金剛の天帝―神々の黙「視」録―

ミド

水底に沈む正義の神

「最初に言っておきますが、神々の副王様は厳しいお方ですよ。機嫌を損ねないようにくれぐれもご注意を。さもなくば恐ろしい病に捕らわれることもあると聞いています」

 西方の守護神の地位にある四天王の一柱、ヴィルーパクシャは背後から付いてくる若い神スシーマにそう警告した。しかし、スシーマは海中に立つ宮殿を飾る宝飾や、海と直接繋がるにも関わらず屋内へは水を一滴も通さない不可思議の庭を物珍しそうに眺めまわしてばかりだ。ヴィルーパクシャの言葉をどこまで真剣に捉えているかは定かではなかった。

 ヴィルーパクシャも歩きながら宮殿を包む静寂に感心してはいた。ここには天帝の宮殿のようにガンダルヴァの楽師たちやアプサラスの踊り子たちはいない。ただ世界の監視者としてのヴァルナに仕え、宮殿を維持する者や主君の仕事を補佐する者だけが留まっている。

(流石、アスラの正当な王ヴァルナ様だ。仕官する者達も規律に従順で緊張感があり、彼の偉大さの前では竜族も首を垂れる)

 この宮殿の主であり神々の副王である海の神ヴァルナはヴィルーパクシャと共に世界の四方のうち西の神・人・そして魔性の者の間の秩序を維持する役割を担っている。

 二神のうち、地位だけでなく権威も圧倒的にヴァルナの方が上である。ヴィルーパクシャは西の海に棲む竜族の総督も兼ねているが、この世の畜生の頂点にあるという自負から気位の高い彼らとの交渉には梃子摺ることもしばしばだ。それだけに、高く聳える宮殿の柱に彼らが装飾の一部のように行儀よく巻き付く様はヴィルーパクシャを感嘆させた。

 やがて謁見の間の前に到着した彼らは、王の従者である珊瑚憑きのヤクシャに要件を告げた。

「偉大なる海の支配者、アスラ族の王にして天の国の副帝にあらせられるヴァルナ神にお目通りしたく存じます。四天王の一角、西方のヴィルーパクシャと天界の神の子スシーマが参りましたとお伝えください」

 従者はスシーマを怪訝そうに眺めた上で王のもとへと歩いて行った。

「地位がある方ならまだしも、この宮殿を若い神が訪れるのは珍しいのです。ヴァルナ様は多くの神から好かれるような気質のお方ではありませんから」

 ヴィルーパクシャは小声で説明した。

「そうなんですか? だけど、僕に『デーヴァとアスラの戦の発端を知りたければ、私やこの国の別の地位ある神だけでなく副王ヴァルナをも訪ねよ』と言ったのはインドラ様ですよ」

「その理由でここに行かせようとするのは、道理のあるお考えではありますが良い案だとは思いませんよ。ヴァルナ様は本来であればアスラ族を統べる立場にあったお方なのです。語りたくないことも多いでしょう」

「へぇ、ヴァルナ様ってアスラ族なんですか。じゃあきっと、インドラ様はアスラの立場からの話を聞くべきだとお考えなんですね」

 若い神スシーマにはヴィルーパクシャの言葉の意味するところが読み取れなかったらしい。かつては栄華を誇った一族の殆どが天界から追放され、残された数少ないアスラ族の有力者が、当時の話をせよと言われて良い気分になるかどうか。

 と、ヴィルーパクシャは言いかけたが、やめた。それは彼自身の願望だ。ヴァルナという神が物事をそのように捉えてはいないと、関わる機会の比較的多い彼の方がよく知っている。

「天界に残ったアスラ族なら、愛想の良いバガ様やダクシャ様もいらっしゃるのですから、そちらをお薦めすべきだったと思いますがね」

「え、あの方たちもアスラ? 全然怖くないのに?」

 それも知らなかったのか、という半ば軽蔑交じりの声がヴィルーパクシャの喉から出かけた。彼から見ればこのスシーマという神は呆れるほど能天気だ。そして、物分かりが悪いのではないかとも思わせる。

 丁度その時ヴァルナの従者が戻って来たために彼の気は逸れた。


 赤、白、薄紅の見事な珊瑚で飾られた玉座に腰掛ける神々の副王ヴァルナは天界からの訪問者を迎えた。彼は正義を貫く者らしくあり一方では海の底に沈んだ龍や鯨や大魚の行く末を思わせる色でもある髪を、黒く輝く真珠で飾り、その顔は氷の塊のように感情を見せない。武器を取ることの滅多にない者であるため彼の身は痩せているが整っており、決して貧相ではない。大仰ではないが限りなく鋭い短剣を思わせる神である。

 加えて、太陽の光が射さず篝火より他に灯りのない海底の宮殿にあっては、神々の身から自ずと放たれる光は天上よりも遥かに目立つものだが、ヴァルナの輝きは広大な謁見の間の隅々までを照らしている。ただそこに在るだけで強大な神であることを知らしめる目映さであった。

 ヴィルーパクシャは横目でスシーマの様子を見た。案の定、威圧感の前に表情が強張っている。彼は内心で喜び、また口添えしてやる気になった。

「この者は天の国の副帝陛下にお伺いしたいことがあり、参りました。どうかお言葉を賜りますよう」

 ヴァルナは視線を一度上に遣った後、二人を改めて見つめた。この宮殿の王の頭上は、神々の王の宮殿ヴァイジャヤンタの玉座の間の天井と同様に遍く世界を映す帝網で覆われている。

「その前にヴィルーパクシャよ、デーヴァの王の調子はどうだ」

 ヴァルナには魔術で世界の隅々までを探る力がある以上、天界の様子も知ろうと思えば知れるはずである。ヴィルーパクシャは四天王の地位を得て暫くの間、この神の発言の意図がわからなかった。どうやら、相手の意見が聞きたいときも時折このように言うらしい。

「天上は調和に包まれた豊かな世界で、陛下は常と変わらずご健勝でおいでです。ただ丁度同じように、私が参上するとしばしば副帝陛下のご様子を尋ねられます。ご不在を気に掛けておいでなのでは? 私を使者として使って頂けるのは光栄ですが、偶にはご自身でお訪ねになられるべきではないかと考えます」

「そうだろうか? 天則の神はアスラが天界の中心であった頃から常に口煩い者だと煙たがられているとばかり思っていたが。そもそもこのヴァルナは今となっては古い神だ。三界の調和と正義はあの男に任せると決めた。天上に用はなく、神々の国も私に用は無い。尚も会いたいというのならばあちらからご足労願いたい。無下に追い返しはしないと伝えよ」

 彼の言葉どおり、ヴァルナは目に余る不正義が為されていると認識する、或いは他の重大な事情が限り天界を訪れることはなく、また用が済めばさっさと自らの宮殿に戻る。彼の縁者も必要があればこの海の底まで来るのが常であった。

「次、若き神の子よ、この古い神に尋ねて何の新しく得ることがあるだろうか」

 ヴァルナがそう尋ねたとき、スシーマの意識は両神のやり取りからこの海底の宮殿の主について読み取ることで占められていた。そのために彼は、自分が物を尋ねられていると認識できなかった。ヴィルーパクシャはスシーマの肩を軽く叩いて報せた。

「ええっと、僕はデーヴァとアスラの戦の発端を知りたく……あっ、その前に、インドラ様のご紹介により、ヴィルーパクシャ殿のご案内で参りました、スシーマと申します。司法神ヴァルナ様にお会いできて光栄です」

 スシーマは慌ててヴァルナに向かって両手を合わせた。

「改めて、僕の望みはアスラが天界に攻めてくる理由を知ることです。インドラ様のお言葉では、副王ヴァルナ様にお話を伺うべきだそうですので、どうかご教示ください」

 事情を聞いたヴァルナは意地の悪い笑みを浮かべた。

「ヴィルーパクシャ」

「はい」

「神々の王はこの者にヴィローチャナやヴェーマチトリンの言い分を聞かせたいのか。それならばお前が話せ。私の心に彼らの考えはない。お前にはあるようだがな」

「いいえ、ヴァルナ王がご存じの事を私も聞きたく存じます」

 そう答えるヴィルーパクシャの声は震えていた。それを不可解に感じたらしく、スシーマは両神を交互に見た。

「あの、どういう意味ですか。ヴィルーパクシャ殿はアスラの王達と交流があるんですか? って、四天王はいつも前線で戦うことになるんだから顔を合わせていて当然か……」

 スシーマが当惑をそのまま口に出すと、ヴァルナは再び笑った。

「ヴィルーパクシャの事は、彼が話すまで待ってやれ。さて若き神スシーマよ、あらかじめ言っておくが長い話になるぞ。始めに、そもそも天界とは本来はあの一層だけを指すものではないのだ」

「それくらいは僕も知っていますよ。僕達デーヴァやカンダルヴァ他眷属たちの住んでいるトラーヤストリムサは地上と繋がる下層から二番目の天で、それより上の天には然るべき魔術を知るかあちらの住人から呼ばれない限り入れない。上天に住む神々は……ええと、世間では五欲が極めて薄いと言われていますよね。地獄の統治者ヤマ様や、この世の全ての真理の顕れであるブラフマー様といったごく少数の例外を除けば、彼らにとって自分の生まれた天より下の世界はただ劣った場所に過ぎないから、支配したいとも思えないと。トラーヤストリムサの住人としては、そう言われて良い気分はしませんけどね」

 知識の無い者と侮られた事への不服か、或いは話題となった上天の神々への反発からか、スシーマは憮然としながら答えた。

「その通りだ。では彼らがトラーヤストリムサの住民を下位の存在と見做す理由は?」

「彼らは僕らより優れた力と寿命を持っています。また彼らから見れば僕達の行動は欲だらけに見えるからでしょう。それに、生まれる天の階層は過去生での行いに応じて定まるものですから、上位の天に生まれた事自体が優れた者である証です。インドラ様は『命は今生で終わりではない、今からでも更に善行を積め』と仰ってくれますから、常日頃に不満はありませんが」

 スシーマの返答に、ヴィルーパクシャは思わず食って掛かった。

「それはお前達が……!」

「ヴィルーパクシャ、喋りたいのか? 以前に、お前は後から悔やむようなことは避けるべきと判断したのだと言っていた。もし気が変わったのなら話すと良い」

 ヴァルナの声は冷ややかだった。ヴィルーパクシャは急速に蒼褪め、俯いた。

「いえ、ヴァルナ様、失礼しました」

「私はお前がそうしたところで、何も変わらないと思うがな。お前を四天王の地位に就かせたのが誰だったか忘れたのか?」

 ヴァルナを恐れ、またスシーマに対する苛立ちを露にするヴィルーパクシャに対し、苛立たせている当人は事情が呑み込めず引き続き困惑していた。とはいえ彼も愚鈍ではない。ヴァルナの物言いからある程度の推測は行っているが、それが正しければ面と向かって尋ねるのは相手を不快にさせるとわかっている。

(多分、ヴィルーパクシャ殿も……)

「まあいい。若き神スシーマよ、基本的にはお前の認識のとおりだ。神々も輪廻に拘束され転生を繰り返す。殆どの人間は知らないようだがな。今から話す過去の出来事の為に、私にはこれを尋ねる必要があった。さて、これよりこの地上すれすれの『おかしな天界』についてこのヴァルナが見聞きしたものを語ろう。デーヴァとアスラの戦の発端は、我々の天に生を受けたシャクラという男が神々の王即ちインドラとなったことにある。そう、彼が現われる以前から何代にも渡り天帝インドラはいた。先の天帝インドラがシャクラを後継者と認め禅譲したからこそ、あの男はデーヴァの王の座に着きインドラの称号で呼ばれるのだ。よって、彼が先帝に見出された経緯から語ることとしよう。まずトラーヤストリムサの住人は、そもそもはダスユと呼ばれる者達と敵対していた——」

 天の国の副帝は、そうして語り始めた。


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