第39話──異世界の不思議な白兎

双神流の修行場。


風を操る修行の日々は、容赦なく凛を追い込んでいた。


セレスティアの課題──風球を自在に操る修練は、想像以上に骨が折れる。


森の中を駆け抜ける風すら刃のように鋭く、凛は額に滲む汗をぬぐい、歯を食いしばる。


「ふぅ……はぁ……もう一度!」


気合いを込めた声が木立に反響した、その瞬間──。


「おお、やっとお会いできました、我が王よ!」


場違いに張り上げられた声が、朝靄の森の静けさを切り裂いた。


凛とスカイゼルが振り返ると、木々の間から燕尾服姿の影が滑り込む。


背筋を伸ばし、深紅の蝶ネクタイを正す。


白銀の毛並み、前へ折れ曲がった長い兎耳。


切れ長の赤い瞳はモノクルの奥で赤く光り、片手には黒傘、懐には懐中時計。


──まるで「不思議の国」の挿絵から抜け出したような兎人族。


彼の名は、ラヴィ・フェルディナンド。


恭しく片膝をつき、胸に手を当てて深々と頭を垂れた。


「このラヴィ、サレム連邦より只今戻りました!


偉大なる王に仕える喜びを、片時も忘れたことはございません!」


芝居がかった大仰な言葉に、スカイゼルはこめかみに手を当て、深いため息をついた。


「お……お前なぁ。あと一週間は休暇をやっただろうが。」



「休暇? もったいなきお言葉!


王に仕えることこそ、我が存在理由。用が済んだ以上、最短で戻るのは当然でございます!」


鬱陶しいまでの忠義に、スカイゼルの眉間はますます険しくなる。


「だから“王”って呼ぶな。俺は王じゃねぇし、そんなものに興味もない。」


「いずれノーザンストームを納める御方。

“王”とお呼びするに何の差し支えがありましょうか!」


「……わかった、わかったから。だが“王”はやめろ。」


ラヴィは一瞬たじろいだが、すぐに顔を上げ直す。


「承知しました。では──“君主様”と!」


「……まぁ、それならまだマシか。」


しぶしぶ頷くスカイゼル。しかし横で聞いていた凛が、すかさず口を挟む。


「何が違うのよ。王でも君主でも、大して変わらないじゃない。」


「令嬢殿! その軽口は許されませんぞ!」


ラヴィの耳がピンと立ち、声に怒気がこもる。


凛は腕を組み、ふっと口角を上げた。


「許されない? じゃあ次は──奥方扱いでもするつもり?」


「ま、まさか! 君主様に言い寄る尻軽など、相応しくありません!


そのお隣に立つなど、僭越至極!」


「なっ……誰が尻軽ですってぇ!? この白バカ兎!」


凛の眉間がピクリと跳ね、空気がピリつく。


ラヴィは耳を逆立て、怒気を孕んだ声を放つ。


「き、きさま……娘如きが“君主様”と対等に口を利くなど……万死に値する!

ただちに粛清を──!」


耳を逆立てるラヴィ。慌ててスカイゼルが二人の間に割って入った。


「待てラヴィ! 嬢ちゃんは俺の兄弟弟子だ。ちょっと生意気だが、筋は悪くねぇ。」


「な、なんと……お認めに? この細腕の娘を……?」


ラヴィの赤い瞳が大きく見開かれる。


「そ、それでは……あのセレスティア様とバラグス様、双神流の両師までもが、この者を弟子と認めたと……?


恐れながら、何かの間違いではございませんか!」


凛は挑発的に腕を組み、ふんと鼻で笑う。


「間違いじゃないわよ。現にこうして同じ修行場にいるんだから。」


ラヴィはなお疑わしげに目を細め──さらに余計な一言を重ねた。


「まさか……色仕掛けや幻術の類で、お二人ならずスカイゼル様まで誑かしたのでは……?」


そう言うと彼は、凛の全身を足先から頭のてっぺんまで、学者のように冷静に観察した。


そして、講義のように淡々と結論を並べる。


「……まずは白銀がかった髪色。光の移ろいによって微妙に表情を変える、美しい特徴です。


それに、磨き上げた宝玉のような碧眼──一度視線を合わせれば誰もが心を奪われるでしょう。


立ち居振る舞いにも、良家の教育を受けた痕跡がはっきりと見て取れる。」


そこでわざとらしく間を置き、視線を胸元へ落とす。


「ただし……全体のシルエットは繊細に過ぎ、曲線の豊かさに欠ける。


特に胸元は控えめで、武人としての迫力や女性的な威圧感に欠けるのは否めませんな。


これでは──殿方を魅了することは到底敵いません。」


その一言は、凛の奥底に眠るコンプレックスを鋭く抉った。

(……控えめ、ですって? よりによってその言葉……!)


凛の頬が一気に紅潮し、こめかみがピクリと跳ねる。


激情が堰を切ったように爆発した。


「な、何ですってぇ!? “控えめ”ですって!? 言わせておけば、このエロ兎──!」


「エ、エロ兎とはこれまた、品のないお言葉。ですが、図星でしたか? ふふっ、恐れながら君主様に相応しいのは──」


「ラヴィ、これ以上、嬢ちゃんを刺激するんじゃねぇ! 嬢ちゃんも、頼むから本気に取り合わないでくれよ!」


スカイゼルが怒鳴り、二人の間に割って入る。その顔には焦りと苦笑が入り混じっていた。


しかし心の奥では──ふと別の記憶がよぎる。


──セレスティアの修行を受ける条件。


『孫娘として扱うこと』


そして凛が見せた、あの一瞬の微笑み。


『はい、私でよければ……全力でお応えいたします』


色仕掛けではない。だが、あの表情は確かに心に残っていた。

(……俺まで何考えてやがる!)


スカイゼルは頭を振って雑念を振り払い、二人を睨みつける。


凛はふいに顔を上げ、きっぱりと言い放つ。


「……私、この白兎、嫌いっ!」


長耳がピクリと震え、ラヴィの赤い瞳が細められる。


「いいでしょう……いずれ、化けの皮を剥いで差し上げましょう。」


森に冷たい風が吹き抜ける。


不毛な舌戦──その収拾をつけるのは、結局スカイゼルの苦労人じみた嘆息だけであった。


(──これがまた、面倒くさい仲間の始まりである。)

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