第36話──紅の瞳、叡智を貪る──

中央魔導書庫・深層。


無限演算環の光が収束し、静寂が戻る。


海はオメガフレームをかけ直し、Δ|eltaのインターフェースを起動した。


静謐な空気が漂い、灯火に照らされた書架が果てしなく連なっていた。


無数の背表紙が並ぶ光景は、まるで知の大海そのものだった。


海はその海原を見渡し、ぽつりと呟いた。


「さてと……この書庫、全部で何冊くらいあるんだろ?」


特に答えを求めたわけではない。


だが――Δ《デルタ》の無機質な声が即座に返る。


「本庫の総収蔵数――47,823,991冊」


海は思わず声を上げた。


「……えっ? 四千七百八十二万冊!? ちょっと待て、これ……日本の国立図書館より多いじゃないか!」


背筋に冷たいものが走る。

(そりゃ、一生かけても読み切れるわけがない……)


その瞬間、オメガフレームのHUDに計測パネルが展開され、薄青の光子文字が流れ出す。


Δ|eltaの声は、いつもの無機質さで淡々と告げた。


【統計レポート/書庫スキャン】

総収蔵数:47,823,991冊

Δ|elta開発前に読了(確定):477冊

読破率(開発前):0.0009%

今回の全読破所要:302,399.847秒(≒おおよそ三日半)

実測平均スループット:0.338冊/秒 ≒ 20.3冊/分 ≒ 1,218冊/時


「……四百七十七……あの時の“学習データパック”の数……」

フィリアが小さく息を呑む。


Δ|eltaは続けた。


「補足――Ω-Frame単独での演算はオントロジー統合が O(n²) 構造に膨張し、索引更新と重複排除がボトルネック化。


 Δ|elta導入後は語彙統制・術式系統の階層化によって O(n log n) に削減。並列処理とプリフェッチにより律速を緩和――」


「ちょ、待って! 難しいすぎるよ! 僕にもわかるようにもっと、噛み砕いて説明して!」


海が両手を振って遮る。


「ええっと……O? なんですの?」

フィリアも困惑顔で首を傾げている。


一瞬の沈黙。-------------


Δ|eltaは同じ無表情な声で、今度は別の説明に切り替えた。

「簡潔に――Ω-Frameだけでは“数十年”かかる処理が、Δ|eltaと協調することで“3日半”に短縮されました」


「それでいいんだよ!」


海は額を押さえながら嘆息した。

「みっ、3日半で!」


Δ|eltaは同じ無表情な声で淡々と続ける。

【スループット比較】

Ω-Frame単独:およそ 350冊/時

Ω+Δ 協調:1,218冊/時

→ 実効速度は 約3.5倍

→ 瞬間的には 10倍近い処理 も可能


フィリアは画面と海の横顔を交互に見た。

「“3日半”で読み終えた、という事実の裏で……信じられませんわ……」


Δ|eltaは感情のない声で、なおも整理する。


「要約:

開発前の到達率=0.0009%(477/47,823,991)

開発後の全読破=100%/三日半

改善の本質は“読む速さ”ではなく、知識を繋ぎ合わせる処理を大幅に短縮したことにあります」


海は小さく笑って、HUDを指先で払った。

「読むだけじゃ意味がない。“繋がって”初めて武器になる知識だ――ってことか」


灯火が揺れ、はるかな書架の影が長く伸びる。


圧倒的な数字は、静けさの底でなお淡く明滅を続けていた。


「えぇ……たったこれだけの時間で?」


フィリアが思わず目を見張った。


「シャルロット様ですら一生を費やしても到底終えられない量を……3日半で……」


海は苦笑し、頬をかいた。


「数字で出されると、なんか余計に現実味がなくなるな」


Δ|eltaが淡々と告げた。


「本庫の総収蔵数、十万二千三百四十七冊。推定読破時間を算出します」


数秒の演算――。


「読破に要する推定時間――302,399.847秒」


「……うん、秒単位で言われてもピンと来ないな」海が苦笑する。


「換算結果――おおよそ3日半と推測されます」


「さ、3日半!? な、何を仰っているのですか!」


フィリアが思わず声を上げ、口元を押さえた。


「一冊に数十年を費やす学者も珍しくありませんのに……シャルロット様のような叡

智を積み重ねた長寿種ですら、一生をかけても読み終えることは困難。

 それを……3日半……?」


海は軽く肩をすくめ、茶目っ気を込めて笑った。


「じゃあ、試してみようか」


――その瞬間。


棚に眠る魔導書の一冊が、ふわりと浮かび上がる。


ページが風にめくられるのではなく、紙片が光の糸へとほどけていく。


インクが霧散し、数式や符号の波紋となって空間に広がり――それがすべて、海の紅い瞳に吸い込まれていった。


【識字解析:完了】

【知識圧縮率:97.8%】

【転送――成功】

Δ|eltaの無機質なアナウンスと同時に、次の書が宙へと舞い上がる。


数百、数千――やがて数万の本が、まるで群れを成す鳥のように空を飛び、光の糸となって彼の周囲に渦を描いた。


「……っ……!」

フィリアは言葉を失った。


目の前で、図書館そのものが巨大な天球儀のように回転し、知識の星々が彼へと降り注いでいる。


それは“読書”ではなかった。

――まるで世界の理そのものを飲み干しているかのよう。


時間の感覚はすぐに失われた。

「残存冊数――二千九百万」

「残存冊数――千四百万」

「残存冊数――六百二十万」

「残存冊数――百三十万」

「残存冊数――五万三千」


3日目の夜。


フィリアは机に突っ伏し、朦朧もうろうとした目で彼を見つめた。


「か、海……まさか本当に……」


「うん。あと少し。終わったら、一緒に休もう」


――そして、3日半後。


Δ|eltaが静かに告げる。


「全冊読破完了。叡智の統合データベース――構築終了」


海は深く息を吐き、目を閉じる。


頭の中には、この世界に存在するすべての知識が走査済みとして並んでいた。

フィリアは膝を抱え、震える声で呟く。


「……にわかには信じられません。ですが……目の前で……確かに成し遂げられた。


シャルロット様でさえ一生を費やされるであろう書庫を……3日半で……」


海は頬をかきながら、気まずそうに笑った。


「やりすぎた、かな」


だがその瞳は、確かに光を帯びていた。


「でも……これでようやく、スタート地点に立てた気がするんだ」


フィリアはその横顔を見つめ、強く心を打たれた。

――世界の理を軽々と踏み越える人。

――それでも、ただ恐れるのではなく、眩しさに惹かれてしまう人。


書庫の薄明かりが海の紅の瞳を映し出す。


その光はまるで星々を宿したかのように揺らめき、天井の魔導灯すら霞ませていた。


鼓動が胸の奥で波打ち、指先が微かに震える。


恐怖とも畏敬ともつかぬ感情が渦を巻き――気づけば視線を外せなかった。


彼女は胸に手を当て、ひと呼吸おいてそっと微笑んだ。


「……やはり、規格外ですわ。海様」


その声は囁きにも似て、しかし確かな震えと感嘆を含んでいた。


まるで大いなる存在を前にした巫女のように、彼女はただ、その背に言葉を捧げていた。









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