ポップコーンの海に沈む

宇多川ユウキ

【Chapter1. ポップコーン】

 大学では映像を専攻しているが、他に心理学の授業を取っているためか、一学生という身分でありながら珍妙な事件――それこそ推理小説のジャンルにおける『日常の謎』的な不可解な事件の捜査依頼をよく持ち掛けられる。


「一応確認しておくんですけど……これ死んでませんよね?」


 僕の目の前には、一人の成人男性が部屋中に大量のポップコーンを撒き散らし、左手には不気味な落書きを、右手には木製のボウルを握りしめて、仰向けの状態になって白目を剥いて倒れている。


「死んではいません。脈は取りました。でも――」


 真っ白な柔肌の奥に秘められた美しき双眸の黒曜石が震えている。管理人の古賀悠里さんと僕が足を踏み入れたこの二〇一号室は、キッチン・トイレ・浴室付き六畳一間の和室であり、居間に当たる畳敷きの床の上に、一人の成人男性が大の字になって倒れている。


 しかも、アパートの裏手側に面した腰窓の硝子が粉々に砕けて、二月初旬の冷え込んだ空気が僕の心を嘲笑うようにして駆け抜けていく。


「雪雄さんはファンキーな性格の男性ですが、これは異常な光景です。事件性が無いとは言い切れません」


 窓硝子が割れていてしかもその部屋の住人が白目を剥いて倒れているのだから、まず真っ先に強盗の線を疑うだろう。


 原田雪雄(25)はこの部屋の主人であり、この事件の被害者(?)である。


 僕と同じ美術系大学に通う院生で、どうやら洋画を学んでいるらしい。残念ながら彼とは同じアパートの廊下で会釈を交わす程度の間柄なので、プライベートに関する知識をこれ以上は持ち合わせていない。


 肩まで伸びた金髪のロン毛と顎髭と銀のイヤーカフが何とも言えぬパンクな雰囲気を醸し出している。根暗オタクの僕とは棲む次元が違うことを外観からして物語ってくれる親切な男性だ。彼のような人間と関わり合いを持つことは万に一つとしてあり得ない。


 そんな馬も反りもまるで合わない男性の部屋に何故僕がいるのかと言えば、雪のように白い柔肌と毛先にかけて小さくウェーブのかかった黒髪を持つ想い人の古賀さんに助けを求められてしまったからに他ならない。


 少しだけ話を過去に巻き戻すと――あれは昨夜の出来事である。


 僕は同じ学科の先輩に連れ出されて、自主制作映画の撮影に付き合わされていたのだが、この先輩というのがとにかく凝り性で、『無職のおっさんが失意のどん底から立ち上がり小豆を洗う』という意味不明な1カットの為に何度もリテイクを積み重ねて、それこそステディカムを得たキューブリックのようなこだわりを見せた末に、十一時には終わると約束されていた撮影時間は押しに押して、日付が回りきった午前二時三〇分にようやく終了。


 そこから先輩の家に連れ込まれて、この国の伝統行事に則った手荒い歓迎を受けて全身に青あざをつけながら解放されたのが明朝五時半。


 徒歩四〇分掛けて自宅アパートに辿り着いた僕を待ち構えていたのは、同市の美容学校に通う傍ら、親族が経営するアパートの管理人業務を手伝う古賀悠里(20)女史だったというわけで。


「取りあえず原田先輩を叩き起こして、何があったのかを訊ねてみれば万事解決だと思うんですが――」

「それが出来たら苦労しませんよ」


 耳元にかかった黒髪のウェーブを掻き上げる古賀さんの話によれば、原田先輩は一度泥酔して眠ってしまうと半日以上は目を覚まさず、最長三十六時間も眠り続けていたことがあるらしい。


 金髪の傍にしゃがみ込み無骨な頬をペチペチと叩いてみるが、一向に目を覚ます気配はなく、目元は朱の色に染まり、呼気から強いアルコールの匂いが漂ってくる。


 古賀さんは憂いを帯びた蝋人形のような眼差しで腕を抱きかかえると、


「私は管理人代行として原田さんが何かしらの事件に巻き込まれているのでしたら、然るべき対応を取る必要があります。でも、いつも通りシンプルに酔って爆睡しているだけなら、放置します。かえって警察の方々にも迷惑でしょうし」


 管理人業務を手伝うという条件付きでアパートの一室を無償で間借りする古賀さんの目には、烈々たる正義の炎が猛り狂っていた。


長谷倉はせくら真楼まろうさんは、様々な事件の謎を解き明かした探偵だと聞いています」

「いや、事件ってほど大したものを解決した憶えは一度もありませんし、探偵と呼ばれるほど大層な身分でも――」

「お願いします。せめて事件か事故か、自殺か他殺かだけでもはっきりして欲しいんです」

「いや……死んでないんですけど、この人……」


 正義感が強すぎるあまり視力が低下しがちな古賀さんだが、彼女の神秘的な柔肌に惚れ込んでしまったのは他でもないこの僕であり、惚れた腫れたの何とやら……ヴァン・ダインの二十則に倣い、推理小説上での不必要な恋愛描写は避ける方向で記述を進めますが、恋心に訴え掛けられてしまった以上、見過ごす事も出来ないだろう。


「分かりました。僕に出来る事はあまりないとはいますが……やれるだけの事はやってみましょう」


 古賀さんの頬が朱色に染まる。僕は彼女の小柄な身体を抱きしめたいという禍々しい劣情に全身を支配されてしまうのだが、そんなことをすれば婦女暴行罪で警察官の取り調べを受けることになるのは僕の方だ。胸の前で両腕をクロスさせて自制心を保つ。


 新鮮な空気を吸い込み、脳を酸素で充満させると、『金髪男卒倒事件』の捜査に取りかかったのである。

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