15 プロローグ:飛び上がれ


 異形と、異形を吹き飛ばした何かが地面に落ちた次の瞬間、草木の影から緑色の何かが飛び出しました。

 緑色の何か……いえ、誰かは、両手に握った黒い杖のようなものを腰に構え、異形の消えた草むらに向けて走り出しました。


「はああっ!!」


 起き上がり、顔を出した異形の顎に向けて、黒い杖が振り上げられました。

 杖に顎を打たれた異形は、子犬のような悲鳴を上げながら飛び、さらに奥の草むらへと消えました。


 突然のことに呆然としていた私の前に、緑色の、フード付きのコートを身に付けた、長身の女性が駆け寄って来ました。


「あなた大丈夫?怪我は無い?」

「えっ?……あっ……」


 金色の瞳に、サラサラの金髪、一目見て美しいと断言できるほど整った顔。

 お母さん以外とあまり喋った事の無かった私は、言葉に詰まってしまいました。


 大丈夫です。

 その言葉が出る前に、女性の背後の茂みが、微かに揺れたのが見えました。


「後ろ!」


 嫌な予感がした私は、茂みを指差しながら叫びました。

 ですが、私が叫ぶ前に、女性は振り返っていました。


「私に従い……」『グルアアアァ!!』


 女性が何か呟くと同時に、茂みの中から、先程打たれた下顎をだらりと下げた異形が飛び出して来ました。

 どうやら、残った上顎と前足で女性に襲い掛かるつもりのようでした。


 下顎が垂れ下がっているとは言え、変形した上顎は長く、鋭い牙も生えていました。

 前足は普通ですが、、前足でした。

 爪は鋭く、飛び掛かられればただでは済まないはずでした。


 実際、直後に異形は跳躍しました。

 異形の口は長く、跳躍は女性の身長ほど高いものでした。

 女性は杖を構えていましたが、構えた杖は下を向いていました。

 それでは、打ち上げることは出来ても、打ち落とす事はできません。

 例え、杖で異形の上顎を打ち上げようとしても、そのまま組み付かれてしまいそうでした。


 私は足の痛みを忘れ、間に合わないと思いつつも、無理矢理立ち上がろうとして、気付きました。

 女性の杖は、異形に向けて構えられていたわけではありませんでした。

 杖の先、女性の視線の先は、異形を吹き飛ばした何かが落ちた場所でした。


「飛び上がれ!!」


 女性はそう叫んだ瞬間、杖を大きく振り上げました。

 杖は異形の口先をかすめ、そのまま通り過ぎたかのように見えました。

 いえ、実際に通り過ぎたのです。


『ゴアッ!!』


 だと言うのに、異形はまるで何かに突き上げられたかのように身体をのけぞらせました。

 身体をのけぞらせた瞬間、異形の腹あたりから何かが飛び上がるのが見えました。

 私は、ひっくり返った異形から、飛び上がった何かの方に視線を移しました。


 それは、薄暗い森の中に浮いていました。

 それは、私が視界を移した時、ちょうど上昇を止め、落ちようとしているところでした。

 木々の間から差す、微かな光がそれを照らしました。

 それは、私の顔ほどある、ただの大きな石でした。


「そして、落ちろ」


 その声が聞こえた瞬間、大きな石は落ちました。

 前の瞬間まで、上昇していたとは思えないほど唐突に。

 まるで、先ほどからずっと、深い谷の底へと落ち続けていたかのような速さで。

 大きな石は、異形の腹へと落ちました。


 異形は少しだけ痙攣すると、断末魔すら上げずに、動かなくなりました。

 私はただ呆然と、それを眺めていました。


「……ふぅ、ごめんなさい。少しだけ、目を閉じていてもらえる?」


 少しすると、女性はこちらを向いてそう言いました。

 私は少し困惑しましたが、すぐに首を縦に振り、言われた通りにしました。


 直後、微かに聞こえたのは、肉の絶たれるような音。

 私は一瞬恐怖を覚えましたが、すぐに聞き覚えのある音だと気付きました。


 お母さんが狩りから帰ってきた時、必ず見るように言われていた獣の解体。

 私はいつも嫌がっていましたが、いつもは優しいお母さんもその時だけは厳しく、決して目を逸らさないようにと言っていました。


 その時私は、あれは将来生きていくために、必要なことだったのだと理解しました。

 将来、私が獣を狩り、一人で生きていくための練習だったのだと。


 ですが、当時の私はまだまだ未熟でした。

 狩りに連れて行ってもらった事はありましたが、小動物一匹すら狩れたことはありませんでした。

 もし、お母さんが目覚めなければ、私はどうすればいいのでしょうか?

 もし、このまま一人で生きて行くことになれば……


「おまたせ……って、あなた、本当に大丈夫?」

「えっ?」


 沈んでいく思考を止め、目を開くと、滲んだ視界に女性の姿が見えました。

 慌てて目を擦りますが、それでも視界は滲んだままでした。


「ああ……」


 私はようやく気付きました。

 助かった。

 あの絶望的な状況から助けてくれた。

 視界の滲みは……止まらない涙は、安堵感から来るものだったのでしょうか。


「あ……ありがとうございます……っ」


 確かに、それもあったでしょう。

 しかし、理由はもう一つありました。


 異形から必死に逃れ、助けてもらった。

 ですがもう、帰り道も、キャンプへ行く道もわかりませんでした。


 それに、私はキャンプへ行く事ばかりに気を取られ、お金も忘れてしまっていました。

 報酬無しで一体誰があんな森の中まで来てくれると言うのでしょう。

 その時の私では、お母さんのためにお医者さんを呼んでくることすら、出来なかったのです。


 女性にちゃんと感謝を伝えるべきだとは分かっていましたが、流れる涙を拭って止めようとはしていましたが、それでも、どうしようもない事実に気付いてしまった私は、ただ俯いて、泣き続けることしか出来ませんでした。

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