャンプーの香りがするの、なんだか変な感じ」
綾香は布団に入りながら、もう一度クスクスと笑った。
「気にしないでください……」
布団をかぶりながら、花音も小さく笑った。
こうして、二人は同じ香りを纏いながら、静かに夜を迎えた。
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