第30話 悪い噂
ムールの宿には魔法使いがいる――そんな噂をジンが聞いたのはヲーティスの祭りを一週間後に控えた豪雨の一日だった。
酷い雨のため街の外に行くことも出来ず、仕方なしに街中を巡っていた極普通の一日はなんとなく入った飯屋で一変した。
隣のテーブルに座っていた大工風の男達が話していた会話の中に魔法使いという単語が聞こえたのだ。
その瞬間にジンの意識は聴覚に傾いた。頼んだ定食を口に運びつつ耳を澄ます。
男達は口元に手を当ててひそひそと声量を抑えているつもりなのだろう。
ただ職業柄かそれでも男達の声はジンの耳に届いた。
「魔法使いがいるって……それ本当なのかよ」
丸太のような腕をした男があり得ないといった様子で聞いた。
「なんでもムールの宿は魔法使い達の集会場になってるとか……ここ最近街中この噂で持ちきりだぜ。それに実際に怪しい連中がうろうろしているのを見たって奴がいるらしい」
「マジかよ⁉」
酒に顔を赤くした男が大声をあげた。その声に反応して周囲の客が一斉に男の方を向く。
慌てて男たちは大きな体を縮まらせた。
「馬鹿野郎」
「悪い、悪い」
ドキッとしたのはジンも同じだ。
酔いが急激に醒めたのか声を出した男は申し訳なさそうに俯いた。
そこからは本当のひそひそ話に変わったため意識のほとんどを耳に持って行く必要があった。
「けど、本当にあの宿に魔法使いがうろついてるのか?店主も人の良い感じなのに」
太い腕の男は話を丸っきり信じられなかった。
ムールの宿といえば、料理よし、接客よしのアルミーダでも人気の宿屋の一つだ。
あの木材の温かみを感じられる宿と魔法使いがどうしても繋がらなかった。
「俺も最初は信じられなかったさ……けどよみんな言っているんだぜ。それにこんな冗談みたいな話が広まるなんて逆に真実っぽくないか」
確かに、と疑念を抱いていた男が呟いた。
みんなが言っているから、これ以上に人を信頼させる言葉はないのかもしれない。
みたい、らしい、そんな語尾を上書きするほどの威力がその言葉にはある。
やれやれ、ジンはそっとかぶりを振った。
魔法使いがムールの宿にいる、そう聞こえたからドキドキしながら聞いていたのにどうやら自分がヘマをしたわけではないようだ。
そもそも魔法を使っていないのに魔法使いだとバレるはずがないのだ。
なるべく街中では魔法は使わない――普段から心がけている習慣に助けられた。
火のない所に煙は立たないと言うが、今回は煙だけが充満しているようだ。人気の宿屋のため嫉妬を買うこともあるだろう。
同業者が悪評をばらまき客を奪うなんてよくある話だ。
きっとこの話もそうだ。こういう突拍子もないデマは広まるのも早いが消えるのもまた早い、気に掛ける必要はないだろう。ジンはそう結論づけて席を立った。
ちなみに頼んだ定食はきっちりと完食していた。
「まいどありー」
元気のよい中年の女性の挨拶に見送られジンは土砂降りの中街へと繰り出す。
しばらくこの街で暮らすことは確定しているのだから生活用品を新調する必要がある。
確かスピカもどこかの店で服を見繕っているはずだった。
「めんどくさ」
思わず独りごちる。世の男と同様、ジンも買い物という行動がそれほど好きじゃなかった。
この時には店で聞いたムールの宿の悪評はジンの脳内から消えかけていた。
飯屋で食事をした後、服やら雑貨やらを買い込みムールの宿に帰ったジンの頭の中は再びあの悪評を思い出していた。
いや思い出していたというより、今日一日中ジンの頭はそのことが消えなかった。
なぜなら、入った店の中、道を歩いている時も常にあの噂はジンの耳に入ってきたからだ。
デマにしてはあまりに広まりすぎていた。
一体どこの誰が吹聴しているか知らないが明らかに意図的に広められたとしか思えないほど爆発的に情報が拡散していた。
こうなるとデマだとしても宿への影響は避けられないだろう。
これだけ情報を拡散させるには最低でも二日前ぐらいから吹聴し始めていたに違いない。
昨夜の夕食時に妙に人が少ないと思ったが、この噂が関係しているのだろう。
魔法使いの溜まり場を覗こうとする物好きなど歴史に残る偉人か大馬鹿のどちらだ。
そこまで考えた時、ふとセニアと両親の顔が浮かんだ。
仮にアルミーダに居場所を失ったら彼らは又新天地を求めて移動しなければならない。
くそっ、そう毒づいてジンは頭をかきむしった。
「ジン、かえってきてるなら開けてくれ」
不意にドンドン、扉を叩く音と共にスピカの澄んだ川のような耳心地のよい声がした。
セニアやドーアさんなどが部屋を尋ねてくることはあってもスピカが部屋に来たことなど一度もない。
何事かとざわざわした心臓を落ち着けてジンは扉を開けた。
「あの噂は聞いたか」
部屋に入ってくるなりスピカが強い口調で聞いてきた。スピカも雨の中外出していたのだからあの噂を耳にしないわけがなかった。
ジンは「あぁ」とだけ短く答えた。
スピカは余程頭にきたのか話す前から怒りがにじみ出ていた。
「まったく酷い話だ!」
そう言ってスピカは怒りをぶちまけるように語り出した。
憶測が真実のようになってきていること、さも見たかのように語り出す馬鹿がいたこと、はてはいかにセニアが良い子なのかをジンの前で熱弁し始めた。
正直付き合わされるのは勘弁だという気持ちもあったが、それを言うと余計長引きそうなのでジンはひたすら神妙な顔で聞いていた。
急がば回れってやつだ。
ひとしきりスピカがまくし立てた後、ジンは取りなすように口を開いた。
「別に魔法使いが本当にたむろしているわけじゃないんだ、噂なんていつかは消えるはずだ」
それは自分に言い聞かす意図もあった。魔法使いはオーガみたく角が生えているわけでもなければゴブリンのように緑色の肌をしているわけではない。
見た目で分からない、つまり魔法を使っているところさえ見られなければ魔法使いだとバレることもないわけだ。
ジンがこの宿に床を構えて数週間、魔法を使ってもいないし形跡もない。
証拠がないのだから、というよりデマに証拠などあるはずないのだが、いつかは民衆も気づくだろう。
恐らく数日、いや数週間は客足が遠のくだろう。だが永遠に続くことはない。
それまでは耐えるしかないのだ。だが、スピカは重大な事実を告げるように深刻そうな顔で言った。
「それが……セニアちゃんが魔法使いという噂も広まっているんだ」
「なに⁉」
悪い話には続きがあるようだった。
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