第46話──覚醒の胎動──心の殻を溶かす涙の雫
夜の恐怖の宴を越え、新しい朝が訪れた。
滝壺の修行場には、朝露と轟く水音だけが満ちている。
清涼な空気の中に佇む凛の心は、昨日までとは違う何かを秘めていた。
──それは、後に彼女の運命を揺るがす「覚醒の始まり」となる。
凛は小さく息を吸い込み、ふと辺りを見渡す。
「あら、今日はあの二人来てないわね。いっつも朝早くてうるさいのに、珍しいわ」
彼女の声はどこか伸びやかで、晴れやかですらあった。
だが、彼女は知らなかった。
スカイゼルとラヴィが昨夜の惨劇で夕飯にありつけず、空腹と疲労に沈んでいたことを。
彼らが来られないのは当然のことなのに──凛の頭の中では、そんな事は一切考慮されない。
「でも....静かで落ち着くわ。なんだか今日は、風と心が向き合えそう」
心地よさそうに目を細める凛の姿は、空気を読めないというより、周囲の喧噪を超越して自分の世界に没頭する天才そのものだった。
──凛はあのひのことを思い返していた。
森の中で寝転び、木々の隙間から伸ばした掌に太陽の光を受け止めた瞬間。
その刹那、胸の奥で何かが変わった感覚を。
まだ形を持たない、朧げな感覚。
けれど確かに、そこには「揺るぎない意志」のようなものが芽生えていた。
(私は、何のために、誰のために生きているのだろう?)
問いは自然と湧き上がった。
この世界では「高円寺家」の家名も、後継者争いも、兄の影も関係ない。
ただ、「高円寺 凛」という一人の人間として、ありのままの自分を晒すことができる。
その自由が、これほど嬉しくて尊いことだとは思いもしなかった。
そして、心の奥底では、セレスティアの穏やかな微笑みに亡き母の面影を重ねていたのかもしれない。彼女の存在に触れるたび、張り詰めていた心が少しずつほどけていく。
凛の胸に、抑えきれぬ衝動が芽吹いていた。
──自分自身のために、何かを成し遂げたい。
それは、家名や義務のためではなく、ただ純粋な好奇心と可能性への渇望。
そして、この世界に息づく”魔法”という概念が、彼女の心を奪った。
ふと、心の奥底から声が返ってきた。
「凛、あなたは、ありのままでいいのよ.....」
その声は幻聴のように淡く、けれど確かに胸を貫いた。
不思議な温かさに包まれ、長く重く纏わりついた鎖がほどけていく。
その瞬間、世界のすべてが一瞬止まったように感じられた。
──風の揺らぎが見える。
──空を渡る気流の螺旋が、耳朶をうつ。
──森を駆け抜ける風の走りが、肌の奥へと染み込んでいく。
──そしてその時、彼女は確かに感じた。魔法の根源──”魔素”の息吹が、世界で脈打っていることを。
すべての流れが、凛の感覚に染み渡った。
彼女はゆっくりと右手を差し伸べ、小さく呟く。
「......風よ、集まれ」
それは意識して絞り出した言葉でもなかった。
家柄の重圧も、師の期待に応えねばならないという焦りもない。
ただ、風に話しかけるように自然に零れ落ちた言葉だった。
次の瞬間。
掌に渦を巻く風が収束し、淡い光を帯びた球体──
それはセレスティアが示したあの形。
まだ共鳴を宿した特異な術ではなく、正真正銘、教えをなぞった純粋は
凛の胸に喜びが弾けた。
「.....私にも、できた.....! セレスティア様と同じスフィアが.....」
囁いた声は震えていた。
そう呟いた瞬間、頬を伝う温かな雫に気づく。
それは、涙だった。
自分でも驚くほど大粒で、熱を持ち、止めどなく零れ落ちていく。
(これが.....私.....)
その時、彼女の中で何かが確かに変わった。
凛はゆっくりと空を仰ぐ。
眩しい朝日が視界を白く染める。
指の隙間から差し込む光の筋は、まるで未来への道標のように感じられた。
「私は.....私の意志で、ここに立っている」
胸の奥で強く、確かに刻まれる。
──未来は、自分自身の意志で掴み取ることができると。
彼女はそう確信した。
その姿は、まだ誰も気づいていない。
やがて世界を揺るがす覚醒の胎動を秘めた少女の、最初の一歩であった。
凛は、掌に宿るスフィアを見つめたまま、胸の奥で何かがざわめくのを感じていた。
それは鼓動のように規則的でありながら、今まで一度も聞いたことのない”何か”だった。
──その時、不意に耳元で囁くような声が響いた。
「へぇ.....君っておもしろいね」
まるで風に紛れて届いたかのような、小さく、可憐な少女の声。
だが、凛にははっきりと、それが”外から”ではなく、”内から”聞こえたことが分かった。
(.....誰?)
風のざわめきの中で、もう一度、かすかに聞こえた。
「その名、覚えておくね──凛」
思わず心の中で聞き返す。
けれど返事はない。ただ、そよ風が草を揺らし、滝音が変わらぬ轟を響かせるだけ。
──けれど、凛には分かっていた。
この”感覚”は気のせいでも幻聴でもなかった。
凛は静かに瞳を閉じた。
心を研ぎ澄ませ、余計なものを削ぎ落としていく。
名も、家柄も、義務も、名誉も、焦燥も──すべてを一度、置いていく。
そして、自分に問いかける。
(私が、本当に欲しかったものは、……何?)
答えは、胸の奥で瞬いた。
──強さが欲しい。ただ、誰かの影を追うのではなく、自分の足で立つために。
──力が欲しい。ただ、誇示するためではなく、誰かを守るために。
──そして、私は風と共にありたい。自分の意志で飛び立ちたい。
その瞬間──世界が変わった。
ふぅっと、と身体が軽くなる。
空気が彼女を包み込み、風が肌に溶け、血に馴染み、魂と交わっていくのがわかる。
まるで、自分の身体が、大気に融けるような感覚。
重力の制約が緩み、音が遠ざかり、すべての要素が風と共に共鳴を始めた。
そして、
青白い光が脈打ち、空気を震わせながら展開する。
凛の身体を中心に、風が渦を巻く。
それは単なる気流ではなかった。
意志をもった”風の衣”が、彼女の身に集まってくる。
「……これが、エアレギオン……?」
名を呼んだとたん、
風が全身を覆う透明な
──風の装甲、
凛は、風と一体になっていた。
地から足が離れ、ふわりと宙へ浮かび上がる。
滝の飛沫が周囲を舞い、朝陽が光を乱反射する中──
その姿は、まるで”風の巫女”のようであった。
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