第23話 圏外の呼び声

1998年、PHSが若者たちの間で大流行していた時代。携帯電話に比べて安価で軽量、特に通話料が手頃だったため、高校生や大学生にも手が届きやすい存在だった。当時は、友人や恋人との連絡手段としてPHSが必需品のように扱われ、機種ごとに違う着信音や、持ち主の個性を表すストラップが流行していた。


***


美和も周囲の友人たちに影響されるようにしてPHSを購入した一人だった。


夏休みのある日、美和は駅前のリサイクルショップで、中古のPHSを見つけた。値札には「2,000円」と書かれている。新品のものに比べて格段に安かったこともあり、彼女は迷うことなく購入を決めた。


「やっぱりお得だよね。ちゃんと動けばいいけど。」


家に帰ってすぐに充電し、動作確認をしてみると、特に問題はなさそうだった。美和は早速友人たちにPHSの番号を教え、楽しそうにメッセージのやり取りを始めた。


しかし、そのPHSには奇妙な特徴があった。それは、美和が「圏外」の場所に行くと、見知らぬ番号から着信があるということだった。


***


それが初めて起きたのは、美和が友人たちと近所の神社へ遊びに行った時だった。山間にある神社は電波の届きにくい場所で、友人たちのPHSも「圏外」を示していた。


「ここ、全然使えないじゃん。」


友人がため息をつく中、美和のPHSだけが突然鳴り出した。


「え……? 圏外なのに?」


画面には見覚えのない番号が表示されている。不思議に思いながらも、美和は通話ボタンを押した。


「もしもし?」


しかし、返ってきたのは無機質なノイズと、小さな「助けて……」という声だけだった。


「何これ……」


声はすぐに途切れ、通話が切れた。美和は気味が悪くなりながらも、「ただの悪戯だろう」と自分に言い聞かせ、友人たちにそのことを話さなかった。


それから数日後、同じようなことが繰り返された。


学校帰り、友人と人気のない路地を歩いていた時だった。ふとPHSが鳴り始め、画面にはまた見知らぬ番号が表示されていた。友人が不思議そうに見守る中、美和は通話ボタンを押した。


「……助けて……」


同じ声だった。かすれた、感情のないようなその声が、低く響いてくる。


「誰? 何を助けてほしいの?」


美和が尋ねても、応答はない。ただ繰り返し「助けて……」と囁くばかりだ。美和は恐怖に耐えられず、慌てて通話を切った。


「どうしたの、美和?」


友人が尋ねたが、美和は「なんでもない」と首を振った。


しかし、その夜、美和のPHSにはさらに異常なことが起こった。深夜、寝室の机に置いてあったPHSが突然光り出し、着信音が鳴り響いた。画面には「圏外」と表示されているはずなのに、再び同じ番号が浮かび上がっていた。


「……また?」


恐る恐るPHSを手に取った美和は、通話ボタンを押すべきか迷った。だが、その時、スピーカーから何かが漏れ聞こえてきた。


「……見てる……」


美和は息を呑み、手を震わせながらPHSを机に置いた。通話を取らないまま、布団を頭までかぶってその音から逃れようとした。だが、その後もPHSの着信は鳴り止まず、美和の耳元で「助けて……」という声が何度も囁かれる気がした。


翌朝、顔色を悪くした美和は母親に「PHSの調子が悪いから使いたくない」と訴えた。母親は「安物だったからね」と苦笑いし、深くは気にしなかったが、美和はその日からPHSを持ち歩くのが怖くなっていった。


しかし、彼女がそのPHSを手放せば済むというわけではなかった。


***


美和はPHSを封じ込めるように机の引き出しにしまい、なるべく忘れようとした。しかし、それでも奇妙な現象は止まらなかった。


その夜、深く眠っていた美和は、どこからか聞こえてくる小さなノイズ音に目を覚ました。「ザー……ザー……」という微かな音が、耳元で繰り返されているようだった。最初は外から聞こえてくるのだと思ったが、どうやら部屋の中からだと気づいた。


「まさか……」


美和は布団を握りしめながら机を見つめた。引き出しの中にしまったはずのPHSが、かすかに光り、ノイズ音を漏らしている。美和は心臓が早鐘を打つのを感じながらも、意を決して引き出しを開けた。


そこには、画面が明るく光るPHSがあった。着信画面にはまたしても見覚えのない番号が表示されている。


「……誰なの?」


美和は震える指で通話ボタンを押した。


「助けて……」


再びあの声だ。しかし、今度はそれだけではなかった。声の向こうから、何かが叩くような音や、複数の足音のような音が聞こえてくる。そして次第に、その声がこう続けた。


「ここにいる……」


「……え?」


美和は思わずPHSを耳から離した。だが、音は止まらない。スピーカーから流れ出る声が、「助けて」「ここにいる」と何度も繰り返していた。そして、声は徐々に大きくなり、次第に怒りや悲しみのような感情が混ざった調子になっていく。


「助けて……見てる……お前を……見てる……」


その瞬間、美和の背後で小さな音がした。


「カタ……カタ……」


振り返ると、机の上に置かれた鏡の表面に何かが映っているのが見えた。ぼんやりとした人影――顔ははっきりせず、ぼやけた輪郭の中に、じっと美和を見つめる何かがいた。


「嫌だ……! 何なの、これ!」


美和はPHSを引き出しに投げ込むと、それを力任せに閉じた。鏡の影も消えたが、彼女の震えは止まらなかった。


翌日、美和は学校に向かう途中、また別の不思議な出来事に遭遇した。放課後、友人の真由が急にこう話し始めたのだ。


「昨日、夜中に変な夢を見たんだよね。誰かが暗い部屋にいてさ、何度も『助けて』って言ってた。」


その言葉に美和はぎょっとした。


「え……それ、どんな部屋だった?」


「よくわからないけど、古い木の机が見えた気がする。何かを探してるみたいだった。」


美和の部屋にある机の特徴と一致していた。まさか自分のPHSを通じて、友人にまで影響が及んでいるのだろうか。


その夜、美和はPHSを廃棄することを決意した。夜遅く、誰にも見られないように家を抜け出し、町外れのゴミ収集所へ向かった。


「これで終わり……これで……」


美和はPHSをゴミ袋に放り込み、深呼吸をした。しかし、帰り道、後ろから微かな音が聞こえてきた。


「……助けて……」


振り向くと、闇の中に何もないはずの道に、人影のようなものが浮かび上がっていた。それは先ほど鏡に映っていたものと同じ形だった。


「もうやめて……!」


美和は必死で走った。家に戻り、ドアを閉めて鍵をかけると、そのまま布団に潜り込んだ。もう関わらない。二度とあのPHSを触ることはない。そう自分に言い聞かせた。


翌朝、安心した美和は机に向かおうとした。しかし、引き出しを開けた瞬間、血の気が引いた。そこには、廃棄したはずのPHSが置かれていた。そして着信が鳴り響き、勝手に通話ボタンが押された。


「……次は、お前だ。」


PHSのスピーカーが低く響き、無数の声が同時に囁き始める。美和は後ずさりし、気づけば影が壁や天井に広がり始めていた――それが全て彼女を見つめている。


その日以降、美和の姿を見た者はいない。ただ、彼女の部屋にはPHSだけが残され、通話中を示すライトが不気味に点滅していたという――。

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