消えかけた狐
下村アンダーソン
1
つい先刻まで、鮮やかな夕陽に照らされて一面が燃え盛らんばかりであったというのに、遠い山々も広大な田畑も、はや墨を垂らしたような色濃い闇に覆われつつあった。気づけば人の往来もしばらく絶えている。家々の灯りさえない。草木のさざめきばかりが、やたら大きく耳朶に響くようで、ひとり車を転がしていたおれは思わず運転席の窓を閉じた。僅かな隙間からなにかが車内に忍び入ってくるような感覚に襲われたのだ。
能面のように無表情な、しかし眼光だけが異様に鋭い女の顔が、一瞬にして脳裡に浮かびあがった。打ち消すのに苦労しているうちに、その唇から発せられた刺々しい言葉の断片が甦ってきて、おれを苛んだ。無性に煙草が欲しくなったが、乗っているのは社用車だ。
おれがなにをしたというのだ。ただの雇われ運転手ではないか。
むりやり意識を引きはがし、ジーンズの腿で掌を拭うと、おれはハンドルを握り直してそろそろとアクセルを沈めた。人ひとり送り迎えするだけの単純な仕事と聞き、二つ返事で引き受けた次第だったのだが、そのときのおれはこうも朽ちかけたど田舎にやられるとは思っていなかった。もう何回か通った道なのにまるで慣れる気がしない。騙されたような心地だった。
そうはいっても、おれの部屋から車でせいぜい三十分程度の距離でしかないのだ。身近にこれほどの田舎が存在するとはまるで知らなかったおれとしては、ここがあたかも通常の生活空間から隔絶された場所であるかのように錯覚してしまうのである。
きっかけは友人だった。榊という名の、なにを考えているんだかよく判らない男で、このたびよろず屋を立ち上げたから暇なら手伝ってくれ、ととつぜん電話してきた。挨拶もそこそこに、「烏丸、おまえ以外に適当な人材が思い当たらないんだ」などと神妙に語りはじめたのである。
面白いのでしばらく話を聞いていた。おれ以外に人材がいないと言うくせに、彼の落ち着き払った口調からはどうしても来てくれないと困るといった切迫感は感じられなかった。来るのが正しい道なのだと説いている風ですらあった。そういう男なのだ。少なくともおれには、彼にくっついていて損した記憶というのはない。
情けないことに、決め手となったのは給料だった。大学を卒業してからこっち、その日暮しに近い悲惨な生活を送っていたおれは、飯代の足しを得るべく彼の申し出に飛びついたのだ。以来、花見の場所取り、犬の世話、夜を徹しての警備などといった仕事がときおり回ってくるようになった。それで今回は運転手である。
依頼人は飯綱亜矢子という三十代の女性で、基本的には決まった曜日の決まった時間に車を出せばいいという話だった。車は榊が用意していた。なんだそれだけかと高をくくり、榊にもらった地図に従って来てみたらこのど田舎である。初回など、うっかり迷いでもしたのではと不安になったくらいだ。
さらに困ったのは、この飯綱亜矢子という女が、なぜだか知らないけれども大変に愛想が悪いことだった。おれがなにかしたというんではない。第一印象からして冷徹極まりなかった。これは厭だと直感した。こういう悪い予感だけは、だいたい当たるものだ。
案の定だった。それから顔を合わせるたび印象は着実に強化され、近頃は作り笑いを浮かべるのすら億劫になりつつある。しかし客に文句は言うまいと我慢しているのだ、仕事だからと自分に言い聞かせながら。
そういう事情で、今日もおれは彼女を目的の屋敷まで送り届けたのである。なにをしに行っているのかはまるで知らない。ただ夜の九時に迎えに来いと申し渡された。降ろしたらさっさとどこかへ消えろ、と思われているらしかった。そんななか真ん前で待機しているのも莫迦らしいから、適当な空き地に車を停めて休むつもりで、来た道を引き返しているところであった。
面倒な相手だ。帰ったらいつまでの契約なのか榊に訊いてみようと考えた。もし一年契約済みだなどと言われたらどうしたものか。勘弁してもらいたい――。
はっとした瞬間、右足が勝手に急ブレーキを踏んでいた。ヘッドライトの淡い灯りに照らし出されて、いきなり眼に飛び込んできたものがあったのだ。
それは面のような顔――ぼんやりと宙に浮かんだ首だった。
化物。視界の隅にちらと映ったにすぎず、車が停止したときにはもう消え失せていたが……しかしそう見えた。心臓が早鐘を打っていた。浅く荒い自分の呼吸音が聞こえていた。
やがておれはより現実的で恐ろしい可能性に突き当たった。まさか自分は人を撥ねたのではないか。ぶつかった衝撃はなかったはずだが……。
嘘だろう、ついさっきまで誰も――畜生、冗談じゃない。
慌てて車を降りると路肩に小柄な少女がいた。凄まじいくらい色白で、着ている真っ黒な学生服との対比でますますその白さが際立って見えた。自分の目の前にいるこいつは本当に幽霊か、と思ったほどだった。「わたしがなにか……」とまっすぐに立ったまま少女は言い、それもまた肉声であることが信じがたいほどの、存在感の希薄な声だった。ともかく怪我はさせていないと判って、どっと安堵が押し寄せた。ドアを開けた瞬間には頭のなかを猛烈に駆け巡っていたものが、一息に速度を失ってゆるゆると溶けだしていくようだった。
大丈夫、怪我は、などと問いかけると、少女は「いいえ」と答えた。どこか不思議そうな表情だった。
「大丈夫です。わたしはずっと道の端を歩いていましたから。急停止されたのでどうしたのかと思いました」
静かな口調で少女は言った。背筋を伸ばした綺麗な姿勢を崩さずに、淡々とした言葉で彼女の側から見たことの顛末を語ってくれた。その話を聞くとどうやら、長らくなにもなかったところで唐突に人影を見たもので、おれが反射的にブレーキを踏んでしまっただけらしい。なんだ、ただのひとり相撲であったか。
「お急ぎでしょうにすみませんでした」
少女はまっすぐにおれの顔を見つめて言う。申し訳ない気持ちになった。彼女はただ歩いていただけなのだ。悪いのはおれである。いまさら気づいて平謝りしていると、「あの、もしかすると運転手さんですか」と問われたので今度はおれが首を傾げた。はあ、と曖昧に応じたところ、
「母がお世話になっている方ではないですか。わたし、飯綱史織といいます」
「娘さん?」
仰天した。長い髪に縁どられた白い顔は、飯綱亜矢子のものとは似ても似つかなかったからだ。それに亜矢子はまだ若いはずで、これほど大きな娘がいるとは思えなかった。
「はい。義理の娘です」
それなら合点がいった。義母の亜矢子に比べるとたいそう礼儀正しい史織におれは好感を持った。家まで乗せていこうかと申し出ると、史織は遠慮がちに「お願いします」と答えた。
車内でも史織は繰り返し謝罪の言葉を口にした。そのうち、先ほどの事故のことではなく、義母の亜矢子の態度について気に病んでいるらしいと察せられた。彼女の名が挙がるたび、消え入りそうな声になる。家庭でも苦労が絶えないのであろうと思ったが、無神経に踏み込むのも躊躇われた。
「母がいつも、ご迷惑をおかけして、わたし」
気にしないように言い、なんとか話題を逸らそうと画策した。たいした人生経験もないおれにとり、最も奇妙で面白いのは榊という友人の存在だった。おれをここに送り込む原因となった男である。大学時代の知り合いが唐突によろず屋をはじめたのだと語ると、史織も興味を示したようだった。
「どういう方なんですか、榊さんて」
「ひとことで言うとおかしな奴。どうでもよさそうなことをいろいろ知ってて、どうでもよさそうなことに首を突っ込みたがる」
「へえ、面白い人ですね」
「傍から見てると面白いかもしれないな。本人は大真面目というか、常人にとっては取るに足らないことをものすごく大事にしたり、反対に、おれたちが重視することを平気で無視したりする。付き合いはそれなりになるけど、未だによく判らない人だ」
それなら……と史織がなにごとか言いかけて口ごもった。先を促すと、低い声でこう訊いてきた。
「狐についてなにかご存じでしょうか。神話や伝説というか、妖怪というか、そういう意味での狐です」
「きつね?」
どのような答えを求めているのか判然としなかったが、受け売りとはいえおれにも僅かばかりの知識があった。榊はその手のことに詳しいし、おれ自身も多少なり関心を抱いているのだ。
飯綱という苗字を聞いて真っ先に連想していたのは、管狐のことだった。これの別称がイヅナ、鼬のような生き物である。鼬や狐のイメージは混交しがちなものだが、管狐もその名の通り、竹筒にすっぽり収まってしまうほど長細い。そうやって管狐を飼いならし、使役する者を飯綱使いと呼んだりする。霊獣としての管狐は、富をもたらすだとか、予言をするとか、あるいは人に憑依するとかいった力を持つとされている。
史織はおれの話をしばらく黙って聞いていたが、やがてぽつりと、
「その狐に憑かれたら、どうなるんでしょう。追い払う方法とか、あるんでしょうか」
「狐憑きだからな、言動がおかしくなるとか、体調を崩すとかじゃないか。落とすには相応の方法があるんだと思うけど、気になるならちょっと調べておくよ」
「……あの、もし烏丸さんが憑き物落としをするとしたら、どうしますか。いますぐ自分だけでやれって言われたら」
「いますぐ? 素人だからな。昔は、憑き物を追い出そうとして殴ったり蹴飛ばしたりした例もけっこうあったらしいけど。おれなら宥めて背中をさすってやるくらいしかできそうにないかな」
奇妙な質問だと思った。答えを聞いて史織は黙考しているようだった。ちらりと横顔を盗み見ると、彼女が唇をかすかに動かして、繰り返しなにか呟いているのに気づいた。断言はできぬものの、こう読めたように思う。「暴力」
おれは素知らぬふりをし、また話を変えることにした。飯綱という言葉には手品という意味もあるのだ、と。明るい話題に転じえたと内心喝采したのだが、しかし史織は表情を暗くし、
「母は手品に凝っているんです」
「……そうなんだ」
「でも手品は嫌いじゃありません。いくつかはできます、下手ですけど」
そのときちょうど飯綱家の前まで来たので、おれは車を停めた。別れ際、史織はおれを振り返り、すっと片腕を突き出した。なにごとかと思った次の瞬間、彼女の手には青い花が握られていた。見事な技だった。ちっとも下手なんかではない。おれが手を打つと、史織は小さく笑って、
「たいしたことありません。烏丸さん、今日はありがとうございました」
言いながら、指のあいだの花にふっと息を吹きかけた。青い花びらがはらはらと散り落ちた。
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