地雷拳

電楽サロン

ミスターカンフーデスマッチ〈1〉

 診察室の天井には採光窓がはめられていた。薄い病院着に光が差す。満月を眺めながら、如月姫華は相手の反応を待つ。

「すばらしいですね」

 しばらくして医者は言った。張り付いたような笑顔は、童話の月を思い出した。

 頭のレントゲンには弾丸が写っていた。

「どこまで覚えていますか?」

 姫華は順を追って話す。ホストクラブで遊んだこと。帰り道で銃口を向けられたこと。

「誰が銃を?」

「あ……」

 訴えようにも声が出なくなっていた。妙な感覚だった。喉が詰まっているわけではない。呼吸音だけが室内に響いた。

《……待って》

 ザラザラとしたノイズの後、頭の中に吐息混じりの声がした。忘れるはずもない、姉の声だった。さらに動揺する姫華を医者が心配そうに覗きこむ。

「すこし、安静にしましょうか」

 医者は安心させようとしてるのか、噛み含めるように話した。

 白衣の腕が姫華を押さえつけた。医者は注射器を取り出す。寒々しい液体の青に、姫華は戦慄する。

《奥歯を噛むの》

 注射針が皮膚に潜りこむ。液体が押し出される前に、姫華は覚悟を決めた。

 奥歯が噛み合わさる。視界がぼやけ、何かが乗り込む。

  両足が意識に反して垂直に身体を起こす。姫華は医者を見下ろしていた。

《やりなさい》

 疑問を持つ前に、右腕が引かれて医者に狙いを定める。そのまま腰を捻り、正拳突きをぶち当てた。

 医者の顔がべろりとめくれあがった。骨と肉があるべき中から板金とコードが露わになる。

 姫華は拳をまじまじと見た。拳の皮が剥がれ、血が滲んでいた。

《これがカラテチップの力……》

「……カラテ?」

「あなたは私のカラテで覇金はがねグループを倒すの」

「覇金グループ!?」

 YouTubeでもSNSでも広告で見ない日はない。成金じみた派手な社長が有名だった。社是があったはず……そう、「超人たれ」だ。芸人の司会者がネタにする切り抜き動画を見たことがあった。

 そこで思考は途切れた。

《私は覇金の研究者だった》

 聞き返す前に、姫華は身体を引いた。びゅんと足刀が鼻先を掠める。

「その弾丸。如月博士の遺物だな」

 医者──白衣の機械男が半身に構えた。

「俺はHG-16。マローダー。ハガネシリーズのパワーアップのため、貴様には死んでもらう」

《奴等は私の技術を盗み、暗殺部隊を造った》

「チップを渡せ!」

 機械男が飛んだ。鉄の裏拳が肉薄する。顎を砕かれる前に姫華は肘で弾く。さらに拳が迫った。

《奴らから全て奪って叩き潰すの!》

「どうして私なの!」

 叫びながら姫華の腕が連撃に対処する。

《姫華ちゃん、お金欲しくない?》

 一瞬、身体が強張る。脳を撫でられるような、思考を鷲掴みにされるような感覚だった。フラッシュバックする記憶の中、ひとりの男の顔が脳裏に浮かぶ。

「龍斗……」

 龍斗は姫華の通うホストクラブのホストだ。

 姫華は入って間もない彼にナンバー入りさせる約束をしていた。

《覇金グループの金庫には30億円がある》

 30億円。聞いたこともない額だ。姫華は夜勤の稼ぎに換算しようとしてすぐに止めた。

「……そんな金、本当にあるの」

《あなたの眼前にいる機械男が全てを物語ってる。圧倒的な科学力。30億が存在しない理由なんてない》

 目の前で機械頭になった医師が、姫華の命を奪おうと迫ってくる。

 姫華は相手の動きを追う。滑らかな重心移動、正中線を正確に射抜こうとするセンサー、科学技術の粋が詰め込まれている。これが部隊で造れる財力。

 確信した。

 欲望が脳内を駆け巡る。楽観と快楽の泡が思考を包む。担当のアドトラック、積み上がったブランデーの塔、ナンバーワンに輝く担当の姿。夢を一度に叶える人生のボーナスタイムだ。馬鹿みたいなハッピーチャンスじゃないか。

「アッハッハ! シャンパンタワーで築城か!」

「不快な女だ……!」

 マローダーの打撃が空を裂く。互いの拳が顔面を打ち、距離が開いた。

 機械男は口端のオイルを拭う。白衣の袖が光沢のある黒色に染まった。セラミックの眼が姫華を捉えたまま闘志を燃やしている。

「頃合いか」

 頭にチップを差し込んだ。

《あれは塔のカンフーチップ!》

 両眼が怪しく発光した。

 機械男が急接近して蹴り上げた。受け止めきれず、採光窓を突き破った。

 病院に影が落ちた。空中で目を見張る。

 最初は天井があるのかと思った。

 違った。夜空を巨拳が覆い隠していた。

 黒い。それは夜空のそれとは違う。圧迫感を伴う死の存在感だ。

 拳が轟々と音を立てて落ちる様は、飛行機の墜落を姫華に想起させた。

 現実と虚構の境目が曖昧になる。

 姫華は悪寒に震えた。原始的な恐怖だった。

《集中して!》

 脳内で姉が叫び、我に帰る。

 窓ガラスをまといながら、下からマローダーが接近していた。裏拳が空気を裂く。

 空中で避ける術はない。姫華の思考よりも早く衝撃が脳を揺らす。強い力で地面に引っぱられた。視界の上下が何度も入れ替わる。身体に木の枝が当たり、べきべきと折りながら地面に叩きつけられた。

「ごは……」

 気づけば、背中には硬いアスファルトがあった。空気が肺から全て抜けて息ができるまでに時間がかかった。

 覇金の刺客に容赦はない。

 夜の闇に浮かび上がるように白衣が揺れる。機械頭が、姫華を覗き込んだ。

「5階から落ちたというのに……まだ生きているのか。厄介だな。カラテチップというのは」

 マローダーは言った。

 こっちだって好きで生きてるわけじゃない。

 そう言いたかったが、姫華の潰れかけた喉は言うことを聞かなかった。

 そのはるか向こうの空には、変わらず巨拳が浮いていた。

「起きろよ。やるんだろう」

 容赦ないマローダーの下段蹴りが、姫華の脇腹に入る。肋骨の嫌な音が耳朶を打つ。身体が地面を転がった。

 病院は山奥にあるようだった。黒い塊となった木々が白い病院を取り囲むように生えていた。

 立ち上がって構え直した。全身に力を込め、痛みを誤魔化した。

《動ける?》

「そんなわけないでしょ……」

 痛みは残るものの考えとは別に、身体は動きを取り戻していた。

《チップはあなたの回復力を高めてくれてる。首が飛ばなければいくらでも》

「死ぬ以外かすり傷か」

 どれだけ痛くても死ねない。永遠の呪いにかけられてしまったようだ。

「クソが……」

 固めた拳が緩みかける。

 何よりも恐ろしいものは他にあった。

 なるべく見上げないようにしても気になってしまう。影はどんどん大きくなっていた。

 空に浮かぶ拳が目を離した隙に、自分に迫っていると想像してしまう。じんわりと拳の中が汗ばんだ。

「ファフロツキーズだよ」

 マローダーは見透かしたように言った。姫華は首を傾げた。

「知らないだろうな」

 空気が引き裂かれる音が先にした。

 マローダーの凶暴な拳が鼻先を掠めた。

 確実に速度が増していた。打撃を捌くだけで腕にダメージが溜まっていく。

「教えてやろう。雨のように魚や蛙が降ってくる現象がある。イタリアでは血が降ることもある原因不明の現象だ……。俺は血もカエルも降らせない。ただ、拳だけを降らせる」

「あんただけの力で? ありえない……」

「カンフーチップなら出来るんだよ。カンフーの奥義は理想の成就にある」

 さらにマローダーの猛攻は続いた。

「自然生物から形意拳が生まれたように、強さの理想を追い求め、カンフーには新たな技術が生まれてきた」

《……マローダーは破滅こそ強さの理想なんでしょうね》

 姉は納得しているようだった。

「破滅?」

《タロットカードは知ってる?》

「それが何?」

《マローダーのチップには【塔】が描かれていた。塔が意味するのは破滅……》

 また、巨拳が大きくなっていた。

 答えは明白だった。マローダーはカンフーチップの表す概念を顕現させているのだ。

《あの拳はハッタリでもなんでもない》

 空ごと落ちてくると錯覚してしまう。このままいれば、確実に姫華自身の命を奪う。疑いもなく、目の前の事実が証明していた。

《ここは引きましょう》

 マローダーの拳を肘で受ける。衝撃が大きい。勢いを逃すために一歩引いた。

 チップの影響だ。先ほどよりも鋭い打撃が防御をしても骨に響く。

「残り7分」

 腕時計を見ながらマローダーは言った。

「俺たちに残された時間だ」

 巨拳の影は病院をすっぽり包んでいた。

 「見ろ」マローダーが指差す方向には駐車場がある。闇夜の中、赤いテールランプが灯っていた。

「あのバイクで山を下れば巨拳から逃れられるだろう」

「罠でしょう」

「俺は公平を好む。あのバイクは誓って爆弾も何もない」

《……なら退くしかない》

 姉の言う通りだった。空の拳をどうにかする術はない。姫華がバイクに向かおうとした。

「いいのか? こいつがどうなっても……」

 マローダーは姫華に言った。

 白衣から何かを取り出した。

 姫華は目を見開いた。

「あたしのスマホ……!」

「大切なんだろう?」

 鋼鉄の指が、黒い板を挟む。少しでも力を入れれば真っ二つになるのは明らかだった。

 人質をとる真似に姫華の血管が沸騰する。

「テメェ……!」

 姫華が右足で前蹴りを放っていた。

 スマホは姫華にとって全てが詰まっていた。シャンパンコールを撮った動画、龍斗とのLINE、アフターに行った時の写真。クソみたいな現実と自分を繋ぐものたち。失うわけにはいかなかった。

 マローダーは姫華の蹴りを左腕でいなした。そのままマローダーは右掌底を放つ。速い。姫華は寸前で片腕でブロックした。びりびりと痺れる。もろに食らっていれば骨が折れていたはずだ。

《今はあなたの命が大事。死んでは元も子もない》

「いやだ! あの中にはあたしの命がある!」

「ならば、カンフーデスマッチといこうか」

 マローダーの拳速がさらに増した。打撃の豪雨が姫華に浴びせかかった。

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