第3話 アッシーくんの最期
平成2年(1990年)、日本はバブル景気に浮かれ、華やかな時代を迎えていた。「アッシーくん」という言葉が流行し、女性たちはまるでそれを当然のように使いこなしていた。電話一本で車を出し、どこへでも送り迎えをしてくれる男性たち――彼らは恋愛対象にさえならないことが多く、ただ“足”として存在を許されていた。
***
和彦が彼女と親しくなったきっかけは、単純な偶然だった。ある日、キャンパス内で一緒に授業を受けた帰り、彼女がふと漏らした。「表参道まで行きたいけど、バスは面倒くさいな……」その言葉に反応するように、和彦は意を決して声をかけた。「車出そうか?」
それが彼と香織の関係の始まりだった。それ以来、香織は頻繁に和彦に車を頼むようになった。
「和彦、明日も迎えに来てね。六本木のクラブに行きたいの。」
「今夜、ちょっと寄りたいお店があるから付き合って。」
彼女の言葉はいつも命令に近かった。香織は感謝の言葉を述べることもほとんどなかったが、和彦はそれでも構わなかった。助手席に座る香織の横顔を見るたびに、彼は彼女が自分のそばにいることだけで十分だと感じていた。だが、その時間の中で、彼の心には次第に小さな疑問が芽生え始めていた。
香織はいつも携帯電話を手放さず、車内では別の男性と楽しげに話していることが多かった。和彦が話しかけても、うわの空で返事をするだけ。彼女にとって和彦は、ただ便利な「足」でしかないのではないかという不安が少しずつ膨らんでいった。それでも彼は、その状況を変えられなかった。香織の頼みを断れば、自分は完全に切り捨てられるのではないかという恐怖があったのだ。
そんな日々が続いていたある夜のことだった。時計の針が深夜を指し示す頃、和彦の家の電話が鳴った。当時はまだ携帯電話が普及し始めたばかりで、香織は自宅の固定電話からかけてきたようだった。
「和彦、お願い、すぐに迎えに来て!」
彼女の声は焦りに満ちていた。
「どうしたんだ?何かあったのか?」
「山道にいるの。車が故障しちゃったみたいで……怖いから早く来て!」
香織の切迫した声に突き動かされ、和彦は眠気を振り払って車に乗り込んだ。自宅を飛び出し、彼女が言っていた郊外の山道へ向かう。夜の道路は静まり返り、街灯の少ない道を走るたびに、背筋に冷たいものが走った。
香織の言っていた場所に到着すると、彼女の車が停まっているのが見えた。助手席に座る香織の姿がぼんやりと見える。和彦は車を降りて駆け寄った。
「香織、大丈夫か?」
「遅いよ……寒くて仕方なかったんだから。」
彼女は不満げな声を漏らしたが、その顔はどこか青ざめていた。
「何があったんだ?」
「……よく分からないの。運転してたらエンジンが止まっちゃって。それに、さっき誰かに見られている気がして……」
彼女の言葉に、和彦は不安を覚えた。夜の山道は人の気配など全くなく、風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
「とにかく車に乗れよ。ここにいても仕方ない。」
和彦は自分の車に彼女を乗せると、その場を離れようとした。しかし、エンジンをかけた瞬間、背後から何かが車の屋根を叩くような音がした。
「……今の、何だ?」
香織は黙り込んだままだった。和彦はミラーを覗き込んだが、そこには何も映っていない。ただ、背後に確かな違和感を感じて振り返ると、香織が言葉を詰まらせながら呟いた。
「ねぇ、今……誰か、いる?」
和彦は車内の異様な静けさに息を呑んだ。彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、突然ラジオが勝手に作動し、低い男性の声が響いた。
「お前……逃げられると思うなよ……」
その声は明らかに人間のものではなかった。
和彦の手はハンドルを握りしめて震えた。香織も恐怖に顔を強ばらせたまま、窓の外を警戒するように見つめていた。和彦は声の正体を確かめることもせず、アクセルを強く踏み込んだ。タイヤが激しく道路を滑り、車は急発進した。
「今の……なんだったんだ?」
和彦の声はかすれていた。ラジオは静まり返り、まるで何事もなかったかのようだった。香織は助手席で両手を握りしめ、小さく震えていたが、すぐにこう呟いた。
「……あの声、前にも聞いたことがある。」
「聞いたことがあるって、どういう意味だよ?」
香織は震える唇をゆっくりと開いた。そして、和彦には到底理解できない話を語り始めた。
彼女にはかつて、別の「アッシーくん」がいた。その男性は香織に尽くし続け、和彦と同じように車でどこへでも連れて行ってくれた。だが、その関係は次第に歪んでいった。彼は香織の行動を監視するようになり、他の男性と話すだけで怒りをあらわにするようになったという。
「もう限界だったから……連絡を絶ったの。でも……その直後に、彼、事故で死んじゃったの。」
香織は言葉を詰まらせた。
「その事故、もしかして……」
和彦が聞きかけた時、突然、車の後部座席から低い笑い声が響いた。
「……覚えていてくれたか。」
和彦と香織は同時に振り返った。そこには、何もいないはずの座席に男の影が座っていた。助手席の香織は悲鳴を上げ、和彦は急ブレーキを踏んだ。しかし、車はなぜか止まらず、スピードが増していく。ハンドルを切ろうとしても、全く言うことを聞かない。
「お前たちを許すわけがない……ずっと、ここで待っていたんだ。」
背後の声はどんどん冷たく、凄みを増していく。車の窓に霧のような手形が次々と浮かび上がり、ガラス越しに外の景色が歪んでいった。和彦は絶叫しながらハンドルを握りしめたが、車は崖に向かって一直線に進んでいた。
「お前も同じだ……足代わりにされて……捨てられるんだ……」
その声は背後から低く響き、和彦の体は凍りついた。振り返る勇気も出ないまま、視線をミラーに向けると、そこには後部座席に不気味な男の顔が映っていた。目は虚ろで、生気のない皮膚が青白く光っている。その男の冷たい笑みは和彦を見透かすようだった。
「誰だ……お前は……」
和彦が震える声で呟いた瞬間、車が激しく揺れた。ハンドルを握る手に異様な力が加わり、車は制御を失って急加速し始めた。香織が悲鳴を上げる。
「止まらない!どうなってるんだ!」
和彦は必死にハンドルを切ろうとしたが、その腕に冷たい何かが触れた。後部座席にいた男の手が彼の腕を掴み、力づくでハンドルを押さえつけている。
「やめろ!」
和彦が叫んだ瞬間、視界の先に崖が迫ってきた。
「香織、降りろ!早く!」
和彦が叫ぶが、香織は動けないまま座席にしがみついている。車はそのまま崖へと突っ込んだ。和彦は最後の力を振り絞り、香織の腕を掴んで助手席のドアを開けようとした。しかし、彼の手を掴む冷たい力がそれを許さない。
「俺を置いていけると思うな……」
その瞬間、車は崖下へと吸い込まれるように落ちていった。
翌朝、山道を通りかかった作業員が崖下に転落した赤いスポーツカーを発見した。車体はひしゃげ、窓ガラスは粉々に割れていた。警察が現場に到着し車内を調べたが、運転していたはずの和彦も、助手席に座っていたはずの香織も、どこにも見当たらなかった。
ただ、車の後部座席には無数の泥の手形がべったりと残されていた。指の跡は不規則で大きさも様々。まるで複数の手が一斉に掴みかかるような形跡があったという。
そして、その車の中から一つだけ見つかったものがあった。香織がよく使っていた携帯電話だった。その携帯には、未送信のメッセージが表示されていた。
「助けて――」
メッセージが作成されたのは、和彦が彼女を迎えに向かった時間と一致していたが、送信先は空白だったという。
事件は原因不明の事故として処理され、二人の行方は闇に消えた。だが、数年後、同じ山道で深夜に不思議な体験をしたという噂が囁かれるようになる。通りかかった車の窓に、突然無数の泥の手形が浮かび上がる。そして、耳元で聞こえる低い声――
「足代わりにされて……捨てられるんだ……」
そう囁かれた者たちは、決まってその場を逃げ出すという。そして二度と、その山道を通ることはなかった。
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