12.カラヴィンカ

 立ち寄った家の少女と別れ白い雪の積もる山に足を踏み入れる前に、シャクラはしばし考えた。村の者達からヤクシャへの態度は掴めたが、難を逃れる術は聞きそびれた。それではどうするかといえば、彼らとの遭遇を避け極力早く目的を遂げて去る他ないのだった。

 まず彼は忘れ物があるかのように引き返す素振りで、ヤクシャの潜む大岩から距離を取った。そして村の出口近くの家の物置小屋に滑り込んだ。ここでなら正体を現し千天眼を開いても見つからないはずだ。彼は簡易な防護の術を小屋にかけ戸を開かないように封じると、座って瞑想を始めた。


 此度のスジャーのいる場所はここより更に高く雪の積もった地の、広い円形の湖だった。その湖は青く美しく輝き、直ぐ傍に三日月のように歪みなく整った曲線の湖岸を持つもう一つの湖がある。彼のかつての妻は相変わらず細い脚を濡らしながら浅瀬で魚を捕っていた。どうやら猟師も容易に近づけない場ではあるようだ。人の獲物となる危険性は薄いが、獣を糧とする山の霊達の手からも逃れられるとは限らない。

(スジャー、早くきみを連れて帰らなければ……)

 シャクラはそう内心で呟き、意識を肉体に引き戻し始めた。戻りながら彼の千天眼は目的の湖と村との位置関係を把握した。そうして彼は小屋から出ると、改めて眼前に聳える白銀の山を見据えた。


 足元の冷たさは山に足を踏み入れると一層増して凍み入るようだった。シャクラは今、ラークシャサの姿を取っている。人間や獣のまま進めば、ラークシャサやヤクシャに食物として襲われる可能性がある以上、そのどちらかに変化するのが安全だろうと判断した。幸い、彼は地上に派遣されてラークシャサの退治を何度か行ったことがあり、彼らの獲物への振る舞いは多少見ている。

(この姿で顔を合わせないよう警戒しながら歩くしかないな。額の天眼だけなら化けていても使える。ヤクシャやラークシャサに近づいたとしても、俺の方が先に認識できるはずだ。)

 彼はまた、スダッタとの会話からこの山の力関係を推測した。ヤクシャはこの土地では崇められる神だが、ラークシャサはアーリアの民の土地のものと変わらず邪悪な化け物扱いであるらしい。ならば、前者が後者を見下し制御されるべきものと捉えているとみて良いはずだ。

 その点からも、ラークシャサの姿の方が怪しまれにくいだろう。多少ヤクシャから見て可笑しな動きをしても「間抜けが愚鈍なことをやっている」程度で見逃される可能性はある。

 さて、先へと進む彼の視界に入る動物にはアーリアの民の国々には生息していないものもいる。彼は水牛に似た生き物の美しく白い毛並みに目を見開き、また野犬の堂々とした体格に舌を巻いた。獣は服を着ない。凍える大地で生存できるのは、こうした体の造りのものに限られるのだろう。

 山を暫く登った頃、シャクラの頭上から子供達の笑い声が聞こえた。彼は声に釣られるように顔を上げた。そこにはインコの成鳥ほどの大きさの三羽の奇怪な鳥の姿があった。薄緑色に輝く胴と翼は鳥のもので、絹で編んだかのように美しい赤い尾羽を持つが、顔は人間の子供のものだ。

「あっ、こっち見た! ねえねえ、変なモンがこっち見たよ」

「ホントだぁ! アハハハ」

 どうやら顔立ちのとおり子供のようなこの鳥達はシャクラを笑い者にしているらしい。何をもって「変」と捉えたかは彼の知るところではないが、あまり騒ぎ立てられると山に棲む者達の注目を集めてしまう。追い払わなければならない、と彼は判断した。

「おい、鳥ども! このおれの何処が可笑しいんだ、言ってみろ。舐め腐った真似をするようなら羽根を引き千切って食い殺すぞ!」

 シャクラは如何にもラークシャサらしく荒々しい声を張り上げて脅迫した。だが子供の顔をした鳥達は怯える素振りを見せない。

「アハハ、食い殺すだってさ!」

「あんた、ニセモノのラークシャサなのに?」

 愕然とするほかなかった。彼の変化はこの奇怪な子供達に易々と見破られたのだ。これではこの山の支配者達の目は到底欺けない。急ぎ次の手を考えなければならない。

「なんだと……おい、何故分かったんだ」

 シャクラは尋ねながら声の震えを自覚した。ブリハスパティから学んだこの魔術で、かくも言い逃れ得ない大失敗をしでかしたのはこれが初めてだった。

「だってあんた、体がキレイすぎるもん! 本物のラークシャサは食べたケダモノの血や肉の染みや臭いがこびり付いてるはずだよ」

「爪も真っ白じゃん。ラークシャサの爪はあぶらと血で汚れてるんだよ!」

「そうそう。本物はもっと、エジキを探して目がギョロギョロしてるよ!」

 子供達は悪意なく笑いながらも手厳しい指摘を突き付けた。とはいえ、相手の声が可愛らしいものであったためシャクラは次第に落ち着きを取り戻し、苦笑した。

「そうか。そいつは良い勉強になった。ありがとう。ところで、君たちは何者なんだ」

 シャクラは子供達の言葉に従い、手始めに先端が尖ってはいたが確かに白く汚れのない爪を獲物を引き裂く猛禽の鉤爪のように曲げ、また脂が染みているように見せかけた。眼も眼窩から突き出すように見開いた。

「あたしたち、カラヴィンカ! あたしはシュリー、こっちはプーナとミガーラ。みんな北山天に住んでるの。ねえねえ、バレちゃったんだからあんたの負けだよ! なんかちょうだいよ!」

 トラーヤストリムサの戦士には聞き覚えのない名であったが、カラヴィンカとは彼らの言葉どおり北山天及びそれと地続きのヒマラヤの山々に住む霊鳥である。彼らは皆、類い稀なる歌声を備え、孵化に至るより早く卵の内から囀り始める。

「悪いが俺は今、何も持ち合わせていないんだ」

 シャクラは肘を曲げ両手を大きく開いて見せた。しかしカラヴィンカの子供達は承知せず、彼の目の前まで舞い降りて言い立てた。

「あんた、どっか他所から来たんでしょ? ラークシャサのニセモノなんて初めて見るもん。じゃあ他所の歌を教えてよ!」

「そうだよ、カラヴィンカは歌が大好きなんだぞ」

 シャクラは子供達を幾らか煩わしく感じもしたが、要求を聞いてやらないことには離れてくれそうにない。

「歌か……歌えないわけではないが、ちょっと待ってくれ」

 シャクラは急ぎ覚えている歌を一通り頭に浮かべた。しかしカラヴィンカは彼の前を去った後、気まぐれに行きたいところに行くに違いない。ヤクシャ族がアーリアの神々の社会についてどの程度把握しているかは定かではないが、トラーヤストリムサの恋歌や神々への賛歌を口にすれば聞きつけた者の間で騒ぎになりかねない。

 彼はまた、この鳥の声について考えた。彼らを見るのは初めてだが、子供らしい騒ぎ立ての一つを取っても、キンナラの歌声にも劣らず耳が惹きつけられる美声だ。この感覚は以前にも経験した覚えがある。彼の心には不思議とカシュヤパ覚者の姿が浮かんだ。

 カウシカ姓のバラモンであった彼がカシュヤパ覚者と出会ったのは、二十半ばの頃であった。僅かな数の弟子を連れて帰る家無き旅を続けるこの出家者の姿は青年の日のマガの目を吸い寄せ、彼は二、三の問答の後には早くも夏安居の世話を申し出ていた。

 スジャーと共に覚者を供応した数か月の間、カシュヤパが彼に語った数々の教えは開拓村の青年の生涯を一変させた。マガは神に助けを乞う者から、神の国を目指す者になったのだ。

(そういえば、カシュヤパ先生が別れ際に、「もし神々の一員になれたならば次なる覚者の道標を担ってほしい」と託してくれた偈があった。今ここで彼を思い出したのも、あの因果が続いているからこそに違いない。)

 シャクラは左の掌で軽く喉を叩き、何度か深く呼吸をした。

「いいか、一度だけだぞ。二度は歌わないからな」

 彼がそう言うと、カラヴィンカ達は興味津々の面持ちでシャクラを見つめた。彼は手拍子を交えながら歌い出した。

「過ぎ去りし日の善逝者 その名はカシュヤパ大尊者 偉大なる師は説きたまう 次代なる弟子に告げたまえ 諸行無常アニッチャー ヴァタ サンカーラー 是生滅法ウッパーダヴァヤ ダンミノー 生滅滅已ウパッジトヴァー ニルジャンティ 寂滅為楽テーサム ヴーパサモー スコー 、諸行無常アニッチャー ヴァタ サンカーラー 是生滅法ウッパーダヴァヤ ダンミノー 生滅滅已ウパッジトヴァー ニルジャンティ 寂滅為楽テーサム ヴーパサモー スコー

 カラヴィンカの内、ミガーラはつまらなそうな表情を浮かべ、興味を喪ったらしく舞い上がって空を旋回し始めた。残る二匹はシャクラの歌う声を復唱した。

「アニッチャー ヴァタ サンカーラー、ウッパーダヴァヤ ダンミノー……変わった言葉、どういう意味?」

 シュリーは首を傾げて尋ねた。

「昔、俺の師が教えてくれたこの世界の真理の一つだ。諸々のつくられしものが不変であることはない。生まれたからには滅ばなくてはならない。生まれて一年経たずに死ぬ虫もいれば、万年を生きる神々もいるが、どちらも死と転生からは逃れられない。お前達も俺も、この姿のまま留まり続けることはできない。その続きは……」

 その時、上空にいたミガーラが大きな叫び声を上げた。

「人間が来たぞ! 崖の上だ!」

 プーナは慌てだし、しきりに大きく羽ばたいた。

「アミを投げて来るよ、捕まる前に逃げよう、シュリーも!」

 麓の村の人間には猟により生計を立てる者もいるとは聞いたが、この美しい声で鳴く鳥も食物と見做すとは。或いは網を用いるからには、捕らえた後は生きたまま王侯などに高く売るのか。シャクラは良い気分になれなかった。

 ともあれ霊鳥たちは人間を警戒して飛び去った。残されたシャクラは内心で胸を撫で下ろした。これで彼らに騒がれることはない。人間は逆に、ラークシャサに化けた彼の姿を見れば震え上がり、命惜しさに来た道を引き返していくことだろう。

 だが湖を目指して再び歩きだすその前に、自らに向けられた視線の存在、即ちこれから起きるもうひと波乱をシャクラは既に察知していた。

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