エンタメ短編「骨まで削った愛」

木村 瞭 

第1話 福原正一には井田奈津美と言う恋人が居る 

 福原正一には井田奈津美と言う恋人が居る。

彼女は顔も躰も小作りであるが、プロポーションは抜群に良い。未だ二十三歳と言う若さなので、立つと脚がすらりと伸びてヒップがピンと尻上る。いつも髪を後ろに引っ詰め、ジーンズを履いていることが多いので、見た目は男っぽく見えるが、根は優しくて女らしく可愛げのある女性である。

 奈津美は出来ることなら新劇の女優になりたいと思っていたので、その何かと要り用の金を稼ぐ為に新宿のダイニングバーへアルバイトで勤めた。だが、そう簡単に女優になれる訳でもなく、小さな劇団に通いながらバーに勤めている時に、福原正一と知り合ったのである。

 初めて奈津美と出逢った夜、正一の意識の片隅に何かが引っかかった。何かが意識の何処かを撫でて行くように感じた。その夜、店に足を踏み入れて「いらっしゃいませ」と言う声を聞いた時、その言葉が何か現実から離れて宙で歌われたように正一には聞こえた。彼は半ば夢心地でカウンターの片隅に腰を下した。奈津美は腰掛けた正一の処へ水を差し出しながら「何になさいますか?」と尋ねた。

「何日もの水割りを」

それ以来、毎日訪れる正一に奈津美は明るい笑顔を向け、親し気に注文を聴いて言葉を交わすようになった。カウンターの傍に立つ彼女の姿には特別な印象があった。背は少し低くめだったが、若い娘らしく優しい柔らか味があり、身体つきはすらりとして、スカートの裾からは真直ぐな歪みの無い脚が伸びていた。

 女性に対しては晩熟で、いつも、良いと思う女性と出逢っても、他人に先を越されていた正一であったが、奈津美の時だけは、将に一目惚れで、躊躇すること無くまっしぐらに猪突猛進した。半年間、毎日のように彼女の居るバーに通って口説き落とした。

 それは梅雨もそろそろ終わりに近づいた或る日のことだった。

昨日から降り続いていた霧のような雨が昼前に止み、明るく晴れ上がった街を涼しい風が吹き過ぎて、道行く人々の心も軽やかだった。正一はその日、午後から社外での仕事の予定があったので、昼食もそこそこに、地下鉄の駅へと急いだ。彼が階段を降りてホームに入って行くと、その正面に奈津美が立っていた。それは全く不意打ちの偶然だった。夜の酒場で会っている彼女とはまるで印象が違った。正一は思わず知らず慌てふためいて、良く知っている知人に逢ったかのように親しく挨拶をした。挨拶をされた奈津美は、何の不思議も無く、自然な笑顔で挨拶を返した。その時の彼女の笑顔は静かな花がゆっくりと開くような表情だった。

「これから、劇団へ?」

「ええ」

煩い地下鉄の中で、一緒に乗っていた十五分足らずの時間に正一が聞き出すことが出来たのはほんの僅かなことだったが、それでも、彼女の私的な概略を掴むことは出来た。

降りる駅に電車が着いた時、奈津美は笑顔を浮かべて「さよなら」と言い、正一に背を向けた。その柔らかな肩から背中の線を眼にした時、正一は思わずその後を追うようにしてホームに降り立った。彼女は追って来た正一に気付いて、吃驚したような眼を見開いた。

なんて黒い潤んだ眼なんだ・・・

正一は感嘆した。

「今度、何処かに誘っても良いかな?」

「誘う?」

言葉の意味を図りかねるように奈津美は言った、が、直ぐに明るい微笑を顔に浮かべた。

「ああ、判りました。ええ、良いですよ」

 

 高校を卒業した正一は東京の有名な私立大学に入ってワンゲル部で山野を歩き、青春をそれなりに謳歌した後、今の会社に就職した。その間、二人や三人の女性と友達交際をすることはあったが、その誰とも恋愛に発展するような関係には至らなかった。

だが、会社の残業帰りにふらっと立ち寄ったダイニングバーで井田奈津美に出逢ったことが正一の運命を決定付けた。

「人が安息する夜にまで、然も、酔客相手に作り笑いをする仕事なんて、君もやりたくは無いだろう。なあ、一緒に暮らそう、二人の生活は俺の給料で何とかやっていけるよ。そして、昼間は劇団に通ってしっかり演劇の勉強をすれば良いじゃないか、な」

「えっ、正ちゃん、真実にそんなことをして良いの?」

「ああ、良いよ。そうしろよ、直ぐに、な」

「有難う!わたし、正ちゃんにしっかり尽くすからね」

そう言って奈津美は自分から正一を求めて彼に抱かれて行った。

それから一カ月後に、二人は一緒に暮らし始めた。同時に奈津美はバー勤めを辞めた。

 正一は直ぐにでも結婚する心算だったが、故郷の茨城で小学校の校長をしている父親が日本の古いモラルに拘る堅物で、二人のことを許してはくれなかった。正一は、仕方なく、自分たちだけで結婚してしまおうと肚を決めざるを得なかった。

 奈津美の方も、二年余りの間、演劇に足を突っ込んでみて、自分に才能が無いことに気付いた。正一と一緒に暮らし始めてからは、演劇のことなど忘れてしまったかのように正一一途の生活を送っている。

正一は、彼女を二十三歳の若さで家庭に閉じ込めてしまうのは少し可哀そうな気もしたが、奈津美は意外と家庭的で、せっせと手料理を作り、小まめに掃除洗濯を熟して、正一が仕事で帰りが遅くなっても、食事も摂らずに刺繍や編み物などをしながら待って居た。

二十六歳の正一と二十三歳の奈津美とは年恰好も丁度良く、二人は此の侭真直ぐに結婚へと進む予定だった。

 ところが、三か月前の夏の初めに、奈津美が思い掛けない事故に遭って入院を余儀なくされてしまった。


 

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